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第9話 旧友と残り物

墨村慎吾は、片付けたばかりなのにまた散らかったリビングで、呆然とその惨状を見つめ、疲れた様子で眉間を揉んだ。


――思い描いていた出所後の生活とは、まるで違う。


最悪でも、静かな日常が戻るだけだと思っていた。しかし実際は、終わりのないトラブルと冷たい拒絶が待っていたのだ。


「冷泉……権力や金は、人をここまで変えてしまうものなのか?」慎吾は自嘲気味に口元を歪め、心に深い失望が広がる。


外はもう暗く、空腹も限界に近い。


この息苦しい部屋から出ようと、立ち上がったその時、またインターホンが鳴った。


慎吾は眉をひそめ、苛立ちが一気にこみ上げる――「まだ何か用か?」


しかし、怒りを抑えきれず勢いよくドアを開けると、そこに立っていたのは、白いワンピースを着た澄んだ目の少女だった。その瞬間、彼の中の苛立ちは嘘のように消え去った。


「絢?」慎吾は思わず声を上げた。「どうして君が……?」


やって来たのは、先日冷泉千尋と電話で話していた白鳥絢だった。かつては千尋や小山靖子と無二の親友だったが、今ではその関係も変わってしまっている。


慎吾の顔を見た絢は、抑えきれない嬉しさで満面の笑みを浮かべ、彼が無事に出所したことに心から安堵していた。


「慎吾、三年ぶりだね。ちょっと痩せたんじゃない?」


慎吾は苦笑した。「まあな。刑務所の食事はうまくないが、意外とちゃんと食べてたよ。どうぞ、入って。」


実際、彼は中で特別な待遇を受けていたが、それを絢が知る由もない。


絢は部屋に入り、散らかった床を見て、少し眉を寄せた。「千尋が来たの? 離婚のことで?」


慎吾は一瞥して答える。「君たち、昔は親友だったろ?彼女のことは君の方が分かってるはずだ。騒ぎというほどじゃない、ちょっとした行き違いさ。」


本当は、とても「行き違い」などと呼べるものではない。義弟が仲間を連れて押しかけてきたなど、今さら話しても意味はない。


絢はそっと首を振った。「私は千尋とは、君が捕まってからほとんど連絡を取ってない。もう、前みたいな関係じゃないから。」そして、複雑なまなざしで慎吾を見つめる。「慎吾、一つだけ聞かせて。今になって……後悔は、していない?」


後悔――


慎吾は言葉を失う。千尋を愛したことを? 彼女に尽くしすぎたことを? 身代わりになったあの日を? 陰で手を回し、彼女を今の地位に押し上げ、その結果彼女が変わってしまったことを?


もしかしたら、後悔しているのかもしれない。だが、ここまで来てしまった今、慎吾は自分もまたその原因だったのではと感じていた。もしあの時、あそこまで甘やかさなければ、結末は違ったのか――


「絢、昔のことを今さら悔やんでも仕方ないさ。」慎吾は話題を変え、少し柔らかい口調になった。「それより君は?この三年……元気にしてたか?もう結婚した?」


その言葉に、絢の笑顔がほろ苦く歪む。「今さら、私の気持ちをはぐらかすの?慎吾、どうしても知りたいの。私は千尋に比べて何が足りなかったの?あなたが、私を見てくれなかった理由……一番愛していたのは――」


絢は言いかけて口をつぐみ、声を落とした。「ごめん、つい取り乱してしまった。ただ……あなたが報われないことが、悔しいだけ。」


絢の気持ちは、慎吾もずっと分かっていた。しかし、彼の心には千尋しかいなかったし、絢もまた、いつも距離を保っていた。だが今日、その距離感が少しだけ崩れたようだった。


「今日は、ただ君の顔を見に来ただけ。」絢は気持ちを抑えて言う。「もう夜だし、まだご飯食べてないでしょ?私がご馳走するよ。」


慎吾は苦笑いを浮かべる。「うちに来てまで、君に奢らせるわけにはいかないよ。それに、もう外に出る気分でもない。もし構わなければ、俺が料理を作るけど?腕には自信あるけど、君の口に合うかは分からないな。」


絢はじっと彼を見つめ、瞳が一瞬輝いた。「昔食べたあなたの料理、今でも忘れられない。でも……もう二度と、そんな機会も理由もないと思ってた。今日、あなたの手料理が食べられるなんて、本当に嬉しい……」小さな声で、そう呟いた。


慎吾は最後の言葉が聞こえなかったが、台所に向かった。家は空っぽだが、戻って来る前に少しだけ食材を買っていた。やがて、部屋には料理の香りが漂い始める。


絢はリビングで静かにその背中を見つめていた。その姿を、心に刻みつけるかのように――


「そんなに凝ったものじゃないけど、良かったら食べて。」やがて慎吾が料理を運んできた。


テーブルの上には、ポテトサラダ、ハンバーグ、卵焼き、生姜焼きが並ぶ。


「どれも私の好きな物ばかり……ありがとう、覚えていてくれて。」絢は幸せそうに微笑んだ。


慎吾は首を振る。「本当にありがとうと言いたいのは俺の方だよ。君は、出所してから初めて本気で会いに来てくれた人だ。君のおかげで……また少し、人の温かさを思い出せた。」


刑務所を出てからというもの、離婚届、侮辱、家を荒らされ――すべてが壊れてしまった中で、絢のまっすぐな笑顔とまなざしは、何よりも心に染みた。


箸を取ろうとしたその時、絢がそっとテーブルに一枚のキャッシュカードを差し出した。


「慎吾、あなたが誇り高い人だってことは分かってる。でも……お願い、一度だけ私に頼らせて。これは、ずっと貯めてきた三百万円。決して多いお金じゃないけど、出所したばかりで何かと大変でしょう?お願い、受け取って。……私の後悔を、少しでも減らすためにも。」


絢の目は、強い意志で慎吾をまっすぐ見つめていた。

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