白鳥絢はまだ不安な面持ちで墨村慎吾の部屋を後にしたばかりだった。強引な婚約話の影も消えぬまま、病院の廊下で家族と鉢合わせる。家族の顔はどれも悲しみに染まっていた。
偶然とは思えなかった。
墨村の胸に、凍りつくような不吉な予感が走る。白鳥家の人々が病室へと急ぐ様子を目にし、彼はもうじっとしていられなかった。足早にその場を進むと、万川忠もすぐに後を追う。
病室の前では医師が白鳥家に説明していた。
「手術は無事に終わり、今は回復室で経過観察中です。患者さんは激しい暴行を受けていましたが、命に別状はありません。詳しい状態は目覚めてから改めて検査しますので、しばらくここでお待ちください。」
暴行……手術……?
墨村の足がその場に止まる。胸の奥底から、理性すら焼き尽くすような怒りが湧き上がった。優しく穏やかな絢の顔が脳裏をよぎる。あの美しい女性が、誰かに暴力を振るわれ、手術を受けるほどの怪我を負わされたのか——
誰だ?一体誰がそんな真似を……!
絶対に許せない。
墨村のただならぬ気配を敏感に察した万川忠が、そっと問いかける。「墨村さん、何かご指示は?」
墨村は深く息を吸い、怒りを押し殺しながら万川忠に視線を移す。そのまま万川家当主の病室へと目を向け、低く冷たい声で言った。「まずは本分を果たす。その後で、けじめは必ずつける。」
今は何よりも、万川家当主の治療を終えなければならない。そのあとで——必ず自ら絢のそばに付き添い、真実を聞き出す。そして、犯人が誰であれ、必ず百倍の報いを与えるつもりだった。
絶対に許さない。
万川家当主のVIP病室に入ると、墨村の顔はすでに鬼気迫るほど険しい。
「全員、外に出てくれ。私の許可があるまで、誰も近づくな。」
命令に一切の情はない。
万川隆はその様子に不安を隠せなかった。墨村の腕を信じてはいるが、父の命がかかっている以上、黙っていられない。「墨村さん、何かお手伝いできることは?これは……鍼を使うおつもりですか?」
墨村は冷たく彼を一瞥し、押し殺した怒りを滲ませて言う。
「あなたのお父上の寿命は尽きかけている。その命を救うのは、天に逆らう行為だ。だが、彼が善行を積んできたことへの敬意で、私はこの因果を引き受ける。……まさか、私を信じていないのか?」
その眼差しに、万川隆は背筋を凍らせ、慌てて頭を下げた。「とんでもありません!どうか、お願いいたします!」
二人はすぐに病室を出て、扉を静かに閉める。
外で万川隆は眉をひそめ、万川忠に声を潜めて尋ねる。「墨村さんの様子が普段と違う。何があったんだ?」
万川忠は小声で答える。「墨村さんは、隣の病室の前に白鳥家の人たちが集まっているのを見て、顔色が変わりました。白鳥さんの娘さんが何者かに暴行され、重傷で運ばれてきたそうです。たぶん……それと関係があるのでしょう。」
万川隆の目が鋭く光る。「墨村さんのことは、我々万川財閥のことでもある。この言葉に嘘はない。忠、すぐに調べろ。誰がやったのか徹底的に突き止めろ。相手が誰であろうと、墨村さんが望むなら全力で支援する。命懸けでな。」
「かしこまりました!」万川忠は即座にその場を離れる。
病室の中で、墨村はベッドに横たわる当主をじっと見つめ、古びた紫檀の鍼箱を取り出す。中には、牛の毛ほどの細さの金鍼が百八本、整然と並んでいた。
「あなたは一生善行を積んできたのに、こんな最期はふさわしくない。今日こそ、わずかな可能性をつかんでみせる。」
そう呟くと、墨村の手はまるで幻のような速さで動き始めた。
最初の一本が正確にツボへ刺さる。続けて、両手は残像になるほどの速さで動き、百八本の金鍼が次々に的確な要所へと刺し込まれていく。そのたびに、墨村独自の秘術によって温かな生命力が流し込まれていく。
やがて額や背中には汗が滲み、全身が濡れていく。「奪命追魂鍼」は、術者に並外れた指先の力と精密さ、そして大量の気力と精神力を要求する。特に生気を送り込む作業は、墨村自身に大きな負担を強いるものだった。
すべての鍼が刺し終わると、その先端から白い湯気のようなものが立ち上り、まるで失われた命を呼び戻すかのようだった。しかし、これはまだ序の口。墨村は床に座り込み、両手で印を結び、「青帝長生訣」を運気させる。溢れるほどの生気が体内から生まれ、目に見えぬぬくもりとなって当主の枯れた身体へと注ぎ込まれていく。
人を救うのは容易なことではない。ましてや、すでに閻魔に名を呼ばれた者を救うのは、まさに天命に抗う行為だった。その代償は、想像をはるかに超える。
時間は静かに過ぎていく。窓の外が暗闇から白み始め、やがて朝日の気配が差し込む。
最初の陽光がカーテンの隙間から病室に差し込む頃、墨村はゆっくりと術を納めた。顔は真っ白に青ざめ、全身の服が汗でびしょぬれになっている。まるで魂を抜かれたように力が入らず、意識も朦朧としていた。それでも、ベッドの当主の呼吸は安らかに、顔色は奇跡のように赤みを帯びていた。
大きく息を吐き、墨村は壁に身を預けてゆっくりと座り込む。
外では万川隆と万川忠が一晩中待ち続けていた。墨村の様子を見て、ふたりはその犠牲の大きさを悟った。
「墨村さん……!」万川隆の声は震えていた。墨村の体調も心配だが、父の安否も気がかりだった。
墨村は手を振り、壁にもたれて座り込む。かすれた声で告げる。
「心配はいらない。当主の命はつないだ。今日中には目を覚ますだろう。体も回復するし、言葉や動作にも問題はない。ただ……」
一度言葉を切り、「人の力には限界がある。根本的な生命力が失われているから、私にできるのは三年から五年寿命を延ばすことだけだ。この時間を大切に過ごしてほしい。」
三年から五年——!
万川隆と万川忠はその場で呆然とし、すぐに驚きと感謝の思いで胸がいっぱいになる。彼らは当主の容体を誰よりも知っている。どんな名医も匙を投げた命だ。それを、墨村は死の淵から引き戻し、数年もの健康な時間を与えてくれたのだ。これはもはや医術ではない、奇跡そのものだった。
「墨村さん!」万川隆は感極まって涙ぐみ、深く頭を下げた。
「このご恩、言葉では尽くせません。これから先、あなたのことは私のこと、万川財閥のこととお考えください。どんなことでも命を懸けてお応えします!」
墨村は静かにうなずいた。それが、約束を受け入れた証だった。ふらつきながらも立ち上がり、再び絢のいる病室の方へ視線を向ける。
「呼び方は何でもいい。私は目立つのが好きじゃない。当主はもう大丈夫だから、そちらを頼む。私は用があるので、これで失礼する。」
そう言い残し、墨村は疲労困憊の体を奮い立たせて、絢の病室へと向かった。
万川忠はその様子を見て、すぐに駆け寄る。
「墨村さん、どうぞお支えします!」