私の「仕事場」は、相変わらず人通りの多い廊下の奥にあった。
職場に戻った私に向けられた周囲の視線は、一瞬だけ止まり、すぐに冷ややかな嘲りや無関心へと変わる。
誰もが私の星野グループでの立場を知っている――
星野家に飼われている一匹の仕事犬にすぎない。
表向きの礼儀など、体裁を保つための飾りに過ぎないのだ。
書類の処理を終えた頃には、窓の外はすっかり夜の闇に包まれていた。
心の中で日数を数え、今日も何とか無事に一日を乗り切ったことを確認する。ゴールまで、あと十九日。
席を立ち帰ろうとしたその時、スマートフォンの画面が光り、星野黎子の名前が強烈に浮かび上がった。
指が一瞬ためらうが、結局通話を取る。
「このクソ野郎!今すぐ……迎えに来い!」
耳をつんざくような酒臭い声が、スピーカー越しに響いてきた。
車を賑やかなクラブの前で停めると、爆音の音楽とタバコと酒の匂いが一気に押し寄せる。
ダンスフロアの中央で、黎子は無我夢中で身体を揺らし、カラフルなライトが彼女に乱舞していた。
周囲には解放感に酔いしれる男女がひしめきあい、ストレスを発散している。
私は隅の席に腰を下ろし、黙って待った。
今日は珍しく、彼女の周りに見慣れたモデルの顔はなかった。
だが、それでも彼女の周りには、いつでも狙っているような男たちが群がっている。
薄暗い照明の下、何本もの手が彼女の腰や腕を自由に這い回る。
だが黎子は、そうした視線や触れ合いに、むしろより陶酔しているようだった。
私は無表情でその様子を眺めていた。まるで自分には無関係な茶番劇を見ているかのように。
やがて、彼女は酒の匂いをまとい、ふらつきながらこちらのテーブルにやってきた。
「部屋まで運びなさい!」
命令は相変わらずぶっきらぼうだった。
私は黙って彼女を支え、騒然とした人混みを抜けて、すでに手配してあった上階のスイートルームへと向かった。
ソファに彼女を座らせ、部屋を出ようとした瞬間――
手首を強く掴まれた。
黎子は顔を上げ、酔いで霞んだその目に、どこか狂気じみた執着を宿していた。
「森川健太、今夜は……ここにいなさい」
私は一瞬動きを止め、深く眉をしかめる。
彼女が私を嫌っているのは明らかなのに、今さら自分から肌を求めてくるとは。
酒のせいか、それとも何かもっと悪意のある試しか――
私の彼女に対する嫌悪は、骨の髄まで染みついている。
顔を見るだけでも吐き気を覚えるのに、ましてや触れるなどあり得ない。
「専務、飲みすぎですよ」
私は手を引き抜こうとした。
「バカ野郎ッ!」
鋭い平手打ちが頬を打ち、ヒリヒリとした痛みが走る。
「このクズ!私が声をかけてやってるんだから、ありがたく思いなさい!偉そうに断るな!」
彼女はソファに手をつきながら立ち上がり、体を揺らしつつも、目には軽蔑の色が宿っている。
「森川健太、私は一番あんたみたいな偽善者が嫌いなのよ!いい子ぶって気取ってるけど、星野家にしがみついて、父に媚びへつらってるくせに、結局は私目当てでしょ?今、チャンスをやってるのに、何をためらってるの?役立たず!ゴミ!」
胃の奥がむかつく。
この三年、彼女の侮辱にはいくらでも耐えてきた。
だが、この一点だけは、まるで毒針のように神経を刺し続ける――
なぜ彼女は私が自分を狙っていると信じて疑わないのか。
ここにいるのは、契約で定められた報酬のためでしかない。
彼女の身勝手な自信は、どこから来るのか理解できなかった。
「専務」
私は込み上げる吐き気を押し殺し、冷たく言った。
「私と会長の契約書には、会社業務と日常サポートが明記されています。今あなたが求めているような……“サービス”は、一切含まれていません」
彼女をまっすぐ見つめて――
「申し訳ありません」
黎子はまるで大笑いしたいかのように、口元を歪めた。
「なるほど、金が足りないってこと? いいわよ!」
突然、彼女はバッグからキャッシュカードを取り出し、私の顔に叩きつけた。
固いプラスチックの角が肌をかすめ、チクリとした痛みが走る。
「十万よ!それで一晩、犬みたいに尻尾を振れる?それとも足りない?」
カードは床に落ちた。
私は、顔が引きつるのを感じた。
これは取引ではなく、何度も繰り返される露骨な人格否定だ。
「森川健太、そんなに清廉ぶるな!」
彼女は酒臭い息を吐きながら、よろめきつつ私に詰め寄る。
「私のベッドに乗りたがる男なんて、ここからパリまで列ができるわよ!私が金を払ってあんたを抱くなんて、家族も墓の下で喜んでるでしょ?分かった?」
……ふっ。
彼女の言うことも、あながち間違いではないのかもしれない。
星野家の令嬢で、見た目も悪くない。言い寄ってくる男は後を絶たないだろう。
ただ――
私は、彼女を汚らわしいとしか思えなかった。
「専務、おやすみなさい」
私は再び伸ばしてきた彼女の手を振りほどき、何の感情も込めずに言った。
背を向け、扉を開け、そのまま振り返らずに歩き去る。
背後では、黎子のヒステリックな絶叫だけが、豪華な廊下に虚しく響いていた。