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第17話

田中は車で桜庭凛子を家まで送った。


道中、田中は同僚たちの心配話や伊藤達也への憤りをぶつぶつと喋った。


二十分後、車は彼女のアパートの前に停まった。


田中は傘をさしてあげようと降りた。


桜庭凛子は笑って傘を受け取りながら、「右手は大丈夫です」と言った。


田中は彼女を見つめ、心痛そうに「社長は、数日休んでから出社しろって」と伝えた。


「いいえ、早く引き継ぎを済ませたいです」桜庭凛子は首を振った。


田中は仕方ないという表情を浮かべた。


桜庭凛子は軽く会釈して立ち去ろうとした。


「桜庭秘書!」田中が彼女を呼び止めた。


桜庭凛子が振り返ると、「まだ何か?」


「社長は本当に……心配してたんです」


「本当です!」田中は念を押すように付け加えた。


桜庭凛子は信じた。


猫や犬でも五年飼えば情が移る。


ましてや彼女は社長の白月光の代わりであり、従順でもあった。


だが、それがどうした?何の役にも立たない。


田中は彼女が上階へ消えるのを見送った。


携帯を取り出し、ダイヤルを回した。


「ええ、無事送り届けました」


「桜庭秘書は休まず、早く引き継ぎたいそうです……」


「他には? 特に何も」田中の背筋が寒くなった。


電話越しでも、社長の怒りが伝わってくるようだった。


桜庭凛子は家に着くと、疲れてベッドに倒れ込んだ。


左手は激痛に襲われた。


考えれば考えるほど腹が立った。


小早川城が突然現れさえしなければ、あの時、割れたガラス片で伊藤達也の顔面を刺せたはずなのに!


翌朝早く。


桜庭凛子が服を着るのに苦戦していると、田中から電話がかかってきた。


「桜庭秘書、社長は七日間出張で早乙女秘書が同行します。引き継ぎは一旦保留です!」


これが小早川城の故意だと疑わざるを得なかった。


行かないならいい!


ちょうど引っ越しするつもりだった。


桜庭凛子の名義には小早川城から譲り受けた都心の高級マンションが二戸と、仙台市の別荘があった。


どれも住む気はなく、引き継ぎ後に売却する予定だ。


今住んでいるアパートは小早川城の所有物で、彼に従った五年前からここに住まわされていた。


左手の負傷で荷造りは困難だったため、彼女は明後日の収納代行業者を予約した。


転居先は——「実父が残してくれた3LDK、前から戻りたかったんだ!」小林美桜が電話で叫んだ。


「継父の家は良くしてくれてるんじゃない?」桜庭凛子が尋ねると、「どんだけ良くても実父じゃない!」小林美桜は話題を変えた。


「とにかく先に引っ越して。母さんを説得したらすぐ合流する!」


「相場通りの家賃を……」


「いいから!金なんていいんだよ、とりあえずそうしよう!」


小林美桜は電話を切った。


桜庭凛子は部屋を見回し、深く息を吐いた。


久しぶりの暇に映画でもと座った瞬間、また電話が鳴った。


今度は札幌基建プロジェクトの現地責任者だった。


「桜庭さん、地元住民と賠償問題で揉めてます。会社にもう一度指示を仰ぎたいのですが」桜庭凛子は眉をひそめた。


「用地買収補償、建物占用補償、人道的援助金……企画書に全て明記してあるでしょう?」


「書類は完璧なんですが、現場でトラブルが発生しまして」責任者の声は重かった。


「二期工事の途中で、住民が『先祖の墓を掘り返した』と言い出しまして……」


「要求金額は?」


「金ではなく、工事場所の変更を求めてきます。もう予算も投じているのに、今さら変更なんて……」


「金を拒むなら、額が足りないと見ている」工事着工前に境界は確定済みだ。


二期途中で突然墓が出現するわけがない。


明らかなゆすりだった。


「会社に報告します。あなたたちも交渉を続けて」


「了解です!」


電話を切り、桜庭凛子はプロジェクトファイルを開いた。


二期予定地は十勝平野の更地で、墓の記録などない。


不審に思った彼女は、報告書を作成し引き継ぎ担当に送付した。


するとまた電話が——今度は仙台市の番号だった。


「桜庭秘書」高橋修の声に彼女は顔をしかめた。


「高橋さん、用件は?」冷たい口調で尋ねた。


「あの時の発言、まだ根に持ってるのかい?」高橋はため息をついた。


「用事がなければ切ります」


「札幌プロジェクトの引き継ぎ、私が担当だと聞いたが」


「あなたが?」桜庭凛子は疑った。


「倍栄プロジェクト部の部長が直接?」


「問題点は報告書に全て記載しています」


「現地管理は?」


「二度ほど」


「辺境地では統制が難しい。桜庭秘書、札幌同行して現地人脈を洗い直そう」高橋も事件の裏を読んでいた。


「いつ?」


「仙台で用事がある。来週木曜では?」


「今日は水曜ですよ」桜庭凛子は呆れた。


「わかりました。私が先行します」


その後二日間、桜庭凛子は引っ越しを完了させた。


夜、小林美桜に奢りながら手の負傷を話すと、「労災だ!あの社長、賠償させなきゃ!」と彼女は激昂した。

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