冷泉家。
冷泉和子はソファに腰掛け、怒りを抑えきれず、手元のティーカップを思い切り床に叩きつけた。墨村慎吾に平手打ちされたことは、彼女にとって屈辱以外の何物でもなかった。
冷泉千尋は慌てて帰宅し、母が墨村慎吾に頬を打たれたと知るや否や、怒りが爆発した。あの男が冷泉亮を殴った時ですら許しがたかったのに、今度は母にまで手を出すとは——もはや我慢の限界だった。
母と弟が自らトラブルを持ち込んだことは知っていた。だが、それが何だというのか。家族のことに、他人である墨村慎吾が口を挟む筋合いなどない。
「ふざけないで、お母さん。必ず償わせます。墨村慎吾には必ず代償を払わせるから」千尋は冷え切った声で言った。
すかさず和子が怒りをあらわにした。「私の顔なんてどうでもいいけど、あんたの弟はあんな目に遭ったのよ。このままじゃ済まさないわ。もう忠さんに連絡したから!忠さんが病院に来たら、墨村なんて終わりよ!」
「忠さんに連絡したの?」千尋は驚き、すぐに眉をひそめた。「お母さん、それはまずいです。忠さんが動けば、事が大きくなりすぎます。私たちにも、亮にも、星野興産にも決していい影響はないわ」
万川忠の名は、横浜の裏社会で知らぬ者はいない。星野興産の社長である千尋でさえ、この大物には一目置かざるを得ない。
和子は娘のためらいを察し、さらに言葉を重ねた。「母親と弟が殴られて、あんたはまだ相手の心配してるの?千尋、まさかあの男に未練でもあるんじゃないでしょうね。そんなこと、私は絶対に認めない!」
和子は言葉の矛先を変え、皮肉を込めて続けた。「それに、あんたは墨村の本性を全然わかってない!今日、何を見たと思う?あの男、白鳥と一緒にいたのよ。あんたの親友でしょ。二人であんたのあの安いマンションで、キャンドルを灯してディナーよ。夜遅くに、男女があんなふしだらなことをして!あんた、本当に何もなかったと思ってるの?千尋、目を覚ましなさい!きっととうの昔に関係を持って、あんたを裏切ってるわよ!」
その言葉は千尋にとってまさに雷鳴のようだった。確かに、白鳥絢には警告してあったが、まさか本当に墨村慎吾のもとを訪れて、しかもキャンドルディナーまでしていたとは——。
抑えきれない嫉妬と裏切りの気持ちが一気に千尋を飲み込んだ。自分こそが裏切られ、侮辱されたような気がして、頭の中で嫌な想像が駆け巡った。
「お母さん、本当なの?白鳥と墨村が……そんなことを?」千尋の声は震えていた。
「間違いないわよ!」和子はきっぱりと言い切る。「あんなふしだらな二人、思い知らせてやるべきよ。千尋、母さんが絶対にあんたのためにやってあげるから!」
千尋は嫉妬心に駆られ、理性を失いかけていた。「いいえ、お母さん、もう手出ししないで。殴るだけじゃ生ぬるい。私が自分の手で、裏切りの代償を味わわせてやる」
娘の目に浮かぶ冷たい憎しみの色に、和子は心の中でほくそ笑んだ。これで本気になったようだ、と。
和子はさらに畳みかける。「そうそう、千尋。墨村に渡すはずだった補償金、絶対に一銭も出さないこと。全部亮のために取っておきなさい。あの子だって、そろそろ自分の金を持たないと」
しかし今の千尋にはそんなことはどうでもよかった。「わかったわ、お母さん。その件は私が対処するから、もう心配しないで」そう言い残して、冷たい空気をまとい家を出ていった。
まるで裏切られ、捨てられたのは自分であるかのような態度だった。誰が最初に誰を捨てたのかなど、もう忘れてしまったかのように。
家を出ると、千尋はすぐに墨村慎吾に電話をかけた。電話がつながると、冷ややかな声で言い放つ。「墨村、明日の昼、話がある。場所は後で連絡する」返事も待たず、すぐに通話を切った。
「自分の立場もわきまえず、まだ勘違いしているのね。いいわ、明日こそ思い知らせてやる。私とあんたの間には、もう越えられない壁があるってことを。明日、どんな顔をするのか、楽しみにしてる」
次に、千尋はスマートフォンを手に取り、杜隆之介に短いメッセージを送った。
「白鳥絢、不倫。」
すべてが終わると、千尋は自分の別荘に車を走らせた。
そのころ、墨村慎吾も電話を手にし、千尋の狙いを計りかねていた。しかし、どんな手を使われようと受けて立つつもりだった。
同じ頃、あるバーの個室。
杜隆之介は両脇に女性を侍らせ、酔いに任せていた。スマートフォンが震え、何気なくメッセージを確認した瞬間、酔いは怒りにかき消された。
白鳥絢、不倫——?
杜の名に泥を塗る者など絶対に許せない。
長い間追い続けてきた白鳥絢は、彼に対して常に冷たかった。その心の中に他の男がいることなど、とっくに気付いていたが、もう我慢の限界だった。「不倫」の二文字が、彼の怒りに火をつけた。
隆之介は隣の女を突き飛ばし、すぐに白鳥絢へ電話をかけた。怒りで声が歪む。
「絢、今すぐホテルに来い!来なければ婚約は破棄だ!杜家は他の家と組んで白鳥家を潰す!お前の家族全員、明日から路頭に迷わせてやる!」
叫び終えると、乱暴にバーを飛び出し、いつものホテルへ車を走らせた。
街角のベンチで、白鳥絢は電話を切られたスマートフォンを握りしめ、ただ苦い平静な表情を浮かべていた。
避けられない運命が、ついにやって来た。彼女には拒むことなどできない。白鳥家の運命すべてが、彼女一人にのしかかっていたのだから。