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第10話 情の借り

テーブルの上に置かれたキャッシュカードが、重い沈黙の中で静かに存在感を放っていた。


墨村慎吾は黙ってそれを見つめ、胸の内は複雑な思いで満たされていた。白鳥絢の想いは、あまりに純粋で重たく、どう応えていいのかわからない。


彼は小さくため息をつき、カードをそっと絢の前に押し戻した。


「絢、その気持ちはありがたく受け取る。でも、お金は受け取れない。」


優しくも、はっきりとした口調で続ける。


「僕は困っていないし、働いて食べていくくらいのことはできる。」


断ったのは金銭のためだけでなく、その思いに応えきれない自分がいたからだった。


カードを押し返された絢は、目に涙を溜め、静かに泣き出した。


慎吾は困ったように言った。


「泣かないで。君の好意を無下にしてるわけじゃない。ただ……」


言葉を探しながら、結局またため息をつくしかなかった。


涙を拭いながら、絢はかすれた声で言う。


「慎吾、私はあなたにしつこくしたことはない。好きでいるのは私の勝手。今は、ただ助けたいだけ。」


「このカードを受け取って。お願いだから。」


「出所したばかりで、手元にお金があるわけないでしょ?あなたの性格なら、慰謝料なんて一銭も受け取らなかったはず。でも、それでも前に進もうとするはず。これは……そうね、起業資金と思って。あるいは、私があなたに貸すってことで。」


涙に濡れた瞳で、必死に訴える。


「これが……私にできる最後のことかもしれない。もう……二度と会えないかもしれないから。」


最後は、こらえていた嗚咽がこぼれ出した。


その泣き声に、慎吾の胸が締めつけられる。


本当に良い子だ。彼女のような人に心から愛されたら、どんなに幸せだろう。だが、再会の瞬間から、彼女の笑顔の奥に隠された違和感を慎吾は感じ取っていた――その澄んだ瞳の奥には、拭い去れない悲しみや苦しみ、葛藤と絶望が渦巻いていた。まるで底なしの闇に落ちてしまったかのように。


本当は聞きたかったが、踏み込むのをためらっていた。


だが、もう迷っていられなかった。


「絢……」慎吾は低い声で言う。「俺がいなかった三年間に、何があったんだ?君が辛い思いをしていること、俺にもわかる。話してくれないか。もしかしたら、俺にできることがあるかもしれない。」


それは、心からの申し出だった。


だが、絢は首を振り、涙を拭って口を閉ざした。自分の悩みまで慎吾に背負わせるつもりはなかった。彼の状況だって十分に苦しいのだ。ましてや、自分の問題は彼にとってさらなる負担になるだけ。彼にできることなど、何もない。


その時、突然ドアを激しく叩く音が部屋の空気を切り裂いた。


「墨村!出てきなさいよ、このクズ!」


慎吾は呆れたように、苦笑するしかなかった。聞き覚えのある声だった。


「絢、どうやらゆっくり食事もできないみたいだ。」


そう言ってドアを開けると、そこには派手な装いで怒りに満ちた中年の女性――冷泉千尋と冷泉亮の母親である冷泉和子が立っていた。娘の離婚を何よりも喜び、息子に“復讐”をけしかけた張本人。彼女にとって、慎吾への多額の慰謝料は無駄以外の何物でもなかった。


だが、結局どうなったか。


息子は逆に慎吾に叩きのめされ、病院送りになったのだ。その話を聞いて、和子の怒りは爆発し、勢いそのままに乗り込んできたのである。


「お義母さん?」


慎吾は落ち着いた口調で声をかけた。


「誰があんたのお義母さんよ!」和子は怒鳴り返し、唾を飛ばす。「うちの娘とはもう離婚したでしょ!どの面下げてそんなこと言えるのよ、このクズ!」


慎吾は冷静に応じた。


「そうですね、冷泉さん。ご用は何でしょうか?」


和子が和解のために来ることなど、慎吾は最初から期待していなかった。前の義母として、彼女の性格もよく知っている。


かつては、慎吾が冷泉家を生活苦から救い出し、何不自由なく暮らせるようにした。その頃の和子は彼に媚びへつらうばかりだった。


だが、慎吾が全てを千尋に託し、冷泉家が裕福になってからは、状況は一変した。今や千尋は大企業の社長、慎吾は前科者として社会に戻ったばかりにすぎない。和子の態度は推して知るべし、である。


和子は“無礼”な慎吾に逆上し、思いきり平手打ちを見舞った。


「ふざけないでよ!自分が何したか、わかってるんでしょ?!うちの息子に手を出すなんて、よくもまあそんなことができたもんだね!絶対に許さないから!」


慎吾は避けずに受け止め、頬を押さえた。その一撃で、残っていた情けは完全に断ち切られた。


だが、慎吾が何も言う前に、耐えかねた絢が立ち上がった。


「和子さん!人を叩いていい理由なんてありません!もし慎吾が冷泉亮さんに手を出したとしても、まずは事情を聞くべきじゃないですか?慎吾がどういう人か、一番よく知っているはずです。自分から喧嘩をふっかけるような人じゃありません。きっと、理由があったはずです!」


「私が部屋に来たとき、すでに中はぐちゃぐちゃでした!明らかに冷泉亮さんが仲間を連れて押しかけてきたんですよ!どうしてちゃんと見極めてくれないんですか!」


和子の視線は鋭く絢に向けられ、たちまち怒りの矛先が変わった。


「白鳥!昔からあんたはうちの娘の男を狙ってたわよね!今度はようやく二人きりになれたってわけ?不倫なんてして、恥ずかしくないの?」


「食事なんてしてる余裕あるの?ふざけないで!」


そう叫ぶと、和子はテーブルに突進し、腕で料理をなぎ払った。


「ガシャーン!」


食器が割れ、料理が飛び散る。せっかく用意した食卓は、一瞬で台無しにされた。


「恥知らずな女と男ね!絶対に許さないから!うちの息子の恨み、きっちり返してもらうわよ!」


冷たい視線で絢を睨みつけ、和子は叫ぶ。


「そしてあんたよ、白鳥!この泥棒猫!恥を知りなさいよ!もう婚約してるくせに、よその男とコソコソ会うなんて!今すぐあんたの婚約者、杜隆之介さんに全部話してやるから!どうなるか、覚悟しなさい!」


その言葉に、絢の顔は真っ青になり、


慎吾の表情にも、怒りと苦しみが浮かんでいた。

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