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第14話

ねっとりとした汁が髪先を伝い、食べ残しのご飯やおかずの破片が頬を滑り落ちていく。冷たい感触が顔に残った。


私は手を上げ、目にかかった油を無造作に拭いながら、静かなまなざしで星野黎子の怒りに燃える目を見返した。


「昨日は、寝てしまいました。」

その声に感情の起伏はなかった。


「誰が寝ていいって言ったのよ!」

彼女の叫びは食堂の喧騒をも圧倒するほど鋭く響き渡った。

「森川健太、自分の立場をわきまえなさい!あなたは星野家の犬よ!主の命令なしに、勝手に寝るなんて何様のつもり!」


その罵声にも、私は一切反応しなかった。


ただ黙って立ち尽くし、彼女が次に何を命じるのかを待つ。


こんな場面は、もう何度も繰り返されてきた。


「星野専務、星野専務、お怒りをお静めください!」

山本順が慌てて間に入り、私と星野黎子の間にさりげなく体をはさんだ。

「森川さんも……本当に疲れていたんだと思いますよ……」


星野黎子の視線は毒針のように鋭く、私の顔に突き刺さった。


彼女は気づいていた──

最近の私は、以前のようにただ言われるがまま従うことがなくなったことに。


この小さな「反抗」が、まるで細かな砂粒のように彼女の神経を逆なでしているのだろう。


きっと、私をさらに追い詰める新しい方法を考えているに違いない。


ただ、もう三年になる。彼女のありとあらゆる屈辱や罰は、一通り味わってきた。


苦しみも、限界も、もう知っている。


彼女にこれ以上、何ができるのだろうかとさえ思う。


やがて、彼女は鬱憤をぶつけるように声を荒げた。


「まだそこに突っ立って何してるの?ただの木偶の坊?さっさと働きに行きなさい!今日は私がちゃんと見張っているから!」


指示された通り、私は無言で食堂を出た。髪も顔も食べ物でべたついたまま、多くの視線を一身に浴びながら。


その視線には、嘲笑も、言い出せない同情も、ただの傍観も混じっていた。


だが、もう私にはどうでもいいことだった。


強い不快感を感じながらも、待機しているトラックのほうへと向かう。


冷たい荷台の縁を握り、腹に力を入れて重い荷物を持ち上げる。


動作は安定し、リズムも崩れない。


ふと横を見ると、山本順が手際よく椅子とパラソルを用意していた。


星野黎子は現場監督の女王よろしく椅子にふんぞり返り、私の「作業」を楽しむかのように意地悪な笑みを浮かべている。


「何見てるのよ、このバカ!さっさと箱を運びなさい!」


彼女の声に、私はまた黙々と作業に戻った。


汗と乾ききらないスープが混じり合い、体中がねばつく。


普段のトレーニングで鍛えた体がなければ、この肉体的な消耗と精神的な屈辱で普通の人ならとっくに参っているだろう。


この苦行が一日中続くのかと思い始めたそのとき――

重厚な黒いロールスロイス・ファントムが静かに工場敷地内に入ってきて、ピタリと停まった。


それは星野会長の車だった。


ドアが開き、星野会長が険しい表情で降りてくる。


星野黎子の顔からは自信が消え、目に一瞬焦りが浮かんだ。


すぐに立ち上がり、駆け寄っていく。わざとらしい口調で訴える。


「お父様!どうしていらしたの?聞いてください、森川健太がひどいんです!私の電話も無視して……私、それで……」


「ふん!」


星野会長は低く唸って、彼女の言い訳を一蹴した。


「そんな話、私が信じると思うのか?」


星野黎子は言いかけて口をつぐみ、父親の冷たい視線に押されて渋々うつむいた。


「健太」

星野会長は私へ向き直ると、少しだけ表情を和らげた。

「まずは体を洗って、着替えてきなさい。車で待っている。」


そう言い残し、星野黎子の腕をつかんで半ば引きずるように後部座席へ押し込んだ。


私は荷台から降りて、近くにいた山本順へと歩み寄った。


「ありがとう。」

小声で礼を言う。会長がここに現れるタイミング――山本順が知らせてくれたに違いない。


彼はウィンクで応え、何も言わなかった。


私は簡単に体を洗い、清潔な作業服に着替えた。


車のドアを開けると、後部座席の星野黎子は目を赤くしていた。父親に叱られた直後なのは明らかだった。


私は視線をそらす。彼女の悔しさも怒りも、もう私には関係ない。


今の私の頭を占めているのは、もうすぐ終わる雇用契約の残り日数だけだった。


「健太、つらい思いをさせてすまなかった。」

会長は申し訳なさそうに声をかけた。

「明日から、もうここに来なくていい。」


その言葉に、星野黎子が鋭い目つきで私を睨みつけ、悔しそうに歯ぎしりをした。


会長は娘の反応を無視し、続けた。


「田中グループの契約書は、私もよく確認した。君の判断は正しい。リスクが大きすぎて、絶対にサインすべきではなかった。」


そこで一息つくと、表情を引き締めて言う。


「この件については会社を代表して感謝する。もしあの時サインしていたら、後の損失は数千万、いや億単位になっていたかもしれない。」


最後に、星野黎子を鋭く睨みつける。


彼女は縮こまり、何も言えなくなった。


小泉洋のような男に夢中になって、契約内容もろくに見ずに判を押す人間に任せていたら、どうなっていたことか。


会長はさらに娘を厳しく叱責した後、車を発進させた。


去り際、彼は星野黎子に、もう私に嫌がらせをしないようきつく言い聞かせた。


車が工場を出ていく。


星野黎子は窓を開け、私に憎しみを込めた視線を投げつけながら、一語一語を絞り出すように叫んだ。


「森川健太!覚えてなさいよ!」


ハイヒールの音が遠ざかる怒りを物語っていた。


私はその場に立ち尽くし、車の排気ガスがまだ空気に残っていた。


作業服の襟を正し、私はオフィスビルの方へ歩き出した。


そこに、私に残された最後の二十日間の戦場がある。

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