伊藤の顔に貼りついていた媚びた笑みが、途端にぎこちなくなる。
星野黎子は小さく鼻で笑い、指先のタバコが薄暗い照明の中で赤い軌跡を描いた。
「バイト?あいつが?ただの捨て犬みたいなもんでしょ。」
その言葉に、個室の空気が一瞬で凍りつく。
数人の同級生たちが驚いた目で互いを見合わせる。まさか星野がここまでストレートに言うとは思っていなかったのだろう。
伊藤は気まずそうに笑い、私に視線を投げて場を取り繕おうとする。
「そ、そうだよね、星野専務の言う通りだよ。いつまでも星野家にすり寄って、まるで分不相応な夢でも見てるんじゃない?」
その言葉が投げ込まれると、場にいた連中が一気に悪意を乗せて盛り上がる。
「おいおい、もしかして専務のことが好きなんじゃないの?」
「学生時代に必死だったのも、結局は玉の輿狙いか!」
「でも専務がこんなの相手にするわけないだろ?」
嘲笑が部屋の天井を揺らす。
無遠慮な視線が、まるでサーチライトのように私に注がれる。その軽蔑と好奇心が入り混じった目線には、もう慣れたはずだったが、かつての同級生からのものとなると、やはり胸に小さな棘が刺さる。
「星野専務、ご指示がなければ、外でお待ちします。」
私は深く頭を下げ、できる限り冷静に声を出す。
「誰が出ていいって言った?」
星野は目もくれず、テーブルを指さした。
「こっちに来て、飲みなさい。」
三つのグラスが並び、色の濃いウイスキーがなみなみと注がれている。アルコールの強い香りが暖房のきいた部屋に立ちのぼる。
これまで彼女に付き合って何度も飲みの席に顔を出してきたが、私は一滴も飲んでいない。
胃が弱いのも本当だし、酒に強くないのも事実だ。
「星野専務、私の胃のことはご存知かと思います。」
私は最後の自制心を保ちつつ、丁寧に断った。
再び爆笑が起こる。
「聞いたか?胃が弱いってよ!ヒモ生活も楽じゃないな!」
そこに、よく知った声が割り込んできた。あからさまな嘲り。
渡辺修。東大時代の同級生で、かつて奨学金を巡って因縁ができた相手だ。
彼は前に出てきて、満足げに笑いながら分厚い札束を取り出し、テーブルに叩きつける。
「一杯で十万だぞ!」
私を見下ろしながら声を張る。
「モテ男さんよ、ヒモ生活したいんだろ?チャンスだぜ。三杯飲めば三十万だ、どれだけ粘れるかな?」
札束がグラスの下に押しつけられ、鮮やかな赤が目に刺さる。
拍手と口笛が飛び交い、渡辺に賛同する空気が広がる。
伊藤は腕を組んで、面白そうに眺めている。
星野はソファに身を預け、グラスを揺らしながら黙っている。その沈黙は、暗黙の承認だ。
「三秒。」
星野が冷たく言い放つ。
私は一杯目を手に取った。
冷たい液体が喉を通った瞬間、熱い刃物のように胃へと広がる。
二杯目。焼けるような痛みが体中に広がり、視界がかすかに揺れる。
三杯目。強烈なアルコール臭が鼻に突き刺さり、胃の中がひっくり返る。
「やるじゃん!」伊藤が手を叩くが、口元は皮肉げに歪んでいる。
渡辺は嬉しそうに星野の肩を叩いた。
「黎子、いい感じにしつけてるな!」
そして札束を掴み、腕を振り上げて、札を私の顔に叩きつけた。
紙の端が頬骨をかすめ、鋭い痛みが走る。
同時に、猛烈なめまいと胃の激痛が襲いかかり、私はよろめいて壁にぶつかり、そのまま床に座り込んだ。
「立て!」
星野の声が鞭のように響く。
「はい。」
私は壁を支えに立ち上がろうとするが、床が波打つように揺れ、照明がぼやけて見える。
「失礼します……少し外します。」
ほとんど這うようにして、重い個室の扉を押し開け、外へと出た。
背後から星野の冷ややかな声が追いかけてくる。
「誰が行っていいと言った、森川健太!」
振り返らない。
これ以上ここにいたら、胃の中身をぶちまけてしまいそうだった。
廊下の眩しい照明に目を細めながら、冷たい壁に手をつき、意識を繋ぎ止めるようにしてトイレへと向かう。
ようやく洗面台にたどり着き、激しくえずくが、出てくるのは酸っぱい液体だけ。
頭がぼんやりし、灯りが灰色の輪郭ににじんでいく。
「森川健太?」
驚いたような女性の声が響く。
聞き覚えのない声だが、今の私には不思議と優しく感じた。
意識が途切れる直前、目の前に美しい顔が近づいてくるのが見えた。
どこかで見たことがある気がするが、思い出せない。
「健太!」
誰かが私を支えてくれる。その手の温もりに、どこか動揺した気配が混じっていた。