目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第5話

伊藤の顔に貼りついていた媚びた笑みが、途端にぎこちなくなる。


星野黎子は小さく鼻で笑い、指先のタバコが薄暗い照明の中で赤い軌跡を描いた。


「バイト?あいつが?ただの捨て犬みたいなもんでしょ。」


その言葉に、個室の空気が一瞬で凍りつく。


数人の同級生たちが驚いた目で互いを見合わせる。まさか星野がここまでストレートに言うとは思っていなかったのだろう。


伊藤は気まずそうに笑い、私に視線を投げて場を取り繕おうとする。


「そ、そうだよね、星野専務の言う通りだよ。いつまでも星野家にすり寄って、まるで分不相応な夢でも見てるんじゃない?」


その言葉が投げ込まれると、場にいた連中が一気に悪意を乗せて盛り上がる。


「おいおい、もしかして専務のことが好きなんじゃないの?」


「学生時代に必死だったのも、結局は玉の輿狙いか!」


「でも専務がこんなの相手にするわけないだろ?」


嘲笑が部屋の天井を揺らす。


無遠慮な視線が、まるでサーチライトのように私に注がれる。その軽蔑と好奇心が入り混じった目線には、もう慣れたはずだったが、かつての同級生からのものとなると、やはり胸に小さな棘が刺さる。


「星野専務、ご指示がなければ、外でお待ちします。」


私は深く頭を下げ、できる限り冷静に声を出す。


「誰が出ていいって言った?」


星野は目もくれず、テーブルを指さした。


「こっちに来て、飲みなさい。」


三つのグラスが並び、色の濃いウイスキーがなみなみと注がれている。アルコールの強い香りが暖房のきいた部屋に立ちのぼる。


これまで彼女に付き合って何度も飲みの席に顔を出してきたが、私は一滴も飲んでいない。


胃が弱いのも本当だし、酒に強くないのも事実だ。


「星野専務、私の胃のことはご存知かと思います。」


私は最後の自制心を保ちつつ、丁寧に断った。


再び爆笑が起こる。


「聞いたか?胃が弱いってよ!ヒモ生活も楽じゃないな!」


そこに、よく知った声が割り込んできた。あからさまな嘲り。


渡辺修。東大時代の同級生で、かつて奨学金を巡って因縁ができた相手だ。


彼は前に出てきて、満足げに笑いながら分厚い札束を取り出し、テーブルに叩きつける。


「一杯で十万だぞ!」


私を見下ろしながら声を張る。


「モテ男さんよ、ヒモ生活したいんだろ?チャンスだぜ。三杯飲めば三十万だ、どれだけ粘れるかな?」


札束がグラスの下に押しつけられ、鮮やかな赤が目に刺さる。


拍手と口笛が飛び交い、渡辺に賛同する空気が広がる。


伊藤は腕を組んで、面白そうに眺めている。


星野はソファに身を預け、グラスを揺らしながら黙っている。その沈黙は、暗黙の承認だ。


「三秒。」


星野が冷たく言い放つ。


私は一杯目を手に取った。


冷たい液体が喉を通った瞬間、熱い刃物のように胃へと広がる。


二杯目。焼けるような痛みが体中に広がり、視界がかすかに揺れる。


三杯目。強烈なアルコール臭が鼻に突き刺さり、胃の中がひっくり返る。


「やるじゃん!」伊藤が手を叩くが、口元は皮肉げに歪んでいる。


渡辺は嬉しそうに星野の肩を叩いた。


「黎子、いい感じにしつけてるな!」


そして札束を掴み、腕を振り上げて、札を私の顔に叩きつけた。


紙の端が頬骨をかすめ、鋭い痛みが走る。


同時に、猛烈なめまいと胃の激痛が襲いかかり、私はよろめいて壁にぶつかり、そのまま床に座り込んだ。


「立て!」


星野の声が鞭のように響く。


「はい。」


私は壁を支えに立ち上がろうとするが、床が波打つように揺れ、照明がぼやけて見える。


「失礼します……少し外します。」


ほとんど這うようにして、重い個室の扉を押し開け、外へと出た。


背後から星野の冷ややかな声が追いかけてくる。


「誰が行っていいと言った、森川健太!」


振り返らない。


これ以上ここにいたら、胃の中身をぶちまけてしまいそうだった。


廊下の眩しい照明に目を細めながら、冷たい壁に手をつき、意識を繋ぎ止めるようにしてトイレへと向かう。


ようやく洗面台にたどり着き、激しくえずくが、出てくるのは酸っぱい液体だけ。


頭がぼんやりし、灯りが灰色の輪郭ににじんでいく。


「森川健太?」


驚いたような女性の声が響く。


聞き覚えのない声だが、今の私には不思議と優しく感じた。


意識が途切れる直前、目の前に美しい顔が近づいてくるのが見えた。


どこかで見たことがある気がするが、思い出せない。


「健太!」


誰かが私を支えてくれる。その手の温もりに、どこか動揺した気配が混じっていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?