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第12話 償えぬ

白鳥絢の体は小さく震え、温もりとともに流れる涙が墨村慎吾の胸元を濡らしていた。彼女が長い間押し殺してきた苦しみや重圧が、慎吾には痛いほど伝わってくる。


かつて自分を深く愛し、静かに尽くしてくれた絢。その彼女が、今やどうしようもない苦境に陥っている。慎吾の胸は痛んだ。たとえ今は友人としてであっても、彼女を助ける責任が自分にはある。せめて、彼女に自由を取り戻してやりたい――そう思わずにはいられなかった。


泣き続ける絢をそっと抱きしめ、慎吾は静かに、しかし力強く語りかける。


「カード、預かるよ。君の“投資”ってことで受け取っておく。」


「君がつらそうにしているのを見ているだけで、もう十分だ。君の問題は、俺に任せてくれ。必ずなんとかするから、信じてほしい。」


優しい言葉を聞いて、絢はかえってさらに声をあげて泣いた。しばらくして、ようやく嗚咽が収まり、潤んだ目で顔を上げる。


「ごめんなさい……取り乱しちゃって。」


「でもお願い、慎吾。横浜から離れてくれない?少しの間でいいから、どこかへ行ってほしいの。お願いだから!」


「今日、冷泉亮に手を出してしまったでしょ?おまけに冷泉夫人まで叩いた。あの人たちは絶対に黙っていないはず。」


「千尋は昔とは違うし、亮も今じゃ横浜の裏社会で名が通ってる。後ろには万川グループの万川忠までついてるのよ。あの人こそ本物の大物よ!慎吾、あなたじゃ太刀打ちできない!お願い、逃げて……!」


慎吾は、今何を言っても絢が自分の力を信じてくれないことを悟っていた。だが、これ以上彼女に心配をかけたくなくて、いったんは素直に頷き、彼女を安心させるしかなかった。


「わかったよ、絢。約束する。心配しないで、ちゃんと自分の身は守るから。」


少し真剣な口調で続ける。


「それに、もし俺が万川忠なんか全然怖くないし、むしろあいつらのほうが俺に頼みごとでもするかもしれないって言ったら……君は信じないだろうな。」


男が自尊心から強がっているだけだと、絢は思った。それでも、慎吾が出て行ってくれて無事でいるなら、それで十分だった。


「うん、慎吾が一番強いのは知ってる。でも……私が安心できるように、少しだけでもどこかへ行ってきて。ね?」


じっと慎吾を見つめながら、言葉を続ける。


「私はずっと信じてる。慎吾なら、きっと大きなことを成し遂げられるって。いつかその日が来るのを待ってるから。私の中では、あなた以上の人なんていない。本当に。」


そう言うと、未練を残しつつも慎吾を見つめ、床に散らばった食事を一瞥して、苦笑いを浮かべた。


「せっかくのご飯、一緒に食べられなくて残念。でも、あなたが無事でいてくれるだけで私は満足よ。」


「慎吾、さよなら。」


そう言って、絢は振り返らずに部屋を出て行った。もし一度でも振り返れば、もう二度と踏み出せない気がしたのかもしれない。


扉の向こうへ消えていく彼女の背中、その小さく震える肩を見送りながら、慎吾は静かにため息をついた。


「絢……君のその一途な想い、俺はどうやって償えばいいんだろうな……」


「せめて俺にできることは、君の前に立ちはだかるものを全部片付けることだ。俺が証明してやるさ。怖がる必要があるのは、俺じゃなくて、あいつらのほうだってな。」


「万川グループ、万川忠――」


慎吾の目が鋭く光り、心はすでに決意を固めていた。


「……どうやら、予定を早める必要がありそうだな。」


その頃、星野興産株式会社本社の最上階、小さな会議室では――


場の空気は重苦しかった。白鳥家の中心人物たちがテーブルを囲み、誰もが険しい顔をしていた。


「親父は何を考えてるんだ?手紙には、持ち株を全部、外部の人間に譲渡したって書いてあるぞ?馬鹿げてる!」


怒りを爆発させたのは長男の白鳥達也だ。彼の目は怒りで血走っている。


「星野興産は俺たち白鳥家のものだ。部外者に口出しさせてたまるか!」


怒るのも無理はない。星野興産は父親が人生をかけて築き上げた企業。資産は数千億にのぼり、様々な業界に影響力を持つ。父の手元には三割の創業株があり、これは千億円相当の価値だ。それは巨額の財産であると同時に、グループを支配する力でもある。もし他人に渡れば、取り返しのつかない事態になるだろう。


「昔、親父が刑務所に入ったのは確かに俺たちのせいもあるが、仕方がなかったんだ!これは親父の逆恨みか?」


「駄目だ、絶対に渡せない!白鳥家の財産は誰にもやらん!」別の兄弟も声を荒らげる。


「親父はもう正気じゃない。あんな遺言、無効に決まってる!」


「まず、その男を探し出せ!」達也の目は冷たく光る。「いったいどこの馬の骨が、こんな“棚ぼた”を受け取る度胸があるのか見せてもらおう。少し金を渡して手を引かせれば済むことだが……もし、調子に乗るようなら――」


冷たく吐き捨て、殺気をにじませる。


「……命があるうちに使えると思うなよ。」


数言交わしただけで、白鳥家兄弟たちはすでに腹を決めていた。家の根幹を揺るがすほどの財産を前に、一歩も引くつもりはない。どんな手段でも使って、邪魔者は排除する。それが彼らの出した結論だった。


その頃、慎吾はまだ自分に新たな嵐が迫っていることを知らなかった。だが、もし知ったとしても、気にかけることはなかっただろう。彼が本当に気にしているのは、老人の願いを果たせるかどうか――それだけだ。


自分を狙う者たち? いつでもかかってこい。


墨村慎吾は、恐れたことなど一度もない。


今は、すでに問題が山積みだ。


冷泉和子を怒らせ、冷泉家とは完全に決別した。慎吾は休む間もなく、冷泉千尋が再び現れて“落とし前”をつけに来る覚悟もできていた。なにせ自分の手で、千尋の母親を平手打ちしたのだから――。

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