「ごめんなさい、先約が入ってるから」桜庭凛子はそう言うと、振り返らずに立ち去った。
「待って! 名前を教えてくれよ!」混血の青年、九条曜が慌てて追いかける。
数人のボディーガードらしき男たちが駆けつけ、彼を見つけて安堵の息をついた。
「若様、パーティが始まりました! ご夫妻がお探しです!」
青年は焦るような眼差しで、桜庭凛子が消えた方向を見つめた。
「急がなくていい、俺は…」 ボディーガードたちは互いの顔を見合わせ、彼を抱えるように連れて行った。
桜庭凛子は背が高く、豪華客船の灯りの下で、白い肌がほのかな光を放っているようだった。
彼女は特に何もしなくても、自然に周囲の視線を集めた。
「誰? 見たことないわね」
「芸能界の人かしら? ちょっと顔がいいからって、お金持ちにすり寄ろうとしてるのよ」
「男たち、目が飛び出そうになってるわ」
「本人はそれでいいのかもね?」令嬢たちは口元を手で押さえながら笑い、言葉の端々に軽蔑がにじんでいた。
桜庭凛子はシャンパングラスを手に取り、周囲の視線を無視して神谷一郎の姿を探していた。
その姿こそが、彼女が玉の輿を狙っていると周囲に思わせる材料となった。
今夜は宝飾ブランド「煌星」の御曹司、九条曜の誕生パーティ。
日本の名だたる名流たちが集まっている。
高橋修の両親は海外プロジェクトのトラブルで出席できず、彼が代理で来ていた。
「城、お前、昔は桜庭秘書をこういう場所に連れてこなかっただろ」高橋修はデッキのソファにもたれかかり、少し離れた場所で写真を撮っている早乙女亜月を一瞥した。
「顔は早乙女詩織に似てるけど、性格は桜庭秘書の方が遥かにマシだな」
小早川城は早乙女亜月を見ようともしなかった。
「桜庭凛子のことばかり言うけど、気になってるのか?」
「いいか?」高橋修の目が輝いた。
小早川城が顔を上げ、冷たく警告した。「やってみるか?」
「降参降参!」高橋修は両手を上げた。
小早川城は子供の頃からそうだった。
自分の物は、飽きても壊しても、決して他人にやらない。それが女にも及んでいるとは。
「城さま!」早乙女亜月が慌てた様子で駆け寄ってきた。
高橋修は、小早川城の顔に一瞬よぎった嫌悪の色を捉えた。
「桜庭凛子です! 桜庭凛子を見かけたんです!」
小早川城は眉をひそめた。「なぜあの女がここに?」
間もなく、三人は手すりのそばに立ち、下を見下ろした。
桜庭凛子は人混みの中でもひときわ目立っていた。
一人の中年の男が彼女を引き止め、名刺を押し付けている。
彼女は淡く笑みを浮かべていた。
小早川城の目つきが険しくなる。
早乙女亜月は心配そうな顔をして言った。
「城さま、高橋さん、聞いたんですけど、凛子さんは玉の輿を狙ってここに来てるらしいですよ」
彼女は足を踏み鳴らした。
「城さまがお見捨てになったからって、今までにもらったお金で十分じゃないの? そんなに慌てて次の相手を探さなくてもいいのに!」
「亜月さん、それは違うんじゃない? 城はもう君を選んでるんだから、桜庭秘書が次の相手を探すのは自由だろう?」高橋修はグラスを揺らしながら穏やかに笑ったが、早乙女亜月はその中にわずかな悪意を感じた。
「私はただ、城さまがお気の毒で…」早乙女亜月は小早川城の腕を掴もうとした。
「余計な心配はいい。君は好きに楽しんでいなさい」小早川城はさりげなくかわした。
早乙女亜月は一瞬硬くなり、悔しそうにうなずいた。
「はい、わかりました」立ち去る前に、もう一度桜庭凛子を振り返った。
会社ではノーメイクだった桜庭凛子と、今の華やかな彼女はまるで別人だった。
早乙女亜月は、自分の可憐さなど彼女のセクシーさの前ではまったく勝負にならないことを自覚していた。
幸い小早川城は厚化粧を嫌っていた。
苛立ちを覚えながら、彼女は何かを思い付き、足早に階下へ向かった。
彼女が去るとすぐ、小早川城と高橋修は、桜庭凛子が名刺を受け取り、ハンドバッグにしまい込むのを見た。
中年の男は満足そうに去っていく。
桜庭凛子がほっと一息つき、周囲を見渡して目標を定める様子には、小早川城は気づかなかった。
高橋修が小早川城を見た。
「小早川社長、あの大美人をこんなに長い間埋もれさせてたんだな!」昔の桜庭凛子も確かに美人だったが、高橋修は彼女を「つまらない」と思っていた。
まるで感情のないロボットのように。
小早川城がどれほどひどくしても、彼女は決して怒らなかった。
高橋修は思い出した。
ある年の厳寒の日、早乙女亜月の誕生日に、小早川城がどうしてもとある老舗のケーキを食べたがった。
しかしその店はすでに閉まっていた。
桜庭秘書はどんな手を使ったのか、真夜中にそれを買ってきた。
戻ってくると、小早川城はケーキが目障りだと言い、そのまま捨ててしまった。
その夜、高橋修は小早川家の本宅にいた。
桜庭秘書は全身ずぶ濡れで震えていたが、一言の不満も言わずにきれいに片付けて去っていった。
似たようなことは何度もあった。
今、生まれ変わったような桜庭秘書の姿を見て、高橋修は事態が面白くなってきたと思った。
「自ら進んで堕落するとは」小早川城は冷たくそう言い放った。