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第16話

昨夜の星野黎子の異様な振る舞い。その背後には、きっともっと深い悪意が隠れているはずだ。


金で俺を従わせるつもりか?


もし本当に金を受け取り、あのベッドに身を横たえたなら、俺は完全な笑い者になるだけだ。彼女の前で最後の誇りさえも踏みにじられてしまうだろう。


この女は、十分に悪辣で、どんなやり方が俺のプライドを的確に傷つけるか、よくわかっている。


息苦しいホテルを出て、俺は病院へ向かった。


病室には、機械の規則的な音だけが響いている。


ベッドで静かに眠る妹の横顔を見つめていると、胸の中で渦巻いていた濁った感情も、少しずつ落ち着いていった。


どんな屈辱も、彼女の安らかな寝顔に触れた瞬間、どうでもよくなる。


俺は、ただ彼女が一日でも早く目を覚ましてくれることだけを願っている。


翌日、会社に足を踏み入れる。ゴールまで、残り十八日。


今日は星野黎子がどんな手を使ってくるのか。正直、少しだけ“楽しみ”でもあった。


昼前になってようやく彼女が現れた。ヒールの音も派手に鳴らし、化粧もけばけばしいほど濃い。


さらに呆れたのは、彼女の隣に小泉洋が付き添っていたことだ。


星野会長があの契約書に仕込まれた罠をはっきり指摘したのに、彼女はまったく学習していないのか?


ここまで愚かなのは、なかなか珍しい。


小泉の視線が俺に向けられた瞬間、露骨な敵意が滲み出る。どうやら契約が破談になった責任を、すべて俺に押し付けているらしい。


どうでもいい。倒産寸前の田中グループと、女に寄生して生きているヒモ男に、何ができる?


「おや、森川犬じゃないか。まだ廊下で仕事してるのか?」小泉が皮肉たっぷりに歩み寄ってくる。


「相手にしないで。ただの犬でしょ」黎子も苛立ったように小泉の腕を引き、二人でさっさとオフィスに入っていった。


おかげで少しは静かになったが、束の間だった。内線が鳴り、俺はすぐに呼び出された。


「床が汚れてるわ。きれいにして」黎子はそう言うと、手に持っていたコーヒーをフロアにぶちまけた。


小泉もすかさず大笑いし、自分のコーヒーまで床にこぼした。


俺は眉をひそめたが、何も言わず、モップとバケツを取りに行き、黙々と後片付けを始めた。


「黎子、この犬は本当に従順だな!これだけされても怒らないのか?」小泉が斜めに俺を見ながら、さらに挑発してくる。


俺は一瞥もくれてやらない。


「犬がご主人様に歯向かうって?」黎子が鼻で笑い、今度は半分残った水を「パシャッ」とさっき拭いたばかりの床にぶちまける。「ここよ」


見上げると、彼女の瞳には隠しきれない嘲笑と悪意。


心の中は、もう麻痺した滑稽さだけが残った。彼女のやることなんて、所詮この程度だ。


「森川さん、本当に勿体ないですね。この腕なら清掃部長でも余裕でやれますよ」小泉が皮肉を重ねてくる。


俺は無言のまま、淡々と拭き続けた。


黙々と動き続ける俺を見て、黎子の顔色は次第に曇っていく。


彼女は俺を怒らせたいのだろう。俺の取り乱す姿から、歪んだ満足感を得たいのだ。まったくくだらない遊びだ。


子ども相手のごっこ遊びに付き合ってやるだけだ。


「ここも!」


「こっちも!」


「ここも!」


何度も液体をぶちまけ、俺はそのたびにきちんと拭き取る。


単調な作業が延々と繰り返され、やがて彼女自身が飽きてきたのか、抑えきれない苛立ちが爆発した。


「出て行け!今すぐ出ていきなさい!」彼女は空のカップを床に叩きつけ、耳障りな音を立てる。


「かしこまりました、星野専務」俺は静かに返事をし、道具を片付けて部屋を出た。


嫌がらせを仕掛けてきたのは彼女なのに、最後に取り乱しているのは彼女自身だ。


その理屈は、どうにも理解できない。


午後、オフィスでの不愉快な時間がようやく終わった。


黎子は俺に小泉を送り届けるよう命じた。


車が地下駐車場を出て、街の流れに乗る。


後部座席の小泉がふっと笑い、静寂を破った。「森川健太、お前は本当に大したもんだ」


俺は前方を見つめたまま、反応しない。


「そんなに我慢できるなんて、俺だったら絶対無理だな」彼は少し見下すような口調で言い、次の瞬間、前席と後部座席の隙間からキャッシュカードを押し付けてきた。


「持ってけよ」小泉の声には侮蔑の笑みが混じる。「中に二十万入ってる。受け取れ」

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