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第11話 平手と抱擁

「もういい加減にしろ!」


墨村慎吾の声は、氷を砕くような鋭さで冷泉和子の罵声を遮った。


「今はまだ“おばさん”と呼んでいますが、どうか分をわきまえてください。」


その鋭い視線は、暴れまわる冷泉和子をまっすぐに射抜いている。


「僕と千尋さんはもう関係ありません。ここは僕の家です。今すぐ出て行ってください。」


「亮を殴ったのは僕です。他の人は関係ありません。これ以上、僕の友人を侮辱するなら――」


慎吾の声は一気に冷たくなり、圧倒的な威圧感を放つ。


「容赦しませんよ。」


墨村慎吾はおとなしい?――違う。かつての優しさや我慢は、全て千尋のためだった。それを引っ込めた今、誰にも遠慮はしない。


だが、冷泉和子はその忠告すら聞き入れない。自分が怒鳴られたことに逆上し、慎吾の鼻先に指を突きつけて叫んだ。


「容赦しない?いいわよ!やれるもんならやってみなさいよ!殴ってみなさいよ!」


彼女は挑発的に顔を突き出す。


慎吾は歯を食いしばりながら、ドアを指差して絞り出す。


「出て行け。」


冷泉和子は何度も冷笑しながら、慎吾と蒼白な絢を交互に睨みつける。


「墨村、白鳥とくっついたからって安心してるの?夢見てんじゃないわよ。白鳥家なんてもう終わり。あの娘はすぐ杜家の悪魔みたいな男に押し付けられるんだから。自分のことで精一杯で、あんたまで守れるわけないでしょ。」


今度は絢を見て、意地悪くあざ笑う。


「白鳥さん、前科者とコソコソ会って、いい身分ね?杜隆之介にバレたら、ただじゃ済まないわよ。白鳥家ごと潰されるわね。墨村、あんたもタダじゃ済まないわよ。あの杜隆之介が許すはずないでしょ。せいぜい今のうちに楽しんでなさい!」


「このふしだら女、前科者に骨抜きにされて、本当に情けないわ!」


パァン――


鋭い音が室内に響き、冷泉和子の頬に平手打ちが炸裂した。卑猥な罵声はそこで遮られる。


慎吾は手を引き、冷たい光を目に宿す。


「これ以上何か言ったら、その口を二度と使えなくしてやる。」


冷泉和子は頬を押さえ、信じられないという表情で慎吾を睨みつける。まさか、この男に殴られるとは――。


「アンタ、よくも……!殺してやる!死ねぇ!」


彼女は叫びながら慎吾に飛びかかり、鋭い爪で掻きむしろうとする。


慎吾はもう一切の情けを捨て、冷泉和子の手首をしっかりと押さえつけ、容赦なく再び平手を浴びせる。


パァン、パァン――


続けざまの二発が冷泉和子の頬を真っ赤に腫らせた。


「これが最後だ。出て行け。さもないと、次は歯が全部なくなるぞ。」


その目は獣のように鋭く、冷たく、殺気すら漂わせる。


冷泉和子は、今まで見たことのない慎吾の姿に、背筋にぞっとする寒気を覚えた。これ以上逆らえば、本当に何をされるか分からない――。


彼女は怯みながらも強がり、捨て台詞を残して逃げるように出て行った。


「ふしだらな二人め、覚えてなさいよ!絶対に許さないから!」


部屋には静けさだけが戻り、食事の残骸が散乱している。


慎吾は蒼白のままうつむく絢を見て、静かに言った。


「ごめん、君まで巻き込んでしまった。」


絢は首を振る。涙の跡が残る顔は、どこか壊れそうなほど儚い。


「違うの、私が悪いの……私が軽率だったせいで、きっとあなたまで大変な目に遭わせる。」


彼女は泣きそうな目で慎吾を見上げ、懇願する。


「慎吾、横浜から離れて。しばらくどこかに身を隠して。お願い……」


もし冷泉和子に見つからなければ、まだ何事もなかったかもしれない。けれど、あの人の性格では、今回のことはすぐ広まるだろう。自分はどうなっても構わないが、慎吾だけは巻き込みたくなかった。


杜隆之介は冷酷で容赦のない男だ。慎吾が彼と関われば、どうなるか分からない。手や足を失うことだって、ありえない話じゃない――そういうことは、彼には日常茶飯事なのだから。


慎吾は静かにため息をついた。


「絢、君は僕のために来てくれた。それがどうして悪いことなんだ?」


じっと彼女の瞳を見つめる。


「さっきから、ずっと悩んでいるのが分かってた。あの婚約って何のこと?杜隆之介って……一体誰?」


「まさか、君は結婚しなきゃいけなくなったのか?でも、君の顔からは少しも喜びが見えない。無理やりなんじゃないのか?」


その言葉に、絢の心はついに折れた。


彼女はソファに崩れ落ち、顔を両手で覆って泣き出した。


どんなに強がっても、運命に逆らえない弱い自分。ただ、地獄のような未来に向かって転がり落ちるのを黙って見ているだけ。痛みも、恐れも、絶望も――誰に訴えても無駄だと分かっている。


だけど慎吾の前だけは、すべてをさらけ出せる。


慎吾は黙ってティッシュを差し出す。


「絢、嫌なら結婚しなくていい。」


低く、けれど力強く言う。


「結婚は幸せになるためのものだ。杜隆之介がどんな人かは知らない。でも、君を愛さず、大切にしない相手なら、どうして結婚しなきゃいけない?」


「ただ、“仕方がないから”って理由だけで?」


「幸せは君自身が選ぶものだよ。誰かや何かのために、自分を犠牲にする必要なんてない。……この結婚、やめてもいいんだ。もう、泣かないで。」


その優しさは現実を変えられないけれど、ほんの少しだけ心を温める。


絢はやっと涙を拭き、無理やり笑顔を作った。


「ごめんね……こんな姿を見せて。」


「大丈夫。自分のことは、自分で何とかできるから。」


無理に気丈に振る舞いながらも、もう一度慎吾に頼み込む。


「お願い、横浜から離れて。あの時のお金を使って、どこかでしばらく休んで。お願い、私のために……心配させないで……」


「……お願いだから。」


もう傷だらけの慎吾が、これ以上自分のせいで苦しむのは耐えられない。


慎吾はまだ答えていない。


だが、絢はすべての勇気を振り絞り、立ち上がった。そして一歩踏み出して、慎吾を強く抱きしめた。


震える体が彼の肩をぬらす。


「……抱きしめて、お願い……今だけでいいから……」

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