電話を切ると、星野黎子の小泉洋に向けていた甘ったるい笑顔は一瞬で消え失せ、冷ややかな嫌悪だけが顔に浮かんだ。
まるで邪魔なゴミでも見るかのように私を見下ろし、「聞こえた?小泉洋を迎えに行って。ホテルはもう予約してあるから」と命じた。
彼女が誰とつるもうと、私にはどうでもいいことだった。
堕落した人間に興味はない。
私が唯一気にしているのは、星野コンツェルンを窮地に陥れる可能性のある契約だけだ。
「星野専務、この田中グループとの契約には問題があります」
私は契約書を彼女の前に広げた。「田中家の現在の財務状況は非常に危険で、複数の債務訴訟を抱えています。このファンドプロジェクトを始動させたら、星野コンツェルンは大きな資金リスクを負うだけでなく、さらに――」
「森川健太!」
彼女は私の言葉を鋭く遮り、爪を机に激しく叩きつけて耳障りな音を立てた。「あなたは何様なの?星野家が三年間も養ってやったのは、私に説教するため?あなたなんてただの犬よ!私がサインしろと言ったら黙ってサインすればいいの!余計な口出しは無用!」
怒りで顔を歪める彼女を見て、理性的な説明などもう通じないと悟った。
「どうしてもご署名なさるのなら、そのサインは専務ご自身でお願いします。今後この件には関わりません」
「何ですって!?」
星野黎子の声は一気に鋭くなり、耳をつんざくほどだった。
次の瞬間、彼女は勢いよく椅子から立ち上がり、尖ったハイヒールのつま先で私の腰を強く蹴りつけた。
大きな衝撃で体のバランスを崩し、そのままカーペットの上に倒れ込んだ。
「この野郎!誰に向かってそんな口の利き方をしてるの?!」
彼女は激しく息を荒げながら私の鼻先を指さし、「サインしなさい!今すぐよ!サインしないなら即刻出て行きなさい!さっさと消えなさい!」
私を脅せば従うとでも思っているのだろう。
だが、私のこだわりはあくまで、問題をはらんだ契約そのものだ。
契約期限まで、残り二十日もない。
床に手をついてゆっくりと立ち上がり、彼女をじっと見つめた。
感情に支配されている相手に理屈を説くのは、愚の骨頂だ。
おそらく、小泉洋から切り崩すしかない。
無駄な言葉はもう一つも費やさず、私は息苦しいこのオフィスを後にした。
指定された住所へと車を走らせると、高級住宅街に入った。
小泉洋はすでに苛立ちを隠さず、玄関先のポーチに寄りかかっていた。
私の車が停まるのを見ると、ゆっくりと歩み寄ってきて、両手をポケットに突っ込んだまま、あからさまな侮蔑の表情で言った。
「よぉ、星野家の犬は時間だけは正確だな」
女にすがりついて生き延びている男に、どんな自信があるというのか。
「ドアを開けろよ」
彼は足で助手席のドアを軽く蹴り、顎をしゃくって挑発した。「犬なら犬らしく振る舞えよ。俺に手間をかけさせる気か?」
彼を迎えに来るだけでも、私にとっては限界だった。
私は窓を下ろし、淡々と言った。
「星野専務はホテルでお待ちです。早く会いたいなら、自分でドアを開けて乗ってください」
小泉洋の顔色が途端に曇った。
「お前、俺にそんな口きいていいと思ってるのか?今すぐ電話一本で、土下座させることだってできるんだぞ!」
くだらない。
こんな男に一秒でも余計に構うのは無駄だ。
「ご自由に」
私は前を見据えたまま続ける。
「ただ一つ忠告しておく。星野様は待たされるのが一番嫌いです。ここでぐずぐずして彼女を怒らせたら、今夜は……お預けですよ」
私は星野黎子の性格をよく知っている。
男を玩具のようにあしらい、気分次第で従わせ、不満があればすぐに捨てる。
美貌と金、この二つだけが今の小泉洋の弱点だ。
案の定、小泉洋の顔は青ざめたり赤くなったりしたが、最後には私を睨みつけ、ドアを乱暴に開けて助手席に乗り込んだ。
「さっさと行け!」
車は静かに発進し、車内にはエンジン音だけが響いていた。
頃合いを見計らって、私は前方を見たまま口を開いた。
「小泉洋。田中家の契約、しっかり確認させてもらいましたよ」
バックミラー越しに、彼は嘲笑を浮かべた。
「森川健太、お前ごときが俺に意見するつもりか?星野家の飼い犬の分際で、俺のことに口を出すな。この契約は、星野黎子にサインさせる。それだけだ。お前に何ができる?」
「田中家は資金繰りが完全に行き詰まっている。いくつもの銀行から返済を迫られ、今すぐにでも大金が必要なのは分かってる」
私は落ち着いた声で核心を突いた。
「星野様とそんなに“親しい”なら、素直に彼女に個人的な援助を頼めばいいでしょう。わざわざ爆弾を抱えたファンドを立ち上げる必要はないはずだ」
小泉洋の顔から嘲りが消え、固まった。
私は続けた。
「このプロジェクト、私は絶対にサインしません。私の言葉に説得力がないと思うなら、この契約と田中家の債務状況に関するすべての資料を、直接星野会長に持っていきます。会長であれば、専務よりもずっと冷静に物事を判断されるでしょう」
言い終わると、車内の空気が一気に凍りついた。
ミラー越しに、小泉洋の顔はみるみるうちに蒼白になり、初めて本当の焦りが滲んだ。
私が星野コンツェルン内でその資料を手に入れるのも簡単だと、彼は分かっている。
それ以上に、星野崇がどんな人物かも小泉洋はよく知っている――抜け目なく現実的で、こんな露骨な罠を絶対に見逃すはずがない。
彼は私の後頭部を睨みつけて唇を震わせたが、ついに何も言わなかった。
そのまま無言でホテルに到着した。
彼が怒りを露わに車のドアを乱暴に閉め、振り返りもせずロビーへと消えていくのを見送り、私は車を発進させた。
まだ二つ角を曲がったところで、スマートフォンが鋭く鳴り響いた。
ディスプレイには、星野黎子の名前が表示されていた。