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第11話

ポケットの中で携帯が激しく震え、通話ボタンを押した瞬間、星野黎子の鋭い声が鼓膜を突き刺した。


「このクズ!どこほっつき歩いてるのよ?今すぐ戻ってこい!」


エンジン音を響かせながら、私は車をホテルへと引き返した。


部屋のドアは半開きで、押し開けた途端、安っぽい香水と淫靡な空気が鼻を突いた。


星野黎子はホテルの白いバスローブをまとい、小泉洋に絡みついている。


小泉は上半身裸で、一方の手が黎子のバスローブの裾をさまよっていた。


目を背けたくなる光景だ。私はすぐに視線を逸らした。


「何見てんのよ?目が腐るわ。」


星野黎子は小泉を振り払うと、数歩で私の目の前に詰め寄り、いきなり平手打ちを食らわせた。頬が熱く焼ける。


「誰の許可で小泉を脅したの?あんた、何様のつもり?」


小泉は余裕の笑みを浮かべたままゆっくりと歩み寄る。間違いなく、彼が余計なことを吹き込んだのだろう。


彼にできるのは、せいぜいこういう陰湿な告げ口くらいだ。


哀れな男だ。


「森川、さっきはずいぶん強気だったじゃないか?」


小泉は黎子の腰に手を回し、顎を突き出して挑発する。


「もう一度吠えてみろよ?」


そんな芝居に付き合う気はない。私は本題に切り込んだ。


「星野専務、あの契約書にはサインできません。もし強行されるのであれば、プロジェクトのリスクと関係資料を、星野会長に正式に報告いたします。」


これはもはや、単なる職務倫理の問題ではない。


一度サインすれば、巨額の損失の責任はすべて私にのしかかる。刑務所送りになってもおかしくない。


自分の身は自分で守るしかない。


「そんなこと、許さないわよ!」星野黎子はまるで尻尾を踏まれた猫のように声を荒げた。


「森川健太、よく聞きなさい。父に余計なことを言ったら、即刻クビにするから!星野グループから追い出してやる!」


「この件に関しては、一切譲れません。」


私は静かに、しかしはっきりと告げる。


「私を解雇するには、星野会長のサインが必要です。私の雇用契約の甲は会長ですから。」


どんな屈辱も耐えてきたが、キャリアも人生も壊されるような責任だけは、絶対に押し付けられない。


「……!」


星野黎子は怒りに震え、胸が激しく上下している。


まさか、今まで従順だった“犬”が、一日に二度も逆らうとは思ってもみなかったのだろう。


彼女の瞳には怒りが燃え、それでいてどこか怯えを滲ませていた——


父親が私の判断を重視していることを、彼女も分かっているのだ。


「黎子、そんなに怒るなよ。犬に本気になってどうするんだ?」


小泉が甘ったるい声で黎子に寄り添う。


黎子は小泉の胸に身を預けながらも、その瞳はなお私を鋭く見据えていた。


小泉が彼女の耳元で何かを囁くと、黎子の顔に歪んだ笑みが広がる。


「あなたって本当に悪い人ね……」


「男は悪いくらいがちょうどいいんだよ!」


小泉は満足げに笑い、手を彼女の腰から臀部に這わせる。黎子は艶めかしく笑い声を上げた。


一通り笑ったあと、黎子はまた私を見据え、猫がネズミをもてあそぶような目つきで言った。


「森川、三年間でずいぶん図太くなったみたいね?私がどうにかできないとでも思ってる?」


「私があんたを痛い目にあわせる方法なんて、いくらでもあるのよ。」


私は黙って聞き流した。


この三年、彼女の数々の屈辱や嫌がらせに、もう何も感じなくなっていた。


どんな手段を使われても、残り二十日ほどの“余興”にすぎない。


「外でお待ちしています。」


私はそれだけ告げて、無言で部屋を出た。


まもなく星野黎子が着替えて現れた。完璧なメイクに冷たい眼差し。


「専務、会社に戻りますか?」


「いいえ。」


彼女は冷笑し、住所を告げた。


「南東京物流センターへ行きなさい。」


すべてを悟った。


車を走らせ、やがて埃っぽい巨大な物流施設の前に着いた。


積み上がったコンテナが鉄の森のようにそびえ、空気には油と埃の匂いが漂う。


「まだ契約書にサインしないのね?」


星野黎子は車を降り、ヒールを鳴らしながら場内を見渡した。顔にはむき出しの悪意が浮かんでいる。


「じゃあ今日から、あんたのオフィスはここよ。」


そう言って遠くの荷捌き場を指差した。


「見える?あの山積みの荷物。毎日、一車分は運びきってもらうから。終わらない限り、帰ることは許さない。」


彼女は顎を少し持ち上げ、冷たく言い放つ。


「今なら、まだ契約書にサインしても間に合うわよ。でなきゃ……」


わざと私のスーツ姿を見下ろしながら、続けた。


「一車分終わる頃には、その体も持たないでしょうね。」


小泉は腕を組み、得意げな顔でこちらを見ている。


そんな手しか思いつかないのか。


私はスーツのボタンを外し、上着を脱いで脇の手すりにかけ、シャツの袖をまくった。


「分かりました。やります。」

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