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第13話

倍栄キャピタル。


金曜日の午後というのに、営業一課にのんびりした空気は微塵もない。課員たちはみな、生気を失ったような顔をしていた。




「何してるんだ?一つの案件が飛んだぐらいで仕事を放棄か?」


外から戻ってきた佐藤健は、腰に手を当てて叱りつけた。




「課長っ!桜庭秘書を処分しないことには、このままじゃどうにも仕事に身が入りませんよ!」


「そうですよ、課長!私のこのクマ!どんなエステに行っても消えないんですから!」課員たちが口々に訴える。


「急ぐな。小早川社長があの娘に三日の猶予を与えたんだ。案件が流れた以上、彼女は逃げられん!」佐藤の眉間に深い皺が刻まれた。




その時、営業一課のドアが開かれた。


「誰が逃げられないんです?」


冷たい声が入口から響く。




課員たちが一斉に振り返る。そこには、桜庭凛子がファイルを抱え、ノートパソコンを手に立っていた。




「あたしの案件を台無しにしておいて、よくもまあ平然と現れるわね!」先ほどクマを訴えていた美人、山本彩が跳ね起きて飛びかかろうとした。このプロジェクトで最も貢献したのは彼女だった。マンションの頭金すら払い込みかけていたのだ!


「山本さん!落ち着いて!暴力は違法です!」数人の同僚が慌てて彼女を引き止める。


凛子さんは顔色一つ変えず尋ねた。「誰が案件が流れたって言ったの?」


山本が烈火のごとく怒鳴り返す。「華麒麟の副社長が直に言ったのよ!企画書を顔に投げつけられそうになったんだから!」


「そう?」凛子さんは手にしたファイルを軽く揺らした。「でも、神谷会長のアシスタントから連絡があって、午後三時に華麒麟で契約を結ぶことになったわよ」


「神谷会長?神谷一郎なんて…」


山本彩の「何の役にも立たない」という言葉が口から出かかったが、ハッと我に返り、目を見開いた。「…誰ですって?神谷一郎!?」




十数分後、佐藤健が電話を切り、周りに詰めかけた課員たちを見渡した。


「彼女の作り話じゃないの?」山本が疑った。彼女が必死の努力でようやく接触できたのは華麒麟の副社長までだった。小早川社長のそばにいる飾りものの秘書に、隠居同然の神谷一郎に取り入るなんてことが可能だろうか?


佐藤は呆然と首を振った。「いや…華麒麟は確かにうちの企画を採用したそうだ」


周囲が一瞬沈黙し、次の瞬間、狂喜の歓声と笑い声が爆発した。


「でもおかしいわ」山本が割って入った。「桜庭凛子が外部の者と結託してデータを弄ったって話じゃなかったの?どうしてわざわざ案件を取り戻してくれたの?」


「そりゃあね」佐藤課長のアシスタント、伊藤達也が鼻で笑った。「小早川社長が彼女を警察に突き出すって脅したから怖くなったんでしょうよ。社長に見放されて後ろ盾を失ったんだ。ホントに案件をダメにするなんてできっこないさ」


「…それもそうね」山本も頷いた。


「課長、これからどうします?」伊藤が佐藤を見た。「彼女、まだ会議室で待ってますよ」


佐藤の顔に笑みが広がった。「たぶん、俺に謝らせたいんだろうな」


「とんでもない!データのトラブルは彼女の仕業でしょうが!」伊藤が即座に反論した。


「そうよ!」山本も同調した。


他の者たちも頷く。営業一課は結束が固く、外部の者に課長がいじめられるのを許さない。


一団となって佐藤課長に続き、会議室に入った。


「確認できた?」凛子さんはスマホを見つめ、顔も上げずに言った。


佐藤が頷く。


「桜庭さん、今回は功績で過ちを償ったと言うべきだろう」


凛子さんの指が止まり、ゆっくりと顔を上げた。


「私に何の過ちがあるんです?」


「データの件はごまかせませんぞ!」伊藤が大声で言い放った。


他の者たちも即座に同調した。


凛子さんは怒るどころか薄笑いを浮かべた。


「なかなか団結してるのね?」


「一課は昔から一枚岩です!」山本は腰に手を当て、誇らしげに言った。


「結構」凛子さんは机を軽く叩いた。「皆、座って。企画書に少し手を加えたから…」


「勝手に私達の企画書をいじる権利なんて!」山本が慌てた。


この企画書は彼女の半年の心血の結晶だ!


「仕方ないわ。神谷会長は、この修正された企画書に心を動かされたのよ」凛子さんが彼女を見据え、口調は柔らかだが、その気迫は山本を圧した。


山本は口を開いたまま言葉を失った。


「皆さん、皆さんの団結力は評価します。でも会社の利益が最優先です」凛子さんが課員たちを見渡した。


「午後三時まであと四時間。その時間を全部、私と張り合うために使うつもりですか?」


一同 次々と着席した。


凛子さんは無駄口を叩かず、すぐにパワポを開き、修正箇所を説明し始めた。


営業一課のメンバーは当初、反発心を抱いていた。


噂の愛人秘書が、東大や京大を出た自分たちエリートに比べられるはずがない、と。


しかし、話を聞くにつれ、次第に背筋を伸ばし、真剣な表情で聞き入り、分からない点があれば手を挙げて質問する者まで現れた。


途中、凛子さんが注文しておいたおにぎりとコーヒーが届いたが、休憩時間は設けられず、食べながら説明が続いた。


午後一時、会議は終了した。


「そろそろ時間です。佐藤部長、出発の準備をお願いします」凛子さんはパソコンをしまい、立ち上がった。


伊藤が突然尋ねた。


「あんたも行くのか?」


「もちろん」凛子さんが彼を見る。


非常に美しい、特にその瞳だったが、その視線に伊藤は背筋が凍るのを感じた。


「課長、彼女が行くのは適切じゃないんじゃ…だって彼女は…」


「データの問題は、あなたたち内部にある」凛子さんが冷静に遮った。


「あなたたちの人間だけに企画書を持たせて華麒麟に行かせるわけにはいきません」


彼女のあまりにもストレートな指摘に、営業一課のメンバーは全員、呆然とした。


「デタラメを!」伊藤が怒鳴った。


一方の佐藤は、凛子さんの説明を聞くうちに、彼女に対する評価を大きく改めていた。


以前の接触では、彼女の仕事ぶりの几帳面さは感じていたが、小早川社長のおかげで今があるというレッテルを貼っていた。


しかし、彼女が加えた企画書の修正は、些細な点ではあったが、全体を顧客のニーズに合致させ、より完璧なものに仕上げていた。


「神谷会長を説得したのが桜庭さんなのだから、契約には彼女を同行させるのは当然だ」佐藤が結論を下した。


「課長、それじゃあ…課内に内通者がいるって彼女の言うことを信じるんですか?」山本は驚いた。


凛子さんは彼らの議論に首を突っ込む気もなかった。


「十五分後、駐車場で」ノートパソコンを手に取り、振り返りもせずに立ち去った。


凛子さんにはオフィスがなく、行き場もなかった。


直接階下のコンビニに行き、ペットボトルの水を買った。


彼女は薬ケースを取り出した――一区画ずつ分けられた錠剤が並んでいる。


葉酸、妊婦用マルチビタミン、カルシウム剤。それらをひと掴み口に入れ、水で流し込んだ。


最近は食欲が落ちていた。


昼に食べたおにぎりは好物の味だったが、中に入っていたサーモンの匂いを嗅いだだけで吐き気がし、一口も手をつけられなかった。


「桜庭さん?」振り返ると、田中社長補佐と社長室の同僚数人が立っていた。


凛子さんは薬ケースをしまい、微笑んだ。


「お体でも?お薬を?」田中が尋ねた。


「ちょっと貧血気味で、医者にビタミンと鉄剤を処方してもらったの」凛子さんは自然に答えた。


「皆さんは?」


「もう、本当に!あの早乙女秘書ったら、何をやらせてもダメで、後始末ばかり押し付けられてさ、今ようやくランチなんですよ」一人の女性社員が落胆した様子で言った。


「彼女も着いたばかりですから、そのうち慣れますよ」凛子さんは慰めた。


「彼女の話はやめましょう、縁起悪い!桜庭さん、聞きましたよ?一課のあの案件を取り戻したんですって?」女性社員の目が輝いた。


凛子さんは頷いた。   


「ええ、これから華麒麟へ契約を取りに行くところよ」


「さすがは桜庭さん!」田中は親指を立てた。


二言三言交わした後、凛子さんは立ち去った。


立ち去る際、彼らが持っていた品物を大まかに見積もり、レジに三百円ほど払っておごった。


社長室の人間たちは彼女にずっと良くしてくれていた。


小早川城との私的な事情で辞職し、彼らに迷惑をかけたことへの申し訳なさもあった。


田中たちは会計時に凛子さんが支払い済みだと知り、またもや「桜庭さんはいい人だ」と口々に言った。


社長室に戻る道中も話は続いた。


「そういえば桜庭さん、薬の苦さがすごく苦手だったよね?あんなに薬を飲むなんて、きっと辛いはずだ!ダメ、何か甘いものを買ってあげなきゃ!」


小早川城がオフィスから出てきたちょうどその時、そんな会話が耳に入った。


田中が小早川に気づき、すぐに姿勢を正した。


「社長」


他の者たちも慌てて立ち上がる。


「社長…」

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