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第15話 運命への抗い

万川忠は万川姓ではないものの、万川財閥内での立場は多くの血縁者を凌ぎ、家長である万川隆から最も信頼されている腹心であった。その地位は万川隆に次ぐもので、横浜の裏社会でも一目置かれる存在だ。財閥の若手たちですら、彼の前では頭を下げざるを得ない。


焦燥の色を隠せない万川隆を見つめ、万川忠は低い声で言った。

「若旦那、おっしゃる通りです。お父上の容体が急変し、一刻の猶予もありません。すぐに墨村先生に連絡を取るべきです!」


「この電話……やはり、若旦那ご自身でおかけください。」と、万川忠は厳しい面持ちで続けた。


万川隆はすぐにスマートフォンを取り出したが、表示された深夜の時刻を見てためらった。

「忠、この時間に……墨村先生にご迷惑ではないだろうか?ああいう方は少し癖のある人が多いし、もし無礼だと思われて見放されたら、父は……望みがなくなってしまう!」父はまだ生きている、せめて墨村先生が来てくれるまでは、と万川隆は切実に思っていた。もしも墨村先生を怒らせ、それで父の命が絶たれることになれば、決して自分を許せない。


万川忠は何度も唇を噛みしめながら説得した。

「大丈夫です!墨村先生は一度引き受けると決めた以上、それは約束です。医師であれば、患者の容体が急変することも十分ご理解されているはず。どうか、おかけください。もし先生が不快に思われたとしても、私たちができる限りのお詫びをすればいい。今は何よりもお父上の命が最優先です!」


万川隆は目に決意を宿らせ、きっぱりと言った。

「分かった!墨村先生が父を助けてくださるなら、私の命でも差し出します!」そう言うと、ためらうことなく墨村慎吾の番号を押した。


通話は十数秒で終わった。電話を切った万川隆の顔には、不安の色が一転して大きな喜びが浮かんだ。


「よかった!墨村先生は……本当に素晴らしい方だ!」万川隆は感激しながら万川忠に報告した。

「父が危篤で救急搬送されたと伝えると、すぐに病院の場所を聞いて、今から向かうと!少しも不機嫌な素振りがなかった。約束を守り、仁義と医の心を兼ね備えた方だ!」


万川忠もようやく安堵の息をついた。

「若旦那、墨村先生がどんなご縁や背景をお持ちでも、この誠実さと義理だけで、私たちは最大限の敬意を持ってお迎えするべきです。財閥として、全力でお付き合いすべきお方です。」


万川隆は深くうなずき、鋭い眼差しで言った。

「その通りだ。これからは墨村先生のことは、私自身のことだと思って動く。どんなことでも、命を賭けても恩に報いる!」


三十分もしないうちに、墨村慎吾の姿が病院の廊下に現れた。命がかかっている以上、彼は常に約束を守る。それに、万川財閥との関係を深めることも、彼の計画の一部だった。


VIP病室の前では、万川隆が焦った様子で廊下を歩き回り、万川忠が静かに控えていた。墨村慎吾がまっすぐ近づき、落ち着いた声で話しかける。

「あなたが万川さんですか?」


万川隆はその声に顔を上げ、墨村慎吾の若さを目の当たりにして思わず驚いた。電話でも若い声だとは思っていたが、まさかここまで若いとは……本当に“神の手”を持つ医師なのか?


「あなたは……?」と、思わず問いかける。


墨村慎吾は穏やかに微笑んだ。

「さっき電話をくださったのはあなたでしょう?お父上はどちらですか?診させてください。」


万川隆はすぐに我に返り、恐縮しながら頭を下げた。

「墨村先生、失礼しました。これほどお若いとは思いもせず……どうぞお入りください!」心の中には疑念もあったが、千葉翁の厳かな言葉を思い出し、迷いを捨てた。年齢だけで人を疑うことは決してしない。今は何よりも父を救うことが先決だ。


墨村慎吾は病室に入り、ベッドで昏睡状態の老人の脈を丁寧に取る。


万川隆はそっと声をかけた。

「墨村先生、病院での検査結果やカルテはすべて準備してあります。ご利用ください。」


墨村慎吾は答えず、静かに脈診を続ける。やがて手を引き、万川隆を見て言った。

「お父上は若い頃に相当なご苦労をされ、体の基礎が相当に傷んでいます。今は高齢で体力も極端に落ち、回復は難しい。正直に申し上げると、寿命が尽きる相です。他の医師も同じことを伝えていたでしょう。」


万川隆は目を伏せ、苦しげにうなずいた。

「はい……病院でも、延命処置しかできないと言われました。それでも、墨村先生、あなたなら……!どうか父をお救いください。父は一度も楽な思いをしたことがなく、ずっと苦労してきました。ようやく私が親孝行できるようになったのに、今さら……どうかお願いします!」財閥の当主が、声を震わせながら懇願した。


墨村慎吾はベッドに横たわる老人を見つめ、静かにため息をついた。

「今ここで助けるというのは、まるで死神の手から人を奪い返すようなものです。私の医術でできないことはありませんが、天命に逆らう行為であり、極めて大きな代償が伴います。簡単にできることではありません。」


「万川さん、私が手を出さないのは、決して意地悪でも冷淡でもありません。お父上の寿命は、もう尽きかけているのです。今できるのは、術を施して数日延命し、目を覚ましてお別れの言葉を伝えていただくこと。それ以上は……私の力では及びません。」


その言葉に、万川隆は大きなショックを受け、顔色が真っ青になった。しかし、「できない」ではなく「できないわけではない」という言い回しに、一縷の望みを見出した。


「墨村先生!きっとあなたなら方法があるはずです!」万川隆は墨村慎吾の手を強く握り、必死に訴えた。

「父を救ってくださるなら、どんなものでも差し出します!命でも構いません!どうかお願いします、父を助けてください!」横浜一の大富豪が、今にもひざまずこうとする勢いだった。


墨村慎吾はわずかに眉をひそめた。


万川忠が前に出て、敬意を込めて言った。

「墨村先生、少しお時間をいただけますか?どんな結果になろうとも、私たち万川財閥に一切の不満はありません。」


墨村慎吾は万川忠とともに病室の外へ出た。万川忠は声をひそめて切実に語る。

「墨村先生、もしお助けいただけるなら、どうかお力をお貸しください。若旦那があれほど苦しんでいるのは……実は、彼はお父上の実の子ではありません。お父上は生涯を人助けに捧げ、多くの孤児を育て上げましたが、ご自身は独身を貫かれたのです。」続けて、万川忠は万川のお爺様の慈善と献身の人生を簡潔に語った。


墨村慎吾は静かに耳を傾け、その瞳にわずかな感情の揺れが浮かんだ。生涯を善行に捧げ、自らは一度も安らぎを得なかった老人――その在り方は、心を打たずにはいられなかった。


墨村慎吾はそっと息を吐き、万川忠を見て言った。

「忠、もう十分です。私が助けます。これほどの善行を積まれた方なら、運命に抗ってでも救う価値がある。」


そう言って、病室へ戻ろうとした――


その時、隣の病室から慌ただしい足音と、泣き声混じりの叫びが響いてきた。


「絢!私の娘を!先生、どうか娘を助けて!」

「白鳥絢!白鳥絢はどの部屋ですか!」


「白鳥絢」という名前が、はっきりと墨村慎吾の耳に届いた。その瞬間、彼は立ち止まり、眉をひそめ、胸の奥に強い不安が湧き上がるのを感じた。

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