会社のロビーに足を踏み入れた瞬間、空気の中に奇妙な視線が漂っているのを感じた。
無数の目がじっと背中に貼り付いてきて、好奇心と、隠そうともしない嘲りが混じっている。
いつものオフィスの前に立ったとき、ようやくその理由が分かった。
冷たい金属のドアノブが天井の光を反射している。
――鍵が変えられていた。
大きなガラス越しに、星野黎子の姿がはっきりと見える。
彼女は広いレザーの椅子に脚を組んで寄りかかり、手にはペンをもてあそびながら、無表情な目でこちらを見下ろしている。口元にはあからさまな嘲笑が浮かんでいた。
「星野専務」
ガラスを軽くノックしながら声をかける。
「すみません、ドアを開けていただけますか?」
彼女は小さく鼻で笑い、その声は仕切り越しにもはっきりと聞こえた。
「開ける必要ある? 君の荷物はそこに置いてあるわ」と、顎で隅を指す。
壁際には段ボール箱が三つ、うず高く積まれていた。中には私の書類や本、細々とした私物が詰まっている。
「スペースを空けておいたから」
彼女は軽快な調子で、まるでどうでもいいゴミでも話すように続けた。
「これからは廊下が君の新しいオフィスよ。君の厄が私の部屋に移ったら困るからね」
明るい廊下に沈黙が広がる。
遠くでキーボードの音や、ひそひそ声が微かに響く。
私は何も言わず、黙って腰をかがめて重い箱を運び始めた。
詰まった書類が、重みでかすかな音を立てる。
「まだいるの?」
勝者の余裕をにじませた声で彼女が急かす。
「はい」
私の声は驚くほど静かだった。
こうして、星野コンツェルングループの最上階の廊下に、ちょっとした奇妙な光景が生まれた。
書類が冷たいタイルの上に広がり、私は床に座り込んだ。
壁に背を預け、膝の上でノートパソコンを広げて、まるで廊下の隅で罰を受けている学生のようだった。
時おり、ハイヒールや磨かれた革靴が視界を横切り、微かな風を巻き起こす。
「森川さん」
マーケティング部の責任者が書類を手に近づき、表向きは丁寧な口調で声をかけてきたが、目は床のゴミでも見るように冷たい。
「この契約書、ご確認とサインをお願いします」
私は受け取って、「分かりました」と答える。
紙面に目を落とすと、「田中グループ」の社名が目に飛び込み、思わず眉をひそめた。
――あの星野黎子とホテルでいちゃついていた小泉洋の顔が脳裏をよぎる。
「この契約、問題があります」
いくつかの条項を指摘した。
責任者は口元をわずかに歪めて、見下したように言う。
「森川さん、これは星野専務のご承認です」
どういうつもりだ、と心の中で冷笑した。
愚かしいにもほどがある。
単に条件が厳しいだけならまだしも、この契約の核心は「物流産業支援基金」なるものの設立にあった。
星野コンツェルンは巨額の資金だけでなく、成熟した物流ネットワークまで提供することになっている。
だが田中家は今、借金まみれで物流事業の実体すらない。
契約が成立すれば、星野コンツェルンの資源や資金は、彼らの手でまとめて売り払われ、利益の半分以上を簡単に持っていかれるだろう。
お金は私のものじゃない。損失も関係ない。
だが、この契約に私のサインが入れば、責任はすべて私にのしかかる。
資金流用、職務怠慢――最悪の場合、社会的に抹殺されかねない。
「待ってください」
書類を握りしめて立ち上がる。
星野黎子のオフィスの重いドアを押し開けると、彼女は甘ったるい声で電話中だった。
「もう、やめてよ……」
椅子にだらしなくもたれかかり、顔には媚びた笑み。
私が入ってくると、その笑顔が一瞬で凍り付き、すぐにまた嘲りと苛立ちが混じった表情になる。
彼女は真っ赤なネイルの指で私を呼び寄せた。
「こっちに来なさい」
私は大きなデスクの前まで歩み寄る。
「しゃがんで」
犬でも見るような目つきで命じられる。
私は黙って膝をついた。
限定品のハイヒールのつま先が目の前に突き出され、膝に触れそうになる。
「汚れてるわ」
彼女は軽く言う。
私は黙ってスーツの内ポケットからハンカチを取り出しかけた。
「ハンカチなんて使わないで」
突然、声が鋭くなり、意地の悪い笑みを浮かべる。
「シャツで拭きなさい」
私は深く息を吸い、込み上げる怒りを飲み込んだ。
白いシャツの袖で高級な靴を静かに拭く。布が革に擦れる音が微かに響く。
「へえ、ずいぶん素直な犬ね」
電話の向こうから、小泉洋の馴れ馴れしく不快な声が聞こえてきた。
あからさまな嘲笑が混じっている。
星野黎子はスピーカーボタンを押した。
「言うことを聞かない犬なんて、必要ないでしょ?」
彼女は私を見下ろして鼻で笑う。
「そうだな。お前の靴を磨けるなんて、彼には三世代分の幸運だよ」
「じゃあ、私と寝たのは? それは何世代分の幸運なの?」
星野黎子は甘ったるく笑った。
「そんなの一生かかっても手に入らない幸運さ。黎子、今夜は会える?」
「会いたいよ!」
彼女は嬉しそうに笑い、その瞳で私の頭上を見下ろす。
まるでお情けでも与えるかのように。
「会いたい? 本当は私の体が目当てでしょ?」
「そうだよ、体が目当てさ。いいだろ?」
星野黎子は楽しそうに返事をして、私を見下ろす目に満足げな色を浮かべた。
「じゃあ、私の犬に迎えに行かせるわ」