目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話 蛾と毒謀

「絢、どうして泣いているの?」

白鳥美恵子は静かに娘の背後に立ち、頬を伝う涙の跡を見て、胸を痛めてため息をついた。


「お母さんには分かるよ。あの杜家の御曹司、杜隆之介は女癖が悪くて、とてもいい相手とは言えない。でも今の白鳥家には……杜家だけが頼みの綱なのよ。つらい思いをさせてごめんね。」


白鳥絢は涙を拭い、かすかだがしっかりとした声で答えた。

「お母さん、心配しないで。私、自分にできることは分かってる。」


「これは私の責任。逃げるわけにはいかないの。白鳥家には……私が必要なのよ。」


その言葉には深い疲れが滲んでいた。かつては栄華を誇った白鳥家も、今や娘の結婚に家の未来を託すしかない。自分の人生を犠牲にするしかない現実が、あまりに切なく、やりきれない。


祖父が背を丸めて懇願したとき、一族の期待がすべて自分の肩にのしかかったとき、白鳥絢は悟った。自分だけの未来は、もう終わったのだと。


「ちょっと出かけてくる。何かあったら電話して。」


そう言い残し、絢は家を出た。


彼女が向かったのは墨村慎吾だった。


もう自分には彼を愛する資格はないと分かっていても、心の奥に残る想いを断ち切ることはできなかった。特に今――彼が出所したばかりで、冷泉千尋にあっさりと捨てられたと聞けば、どれほど傷ついているだろう。たとえほんのわずかな慰めしか与えられなくても、どうしても会いに行きたかった。


同じ頃、白鳥絢からの電話を切った冷泉千尋は、今にも怒りが爆発しそうなほど険しい表情に包まれていた。


「この白鳥!昔から墨村と何かと怪しかったけど、何年経っても相変わらず恥知らずね!」


助手席の小山靖子は内心で眉をひそめる。その反応は、前夫に対する嫌悪というより、まるで嫉妬心そのものだ。小山は慎重に口を開く。


「冷泉社長、そこまで気にすることはないのでは?もともと墨村さんとは完全に手を切るおつもりだったんでしょう?もし本当に白鳥絢と関係を持つようなことがあれば、むしろ都合がいいのでは?」


「手を切るのは私たちの問題よ!」冷泉は食い気味に言い放つ。「白鳥ごときに口出しさせるつもりはないわ。何を気取って“深い愛情”を演じてるのかしら!墨村は私の夫だったし、今は前夫。あの女に何の資格があるの?人の夫を奪おうとしたくせに、何様のつもりで私を責めるのよ!」


小山靖子は心の中で警戒のサイレンを鳴らした。冷泉の態度は、明らかに墨村慎吾に対する所有欲の表れだ。この流れは絶対に阻止しなければ。とくに、まもなく現れる「東家の御曹司」の前では、なおさらだ。


「おっしゃる通りです!白鳥は偽善者ですよ。」小山靖子はすかさず同調し、さらに焚きつける。「思い出してください、あの人は家の立場を利用して、私たちに“親切”ぶっていましたけど、実際は上から目線の施しでしかありませんでした。ああいう人が一番たちが悪いんですよ!」


冷泉千尋は拳を握りしめ、怒りを抑えきれない。


小山靖子はふと悪知恵が浮かび、声をひそめて囁いた。

「社長、むしろ今の状況を利用されたらいかがです?白鳥が墨村に会いに行くのを止める必要なんてありません。何があろうと、この“物語”の結末は私たちが決められるんですから。」


さらに近づき、冷たい声で続ける。

「杜隆之介の性格からして、婚約者が前科者の元夫とまだ繋がっていたと知ったら、黙っていないはずです。そうなれば……杜隆之介自ら“お掃除”を始めるでしょう。もし社長が墨村を“助けたい”なら、救世主として登場することもできますし、どう転んでも主導権はこちらにあります。」


冷泉千尋は小山靖子をじろりと見つめた。

「あなた……私よりも墨村や白鳥を憎んでいるようね?」


小山靖子は一瞬どきりとしたが、すぐに作り笑いを浮かべた。

「私は社長のためを思っているんです。ここまで来るのに、どれだけ苦労されたか……墨村なんかに振り回されては絶対にいけません。後悔してからじゃ遅いですよ!」


さらに畳みかけるように続けた。

「それに、もうすぐ東家の御曹司が横浜にいらっしゃいますよね。もし墨村がそこで騒ぎを起こしたら……東家にかかれば、墨村なんて生きていられるはずがありません。」


冷泉千尋の目がかすかに揺れる。


小山靖子は間髪入れずに畳みかける。

「だから、墨村は徹底的に押さえつけないと。できれば、また少しの間でも牢に入れておくのが一番です。これこそが本当の“保護”ですよね?」


冷泉千尋はしばらく沈黙し、やがて最後の迷いも冷たい“理性”に押し流された。

「……考えておくわ。どうしても必要なら、そうするしかないわね。」


椅子にもたれかかり、どこか自己陶酔したような口調でつぶやく。

「私だって、結局は彼の命を守るためにやっているの。だって、彼はあまりにも普通で、世の中の厳しさなんて知らないんだから。私なりに、できる限りのことはしてあげたつもりよ。でもきっと、彼には永遠に私の気持ちなんて分からない。もしかしたら、心の底で私を恨んでいるかもね。」


そう言って、小さくため息をついた。彼女は自分が“犠牲者”であるかのような物語に酔いしれ、その隣で小山靖子は冷たい笑みを浮かべる。墨村慎吾への罠は、いま静かに動き出そうとしていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?