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第17話

バックミラーに映る小泉洋の顔は、いかにも余裕を装っていた。


差し出されたキャッシュカードが、シャツの胸元すれすれに宙に浮いている。


「小泉さん、これはどういう意味ですか?」私は手を伸ばさずに尋ねた。


「森川健太、俺たちの間に恨みなんてないだろ?無駄に敵対する必要はないさ。」小泉は、いかにも誠実そうな笑みを浮かべてみせる。「ちょっと手を貸してくれれば、この二十万円は君のものだ。それに、今後は黎子が君に余計な迷惑をかけないようにしてやる。」


買収か?口元に皮肉な笑みが浮かぶ。


「何をすればいいんです?」田中グループの御曹司がどんな条件を出すのか、少し興味が湧いた。


「俺は星野黎子と結婚したいんだ!」声を潜め、必死さがにじみ出る。


馬鹿馬鹿しさに胸が熱くなる。


契約で騙せなかったから、今度は婿入りを狙っているのか?その魂胆が透けて見える。


だが、星野黎子のことなど、私にはどうでもいい。


あと十八日も経てば、彼女とは完全に他人になるのだ。


「どうだ?この取引、悪くないだろ?」小泉は私が断れないと確信しているようだ。


「申し訳ありません。」私は静かに、淡々と答える。「そのお手伝いはできません。」個人的な思いを抜きにしても、星野財団の代理人として、そんなバカげた話に乗るわけがない。傾きかけた田中グループが、星野家にすがりつく理由は、目先の金以外にない。


小泉の顔色が一気に険しくなる。「森川健太、外で噂されていること……まさか本当か?君、まさか彼女のことを……」疑わしげに私を見つめる。


呆れた気持ちが喉元まで込み上げる。


「私は星野会長家の私事には一切関与しません。」私は遮るように、事務的に言った。「私の役目は会社の代理業務までです。それ以外はご期待に添えません。」きっぱりと断りを入れる。


「森川健太!お前、いい気になるなよ!」仮面がはがれ、小泉は牙をむく。「俺に逆らって、どうなるかわかってるのか?」


私は軽く笑い、あからさまな軽蔑を込めて言った。「小泉さん、自分の心配をしたほうがいいですよ。星野専務のそばにいる男は、三ヶ月と持った試しがないんですから。」バックミラーの中で、小泉の顔がみるみる赤黒く染まる。


「毎回の“後始末”は、私の仕事なんですよ。」ひと呼吸置き、冷たい皮肉を添えて続けた。「今回は、なるべく長くもってくれるといいですね。」


少なくとも、この十八日間だけでも。


田中グループの後始末まで押し付けられるのはごめんだ。


「お前……」小泉は怒りに震え、言い返す言葉もない。


星野黎子の移り気な性格は、彼自身が一番よく知っているはずだ。


だからこそ、こんな情けない頼みを“ライバル”の私に持ちかけてくる羽目になる。


小泉洋を道端に置き去りにし、ハンドルを戻そうとしたその時、星野黎子からまたもや容赦のない電話がかかってきた。


「すぐ戻りなさい!今すぐよ!会員制クラブに行くから!」耳をつんざくような命令口調。


エンジンが再び唸りを上げる。


彼女を会員制クラブの入口まで送り届け、ようやく一息つけるかと思いきや、黎子は足を止め、私に軽蔑の笑みを投げかけた。「ついてきなさい。」


今夜の“お仕置き”は、まだ始まったばかりだ。


山積みの仕事には目もくれず、私を振り回すことだけが彼女の“生きがい”らしい。


呆れるほど愚かな女だ。


会員制クラブの二階、豪華な個室のドアを開けると、シャンパンの泡と女たちの華やかな笑い声が混じりあっていた。


見慣れた顔ぶれ――


星野黎子の“お嬢様”仲間たちだ。


私の顔も、彼女たちの間ではちょっとした有名人だ。


「黎子、よく来てくれたわ!」キラキラのミニスカートを履いた女が弾むような声で出迎え、すぐさま探るような視線を私に向け、意地悪そうに口角を上げる。「あら、今日も“忠犬”を連れてるのね?」


「ほんと、」毛皮を羽織った別の女がグラスを揺らしながら、値踏みするような目で言う。「黎子、あんたの犬使いの腕には感心するわ。東大卒の高級犬なんて、私たちにはそう簡単に手に入らないもの。」


星野黎子は皆の注目を浴びながらメインシートにゆっくり座り、シャンパンを一口味わってから、意地悪く、満足げに口元を歪めた。


「みんな、違うわよ。」


個室が一瞬静まり返る。


彼女はグラスを置き、身を乗り出して私を刺すような視線で見つめ、一語一語、はっきりと言い放った。


「私が調教しているんじゃないの。森川健太は、生まれついての犬よ。骨の髄まで下劣なの。」

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