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第19話

星野黎子は、なんと頷いた。


この結果は、正直なところ少し意外だった。

あの異常なまでの独占欲を持つ彼女が、まさか私を「譲る」なんて――。


「何見てるのよ!」


私はその場に立ち尽くしていると、彼女はすぐに苛立ちをあらわにし、手を振り上げて私の頬を叩こうとした。

「早く遠山さんのところへ行きなさい、聞こえてるの?」


真っ赤なネイルの手が、勢いよく振り下ろされる。


「黎子。」

遠山エリカの声が、ちょうどその時響いた。

穏やかだが、自然と重みのある声だ。

「顔に傷がついたら、台無しになるわよ。」


星野の手は空中で止まったまま、指先が震えている。顔色は青ざめ、今にも涙がこぼれそうなほどだった。


この抑え込まれた怒りを見るにつけても、遠山エリカの正体が余計に気になった。

星野黎子にここまで我慢させる人間、ただ者ではない。


もちろん、私は断ることもできた。

今ここで「行かない」と言えば、星野はきっとすぐさま機嫌を直すだろう。

だが、私は静かに頷いた。


「分かった。」


少し出かけるだけのことだ。男が女に食い殺されることもあるまい。


「それじゃあ、お二人の時間を邪魔しないようにするわ。」

遠山エリカは明るく微笑み、私の腕を取ろうとした。

「行きましょう、イケメンくん。」


星野はじっと私たちを見つめ、唇を固く結んでいる。

結局、何も言わなかった。


個室を出てすぐ、私はさりげなく腕を引いた。


「ふふん?」

遠山エリカは興味深げに眉を上げる。

「もう演技は終わり?」


「ああ。」

私は短く返し、足を止めずに階下へ向かう。


エリカはヒールを鳴らしながらついてくる。その声はどこかからかい混じりだ。

「星野に言いつけて、後で倍返しされてもいいの?」


「別に。」


「ククク……」

彼女は小さく笑い、その声は廊下に心地よく響いた。

「星野は自分の飼い犬が忠実だと思ってるみたいだけど、現実はどうかしらね。」


彼女の笑顔には華があるが、私にはどうでもいい。

星野黎子と親しくしている女は、私にとっては「厄介者」に過ぎない。


私は足早に車まで歩き、ドアを開けて運転席に乗り込む。エンジンをかけると、助手席のドアが開き、遠山エリカが当然のように座った。


「悪いが、」

私は前を見据えたまま冷たく言った。

「ホスト役をするつもりはない。もし男が必要なら、モデルでもトレーナーでもいくらでも紹介できる。」


彼女は横を向き、面白そうに私を観察する。

「私がそんなに軽い女に見える?」


「違うのか?」


「違うわよ。」

彼女はきっぱりと言い、目が鋭くなる。

「私はただ、あなた自身に興味があるだけ。東大出身で、業界では仕事人間として有名。たった三年で星野グループに百億以上の利益をもたらした。」


彼女は少し身を乗り出して、私の目を覗き込むようにした。

「そんな人材、誰だって欲しがる。でもあなたは星野黎子のそばにとどまり、理不尽な仕打ちに耐えている。――まさか、本当に彼女を愛しているの?」


その言葉は鋭く私の心の奥を突いた。


私は思わず顔を向け、初めて彼女を正面から見つめた。

たしかに美しい。

小林美佑のような若々しい愛らしさではなく、嵐をくぐり抜けてきた大人の色気を感じさせる。

そして何より、感情のコントロールが絶妙だ。

私がどんなに冷たく接しても、彼女の目は一切揺れない。


こういう人間は、決して凡人ではない。


彼女の一言は、私の嫌悪感を見事に刺激した。


「その言葉を二度と口にするな。」

私の声は氷のように冷たかった。

「気持ち悪い。」


エリカはまるで気にする様子もなく、口元に手を当てて微笑んだ。

その目には、思惑が見え隠れしている。

「面白いわね、本当に。」


やがて彼女は静かに笑いを収め、細い指でバッグから名刺を取り出すと、私の目の前に差し出した。


名刺に書かれたシンプルなゴシック体の文字を見て、私は一瞬だけ息を呑む。


リモート・インターナショナル・グループ

取締役 遠山エリカ


関西不動産業界を牽引する大企業の中枢。

その一族は政財界にも強い影響力を持ち、星野家とは比べものにならない。


まさか、目の前のこの女が、その巨大な企業グループを率いる人物だったとは。


「あなたには才能があるわ。」

彼女は名刺を私のシャツの胸ポケットに差し込み、指先で布越しに軽くなぞった。

そして、身を乗り出して耳元に顔を寄せる。

吐息がかすかに香り、低く艶のある声で囁いた。


「もし星野家に嫌気がさしたら、いつでも私のところに来て。」


「それとも……」

さらに距離を詰め、ほとんど耳元でささやく。

「もっと深い関係でも、私は大歓迎よ。」


彼女の唇が耳たぶに触れそうな距離で、熱を帯びた声が続く。

「本気のパートナーでも、気楽な遊びでも……私、どちらでも構わないから。」

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