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第8話

「そこまで言い切るか?」神谷一郎が興味深そうに言った。


「完全な案をご覧になれば、たとえデータに多少の懸念があっても、きっとこれを選ばれるはずです。」


商界で何十年も生き抜いてきた神谷会長。


技術者から社長へと上り詰め、目にした企画書は数えきれないほどだ。


彼の目前で、見れば必ず採用すると断言した者など、今まで一人もいなかった。


「桜庭さん」神谷はゆっくりと近づき、威圧感を放ちながら言った。


「そこまで自信があるのなら、ひとつ賭けをしてみないか?」


「お聞かせください。」


「もう一度チャンスをやろう。もし君の案が私の心を動かさなければ、私の会社は、倍栄キャピタルとの取引を完全に停止する。」


神谷はゆっくりと言葉を続けた。


「どうだ、賭ける気はあるか?」


ずるいたぬきだ、ずいぶんとプレッシャーをかけてくる。


しかし…


彼女の役目はこの契約をまとめることだけ。


神谷会長が今後も倍栄キャピタルと取引するかどうかなんて、彼女には関係ない。


何せ、もうすぐ辞めてしまう身だから。


「結構です!」桜庭凛子は即座に承諾した。


その時、ドアの外に聞き覚えのある声が響いた。


「神谷会長にお会いしたいのですが。」


桜庭がすぐに振り返ると、そこには——小早川城が!?


「神谷会長はご多忙で……」


「通せ。」神谷が呼び止め、再び桜庭を見た。


「ちょうどいい。社長が来たから、証人になってもらおう。」


……

警備員がドアを開けると、小早川城が中へ入ってきた。


「神谷会長。」小早川が挨拶する。


桜庭は振り返らなくても、焼けつくような視線が背中に刺さるのを感じた。


「小早川社長」神谷が口元をゆがめて言った。


「この桜庭さんという方が、私と賭けをしようと言い出してな…」と、彼は賭けの内容を詳細に説明し、最後に桜庭さんが承諾したことを強調した。


「そういうことなら、桜庭秘書が私の代わりに決める権限を持っていますよ。」小早川はそう言うと、桜庭凛子の背後に歩み寄った。


次の瞬間、彼の香りが残っているスーツの上着が、彼女の肩にかけられた。


桜庭の身体が反射的に震え、避けようとした。


しかし、小早川の両手が彼女の華奢な肩を押さえつけた。


「そうだろ、桜庭秘書?」その手の力は、まるで彼女の骨を砕かんばかりだった。


(この男…自分は楽しみに出かけておいて、何をそんなに怒っているんだ?)


「小早川社長も異存がなさそうなら、この老いぼれも改めて、桜庭秘書がそこまで自信を持つ、私の心を一発で掴むという企画の何たるかを見てみよう!」


スイートルームには高精細のプロジェクターがあった。


少し準備をすると、桜庭凛子はスマートフォンを取り出し、パワーポイントの資料をスクリーンに映し出した。


そして、全く淀みなく説明を始めた。


神谷一郎が聞いてきた企画など、数えきれないほどだ。


桜庭は彼が本当に求めているものを理解しており、要求部分に重点を置いて説明した。


最初は余裕の表情を見せていた神谷も、話が進むにつれ、次第に真剣な面持ちになり、彼女の説明を遮って質問する頻度も高まっていった。


桜庭凛子は一つ一つ丁寧に答え、彼が完全に理解したことを確認した。


小早川城はソファに腰かけ、人差し指にはめた翡翠の指輪を弄びながら、冷たい視線を常に桜庭凛子に向けていた。


彼女の企画説明の専門性は、営業部の部長たちに引けを取らない。


彼は知らなかった…桜庭凛子にこんな才能があったとは。


彼女は自分にすがるだけの脆いつる草で、彼がいなければ生きていけないと思っていた。


どうやら、それは間違いだったようだ。


時間が過ぎ、説明は終盤へ。


「以上が概要です。実際にご契約いただけるなら、双方のチームが集まり、技術的な細部をさらに詰める必要があります。」桜庭凛子は淡く微笑んだ。


「神谷会長、決定権はあなたにあります。」


神谷一郎は老眼鏡を外し、立ち上がると、桜庭凛子を見て首を振った


。「正直言って、君に勝たせたくなかったんだ。だが、仕方ない。この企画は確かに私がずっと求めていたものだ。」彼はため息をつくと、優しく微笑んだ。


「桜庭さん、君の勝ちだ。おめでとう。明日、契約のため社までお越しください。」


「ありがとうございます。」桜庭凛子は一瞬で笑顔を輝かせ、喜びを隠さなかった。


神谷も楽しげに言った。


「小早川社長、君の秘書はどこで見つけたんだ?度胸もあれば細やかさもあり、なかなかの人材じゃないか!」


「神谷会長、お褒めの言葉をありがとうございます。」小早川が立ち上がった。


「時間も遅いので、これで失礼いたします。」


「うむ。」神谷も明らかに引き留める気はなく、桜庭の話した企画にヒントを得たようで、急いでメモを取ろうとしている様子だった。


桜庭凛子と小早川城は前後に分かれて外へ出た。


ドアを出た途端、壁にもたれて待っている九条曜の姿が目に入った。


「九条?どうしてここに?」桜庭凛子は驚いた。


「待ってたんだよ!」九条は彼女が出てくるのを見ると、笑顔で姿勢を正した。


その次の瞬間、小早川城も後から出てきた。


「小早川社長…」桜庭凛子は小早川の上着を脱いで手渡した。


「契約はまとまりました。データの問題も、明日中にはお答えできるはずです。」


小早川城は無表情で彼女を見つめ、受け取ろうとしない。


「私は友人と用事がありますので、これで…」桜庭凛子は手を伸ばして彼の腕をつかみ、上着をひじにかけてから、二歩後ずさった。


「小早川社長、おやすみなさい。」


「行こう!お腹すいただろ?いっぱい用意させてあるんだ!」九条曜は、桜庭に「友人」と言われただけで、まるで純真無垢な少年のように、喜びに満ちあふれている。


二人の間の微妙な空気には全く気づいていないようだった。


「ええ、少しお腹は空いてますね。」桜庭凛子はそう言うと、九条と並んで歩き出した。


「そうだ!これ、羽織って!」九条は腕にかけていたカシミアのストールを桜庭凛子の肩にかけた。

「ありがとう。」


小早川城はその場に立ち尽くし、九条の後ろ姿を見るだけで、彼の嬉しさが伝わってくるようだった。


桜庭凛子は彼を置き去りにし、他の男と去って行った。


一瞬、小早川は飛びかかって彼女を奪い返そうかと思った。


だが… 彼の目には凍りつくような寒気が走った。


桜庭凛子ごときが何だ?彼を感情的にさせる価値があるとでも?


彼は単に、彼女がそばにいることに慣れ、長い間、彼女を詩織の面影と重ねてきただけだ。


彼のすべての異常な感情、すべての嫉妬は、詩織のせいであって、彼の怒りを買ってばかりの桜庭凛子のせいではない。


彼はひじにかかった上着を一瞥すると、そばにあるゴミ箱に放り込み、後ろを振り返ることなく去っていった。

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