星野黎子は、なんと頷いた。
この結果は、正直なところ少し意外だった。
あの異常なまでの独占欲を持つ彼女が、まさか私を「譲る」なんて――。
「何見てるのよ!」
私はその場に立ち尽くしていると、彼女はすぐに苛立ちをあらわにし、手を振り上げて私の頬を叩こうとした。
「早く遠山さんのところへ行きなさい、聞こえてるの?」
真っ赤なネイルの手が、勢いよく振り下ろされる。
「黎子。」
遠山エリカの声が、ちょうどその時響いた。
穏やかだが、自然と重みのある声だ。
「顔に傷がついたら、台無しになるわよ。」
星野の手は空中で止まったまま、指先が震えている。顔色は青ざめ、今にも涙がこぼれそうなほどだった。
この抑え込まれた怒りを見るにつけても、遠山エリカの正体が余計に気になった。
星野黎子にここまで我慢させる人間、ただ者ではない。
もちろん、私は断ることもできた。
今ここで「行かない」と言えば、星野はきっとすぐさま機嫌を直すだろう。
だが、私は静かに頷いた。
「分かった。」
少し出かけるだけのことだ。男が女に食い殺されることもあるまい。
「それじゃあ、お二人の時間を邪魔しないようにするわ。」
遠山エリカは明るく微笑み、私の腕を取ろうとした。
「行きましょう、イケメンくん。」
星野はじっと私たちを見つめ、唇を固く結んでいる。
結局、何も言わなかった。
個室を出てすぐ、私はさりげなく腕を引いた。
「ふふん?」
遠山エリカは興味深げに眉を上げる。
「もう演技は終わり?」
「ああ。」
私は短く返し、足を止めずに階下へ向かう。
エリカはヒールを鳴らしながらついてくる。その声はどこかからかい混じりだ。
「星野に言いつけて、後で倍返しされてもいいの?」
「別に。」
「ククク……」
彼女は小さく笑い、その声は廊下に心地よく響いた。
「星野は自分の飼い犬が忠実だと思ってるみたいだけど、現実はどうかしらね。」
彼女の笑顔には華があるが、私にはどうでもいい。
星野黎子と親しくしている女は、私にとっては「厄介者」に過ぎない。
私は足早に車まで歩き、ドアを開けて運転席に乗り込む。エンジンをかけると、助手席のドアが開き、遠山エリカが当然のように座った。
「悪いが、」
私は前を見据えたまま冷たく言った。
「ホスト役をするつもりはない。もし男が必要なら、モデルでもトレーナーでもいくらでも紹介できる。」
彼女は横を向き、面白そうに私を観察する。
「私がそんなに軽い女に見える?」
「違うのか?」
「違うわよ。」
彼女はきっぱりと言い、目が鋭くなる。
「私はただ、あなた自身に興味があるだけ。東大出身で、業界では仕事人間として有名。たった三年で星野グループに百億以上の利益をもたらした。」
彼女は少し身を乗り出して、私の目を覗き込むようにした。
「そんな人材、誰だって欲しがる。でもあなたは星野黎子のそばにとどまり、理不尽な仕打ちに耐えている。――まさか、本当に彼女を愛しているの?」
その言葉は鋭く私の心の奥を突いた。
私は思わず顔を向け、初めて彼女を正面から見つめた。
たしかに美しい。
小林美佑のような若々しい愛らしさではなく、嵐をくぐり抜けてきた大人の色気を感じさせる。
そして何より、感情のコントロールが絶妙だ。
私がどんなに冷たく接しても、彼女の目は一切揺れない。
こういう人間は、決して凡人ではない。
彼女の一言は、私の嫌悪感を見事に刺激した。
「その言葉を二度と口にするな。」
私の声は氷のように冷たかった。
「気持ち悪い。」
エリカはまるで気にする様子もなく、口元に手を当てて微笑んだ。
その目には、思惑が見え隠れしている。
「面白いわね、本当に。」
やがて彼女は静かに笑いを収め、細い指でバッグから名刺を取り出すと、私の目の前に差し出した。
名刺に書かれたシンプルなゴシック体の文字を見て、私は一瞬だけ息を呑む。
リモート・インターナショナル・グループ
取締役 遠山エリカ
関西不動産業界を牽引する大企業の中枢。
その一族は政財界にも強い影響力を持ち、星野家とは比べものにならない。
まさか、目の前のこの女が、その巨大な企業グループを率いる人物だったとは。
「あなたには才能があるわ。」
彼女は名刺を私のシャツの胸ポケットに差し込み、指先で布越しに軽くなぞった。
そして、身を乗り出して耳元に顔を寄せる。
吐息がかすかに香り、低く艶のある声で囁いた。
「もし星野家に嫌気がさしたら、いつでも私のところに来て。」
「それとも……」
さらに距離を詰め、ほとんど耳元でささやく。
「もっと深い関係でも、私は大歓迎よ。」
彼女の唇が耳たぶに触れそうな距離で、熱を帯びた声が続く。
「本気のパートナーでも、気楽な遊びでも……私、どちらでも構わないから。」