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第11話

バスルームから水音が響いていた。


秋の夜は冷え込むというのに、小早川城は冷水を浴び続けている。


頭の中は、昼間の桜庭凛子の一挙手一投足が、涙に曇った目で、屈辱と恐怖、絶望を込めて自分を見つめた彼女の姿に変わっていた。


思い返せば思い返すほど、胸に引っかかるものがあった。


その時、けたたましい呼び鈴の音が鳴り響いた。


「ちっ…」舌打ち一つして、小早川は水を止め、バスローブを羽織ると、荒々しい足取りでドアへ向かった。


ドアの向こうには高橋修が立っていた。


「何の用か?」小早川の声には冷たい棘があった。


「さっき、エレベーターホールで桜庭秘書を見かけたんです!」高橋が口を開いた。


桜庭凛子の名を聞き、小早川の表情はさらに険しくなり、ドアを閉めようとする。


「スカートは破れていて、目も真っ赤で…結構、可哀相そうでしたよ!」高橋が慌ててドアを押さえ、続けた。


小早川の胸中が、どんと沈んだ。


一瞬の沈黙になり、小早川は眉をひそめて問い返した。


「彼女は…何か言ったか?」


「社長が…いじめた、と」高橋はゆっくりと言った。


小早川は拳をギュッと握りしめた。


「いじめた」? あれがいじめだと? これまでだって、いつもよりずっと過激なこともあった。


なぜ今になって「いじめ」なんだ?


彼には理解できなかった。


なぜ、昔は良かったことが、今はダメなのか?


結婚さえしなければ、全てが元通りになるのだろうか?


その考えが頭をよぎった瞬間、小早川は心臓を強く打たれた。


結婚しない? 馬鹿げている! 小早川家とカンベル家の政略婚は双方にとって有益な取引だ。


桜庭凛子のためにそれを放棄するなんて、ありえない!


でたらめだ!


彼女のこの数日の不可解な行動に、頭をかき乱されたに違いない!


「他に用か?」小早川が顔を上げた。その眼光は、高橋を脅かした。


高橋は少し恐縮した。


幼い頃から一緒に育った間柄だが、小早川は昔から冷酷非情だった。


ここ数年は特にそれが顕著になり、高橋自身も次第に気後れするようになっていた。


「い、いえ…」 小早川はドアをバタンと閉めた。


彼はソファの傍を通り過ぎ、窓際のソファに腰を下ろした。


しばらくして、九条曜の誕生を祝う花火が夜空に咲き始めた。


しかし小早川の視線は、少し離れたカーペットの上に落ちていた------小さな真珠のイヤリングが、ひっそりと置かれている。


彼の脳裏に、それを身につけていた人の姿が浮かんだ。


******


桜庭凛子は部屋に戻ると、破れたスカートを脱ぎ捨て、すぐに浴室へ入った。


お湯が体を温める。


彼女がいなくなれば、代わりに小早川の欲求を満たす者が現れるはずだ。


早乙女亜月は、今夜こそ念願を果たすのだろうか?


頭の中に、否応なくその光景が浮かび上がる。


凛子は吐き気を覚え、小早川に触れられた箇所を、肌が真っ赤になるまでこすり洗いした。


浴室から出てくると、床に落ちていたスマホに六件の着信履歴があった。


九条から二件、小林美桜から四件だ。


「今、お風呂から出たところ」と小林美桜にLINEを送った。


少し考えて、九条にも電話をかけ直した。


数回呼び鈴が鳴ると、電話がつながった。


「凛子!? 今すぐ窓辺に来て!花火、すぐ始まるよ!」


凛子は疲れきっていたが、優しく応えた。


「うん、ありがとう」


「窓辺に着いた??」九条の声は弾んでいる。


凛子は立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩いた。


「うん、着いたよ」


「よし、打ち上げろ!」凛子は一瞬、言葉を失った。


彼は…私を待っていたの? ヒューッという音とともに、鮮やかな花火が一瞬で夜空を染めた。


「凛子、綺麗だろ?」九条が聞いた。


凛子の胸に、じんわりとした痛みが広がった。


「綺麗だよ。ありがとう、九条」


少し間を置き、今日が彼の誕生日だったことを思い出した。


「九条、誕生日おめでとう」


九条曜は確かに幸せだった。


生まれて二十年、初めてこんなにも心が躍る気持ちを味わっていた。


憧れていた黒砂漠で誕生日を迎えられないことを残念に思っていたが。


思いがけない展開で、まるでお姫様のような人を、小さな窓から彼の退屈な日常に招き入れてくれたのだ。


これ以上のいい誕生日プレゼントはないだろう。


少し離れた場所で、九条の両親は、携帯を持って一人でニヤニヤしている息子を見つめていた。


「聞くところによると、あの子、今夜は素性の知れない娘とずいぶん仲良くしていたようね」母親の九条葵は息子を見ながら、心配そうな表情を浮かべた。


父親の九条泰介は、さほど気にしていない様子だった。


「男だもの、女が何人いたって構わんさ。好きに遊ばせておけ。いずれ政略結婚をすれば、自然とおとなしくなるよ」


葵は何も言わなかったが、心の中ではこのクズ男をこっぴどく罵っていた。


*******


一夜の宴は終わりを告げた。


小林美桜家の運転手、藤井が乗ったGクラスが桟橋で待っていた。


最も早く退席したのは小早川だった。


車に乗り込もうとした時、そのGクラスが彼の視界の端に入った。


思わず目を留め、小早川の表情が暗くなる。


このナンバープレートは、前に会社で桜庭凛子を迎えに来た車と同じだ。


運転席を一瞥すると、革ジャンを着た痩せぎすの中年の男が、スマホでショート動画を見ていた。


「社長?」田中特助が慎重に声をかけた。


小早川は視線を戻すと、無表情で車に乗り込んだ。


昨夜、彼は考えをまとめていた。


終わったことだ。


桜庭凛子に関する一切は、もう自分に関係がないと。


詩織と桜庭凛子の区別をつける。


詩織への気持ちを、彼女に誤って向けるようなことはしない。


小早川の車が桟橋を離れた。


小林美桜が桜庭凛子にべったりと寄りかかりながら、二人も降りてきた。


運転手の藤井は、すぐさまスマホをしまい、走ってきてドアを開けた。


「藤井さん、その革ジャン、カッコいいね!」美桜が彼の肩をポンポンと叩いた。


藤井は顔を赤らめ、照れくさそうに頭をかいた。


「娘が誕生日に買ってくれたんです。お嬢様、笑わないでくださいよ!」


「凛子ちゃん…気持ち悪いよぉ…」美桜がふらついた頭を凛子に向ける。目は虚ろで、どれだけ飲んだのか分からない様子だ。


「大丈夫、車に乗れば楽になるからね」凛子はそう優しく言いながら、美桜を車に押し込み、シートベルトを締めると、ドアを閉めて反対側へ回った。


ドアに手をかけたその時、背後から声がかかった。


振り返ると、九条曜がさっぱりとしたスポーツウェア姿で、もじゃもじゃの小さな巻き毛の頭を揺らしながら、駆け寄ってくるのが見えた。


彼女は立ち去る前に、礼儀としてお礼と別れのメッセージを送っていた。


九条は凛子の前に到着すると、腰をかがめ、膝に手をついて、息を切らせて言葉も出せなかった。


「九条様、どうして…」凛子は驚いた。


「曜…曜って呼んでくれ!」九条は必死に言葉を絞り出した。


その様子に凛子は思わず口元が緩んだ。


「わかったわ。曜」


九条は息を整えると、背筋を伸ばした。


「見送りに来たんだ」


彼は背が高く、真っ直ぐ立つと凛子を見下ろすような位置になる。


凛子は呆気にとられると同時に、少し可笑しくもなった。


「それと、これも」九条は、自社の煌星グループのロゴが入った紙袋を差し出した。


「誕生日パーティのお返しさ」


「そんな、頂けません!」凛子は声を潜めて近づいた。


「私はただの便乗組ですし、プレゼントも用意していませんし…」


九条は笑って遮った。


「そんなの気にすんなよ!誕生日プレゼントは後で貰うからさ!」


少し間を置いて、彼は付け加えた。


「それと、君が言ってたご飯もな!」


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