小早川城は足を止めず、エレベーターへと真っ直ぐ向かった。
一同は安堵の息をついた。
「社長はどちらへ? 早乙女秘書も連れず、君も?」誰かが田中に小声で尋ねた。
「お迎えです。キャンベルさんを」田中の声もひそやかだった。
「婚約者?」
「…ええ」
場が静まり返った。
「ああ…桜庭(さくらば)秘書が気の毒で」誰かが呟いた。
田中は顔を強張らせた。
「佐藤君、その話はやめろ! 誰かに聞かれたら、首が飛ぶぞ!」
佐藤は慌てて口を閉じた。
エレベーターはB1階、小早川の社用車専用スペースまで直行した。
彼は車に乗り込んだ。この車は彼自身が運転することは少なく、ほとんどは桜庭凛子(さくらばりんこ)が使っていた。
車内の彼女の私物はすべて片付けられ、自宅と同様、すっかりきれいになっていた。
だが、物は消えても、匂いは残っている。
車内には、彼女のハンドクリームの微かな香りが漂っていた。
小早川は当初、香水かと思ったが、後に彼女が風呂上がりにも同じ匂いがするのに気づいた。
薬? 何の病気だ? 考えれば考えるほど、イライラが募る。
エンジンをかけようとしたその時、数人の人影がボンネットの前を横切った。
桜庭凛子と営業一課の佐藤健(さとう たける)、そして見知らぬ数名だった。
外の連中も車内の小早川に気づき、慌てふためいた。
ただ一人、桜庭凛子だけが振り返り、冷ややかな表情でわずかに会釈した。
数日前より、さらに距離を置かれた態度だ。
小早川は高橋修(たかはし おさむ)の言葉を思い出した。
彼女は、自分が彼女をいじめたと言っているのだ。
胸がざわついた。
彼は無表情で手を振り、どくよう合図した。
佐藤たちは慌てて道を開けた。
車は発進し、走り去った。
ルームミラーに映る中、小早川の視線はやはり桜庭凛子へと戻る。
どうしてそんなに痩せている? あんなに痩せていて、病気にならないわけがないだろう。
車が去るのを見て、佐藤は安堵のため息をついた。
「桜庭さん、華麒麟(かりん)の契約戻った件、社長ご存じですよね?」
「ええ」桜庭がうなずく。
「私が神谷会長(かみや かいちょう)とお話しした際、同席なさってました」
一同は顔を見合わせ、微妙な表情を浮かべた。
社長が裏で助けていたのか? でも…社長はもう彼女を必要としていないんじゃ?
山本彩(やまもと あや)は少し後悔した。
彼女の後ろ盾がまだあると知っていれば、あんなに無礼な態度は取らなかったのに。
桜庭は説明する気もなかった。
昨夜はろくに眠れず、昼食もほとんど手をつけられなかった。気分が優れなかった。
「桜庭さん、お顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか?」山本が近づいて尋ねた。
「大丈夫です」桜庭は首を振り、さっさと車に乗り込んだ。
午後四時前、契約は調印された。
佐藤の予想に反して、契約金額は華麒麟側から自発的に三分の一引き上げられた。
その理由は、桜庭が修正した提案書の中にあった。
細部を実現するには、追加投資が必要不可欠だったのだ。
会議室を出て。
佐藤は桜庭に親指を立てた。
「桜庭さん、本当に脱帽です!社長室に戻らず、ウチの営業一課に来ませんか?」
その言葉が終わらないうちに、力強い声が後ろから響いた。
「倍栄の営業一課が、ウチの華麒麟より良いとでも?」
一同は驚いて振り返った。佐藤は、面と向かって人を引き抜こうとはずうずうしい奴だと思った。
相手を見るなり、彼はすぐに縮み上がった。
「神谷会長! ど、どうしてこちらに?」
「わしの会社だが、おるのがおかしいか?」神谷一郎はそう言うと桜庭の前に歩み寄った。
「凛子ちゃん、倍栄やめるのか?」
「ええ、辞めました」桜庭はうなずいた。
神谷の穏やかな様子は、祖父を思い出させた。
「ちょうどよかった! わしのところで企画を統括する副社長の席が空いている。来い!」
一同は驚愕した。
副社長?!
佐藤は焦ったが、神谷に正面から人を奪い合うわけにもいかず、桜庭をやきもきしたように見つめた。
桜庭は穏やかに微笑んだ。
「神谷会長、お気持ちはありがたく頂戴します。ただ、私は東京都には残らないつもりです」
「急いで返事せんでいい。考えてみい。東京都じゃなくても、華麒麟の支社は世界中にある。
来たいと思ったら、いつでもわしを手伝ってくれ!」神谷は焦らず、プライベートの名刺を一枚差し出した。
「はい、考えておきます」桜庭は名刺を受け取った。
神谷は連れを従え、向かいの会議室へと入っていった。
「桜庭さん、東京都を離れるんですか?」山本が尋ねた。
彼女は桜庭に無礼を働いたが、半日一緒に仕事をしてみて、小早川のことはさておき、桜庭の実力は本物だと感じた。
仕事もしやすかった。
もし佐藤が本当に彼女をチームに招くなら、両手を挙げて賛成だ。
「ええ」桜庭は昨夜、そう決めた。
彼女の小早川城への理解は、あまりにも断片的だった。
万一に備え、子供のために、東京都に留まるわけにはいかない。
営業一課は凱旋した。佐藤は祝賀会の手配を始めた。
「お祝いの前に、一つ片付けるべきことがあります」桜庭は落ち着いた口調で切り出した。
一同の喜びの表情が固まった。
内通者の件だ…
「桜庭さん、我々のために契約まで取り戻してくれたんだ、まずはお祝いを?」伊藤達也(いとうたつや)が作り笑いを浮かべた。
「営業一課の皆さんの祝賀会には、私は参加しません。この件を解決したら、すぐに失礼します」桜庭は情け容赦なかった。
「桜庭さん、契約も取れたことだし…」山本も止めようとした。
「お気持ちは分かります。皆さんは仲間ですから、内通者が出るのは望んでいないでしょう」桜庭の視線が一同を一掃した。
眼光だけで威圧感があった。
「残念ながら、千に一つも万に一つも、私をスケープゴートに使うべきではなかった。私は黙って損をするような人間ではありません。この人物は必ず暴き出し、厳罰に処します」
佐藤の表情が曇った。
桜庭は汚い言葉を一つも口にしなかったが、その言葉は営業一課をこてんぱんに罵倒するに等しかった。
正直なところ、データに問題が生じた時点で、内部に問題があるのではないかと彼は疑っていた。
だが、営業一課に不祥事があれば、自分も責任を問われる。
丁度その時、誰かが「データは桜庭が渡したものだ、彼女が細工したんじゃないか」と言い出した。
佐藤がそれに乗り、濡れ衣は桜庭に着せられたのだ。
「桜庭秘書、あのデータの伝票、あなたが署名したものですよ!」伊藤が冷笑した。
「社長すら、君の責任だっておっしゃってたじゃないか!」
桜庭は彼を一瞥した。
「伊藤達也、君は自分のやったことが完璧で、痕跡すら残してないと思っているのか?」
「桜庭凛子! お前、狂犬か! でたらめを!」伊藤は逆上した。
「5764。スイス銀行のあの口座、君の母親が開設したものだろ?」桜庭は一語一語、はっきりと問い詰めた。
伊藤が固まった。
「先月十日、十一日、十二日。スカイグループの花沢副社長がその口座に六回送金、総額百万ドル」桜庭はほほえんだ。
「奇遇だな。十二日は、私がデータをプロジェクト部に渡した日だ」
スカイグループ。
今回の華麒麟プロジェクトで倍栄の最大のライバル企業だ。