ついに小林美桜はプンと捨てぜりふを吐いた。
「賠償するわよ、うちの社長……太っ腹だから」桜庭凛子は笑って雪山アイスを差し出した。
「まあまあ、落ち着いて」
「あんたが優しすぎるから、あの会社のクソ野郎共が責任転嫁できるんだよ!」
伊藤達也の母親の口座を調べられたのは、小林美桜のおかげだった。
食事を終え、二人は腕を組んで帰路についた。
「子供の頃、家族でよく夕食後にここを散歩したものよ」小林美桜は路傍の太い銀杏の木をぽんと叩いた。
「あの頃はこの木もこんなに立派じゃなかった」
小林美桜の父親は彼女が10歳の時に交通事故で亡くなった。
数年後、母親は資産家と再婚した。
同じ年、継父の支援で小林美桜は海外留学した。
「お父さん、恋しい?」桜庭凛子が小声で聞いた。
小林美桜は唇を噛み、頷いた。
「すごく」桜庭凛子は彼女の手の甲をそっと撫でた。
彼女自身は実の父親が誰か知らない。
当時、母親は妊娠中に仙台市に戻ってきた。
祖父母ですら子供の父親が誰か知らなかった。
後になって母親の酔った話から、男はプロポーズした直後に浮気が発覚したらしいと知った。
それ以来、桜庭凛子は父親のことを聞かなくなった。
だが母親は日増しに深まるアルコール依存で命を潰した。
小林美桜は泊まらずに帰った。桜庭凛子は鍵をかけ、ソファの隅にうずくまった。
【スマホを取り出し、小早川城にメッセージを送信した。
小早川社長、六本木ヒルズレジデンスを引き払いました。鍵は靴箱の上に置いてあります】
送信したメッセージは返信なく沈んだ。
彼女から返信を期待してもいなかった。
ゆっくりと明日の札幌出張の荷造りを始めた。
途中、スマホが振動した。
さっと取り上げると、着信表示は九条曜。
桜庭凛子は自分が滑稽だと感じた――小早川城だと一瞬思ったのだ。
「九条、ごめん、最近忙しくて食事と誕生日プレゼントの約束忘れてた」
「大丈夫さ!」九条曜の声は相変わらず明るかった。
「じゃあ明日食事どう?」
「明日は無理!」桜庭凛子が困ったように言った。
「朝一番で札幌出張、1週間の予定なの」
「札幌?」
「ええ」
「了解!じゃあ早めに休んで、おやすみ凛子」
「おやすみ九条」
九条曜はあっさり電話を切った。
桜庭凛子は気に留めなかった。
同時刻、小早川家本邸。
アリス・カンベルを迎える宴も終盤だった。
小早川城は見送りを終え、和室に戻った。
灯り煌々と照らす中、小早川青子はアリス・カンベルの手を握り、上機嫌で話していた。
「アリス・カンベルさん、結婚式のご要望はなんでも城に仰ってください。家としても最大限の配慮を!」
「結婚? 誰が?」車椅子の白髪の老婦人が毛糸の人形を弄りながら顔を上げた。
濁った目がぱっと輝いた。
「お母様、城の結婚ですよ」小早川青子が笑って答えた。
「城の結婚……」老婦人はぼんやり下を向き、再び人形を見てにっこりした。
「城が凛子ちゃんと結婚? よかった! 最高よ!」
和室の一同の笑みが凍りついた。
小早川城がちょうど入ってきた。
「麗子! 祝儀袋は? 凛子ちゃんに渡す大きな祝儀袋はどこ?」老婦人は浮き立つように叫んだ。
アリス・カンベルが一同を見回した。
「凛子ちゃんとは?」
「大した人物ではありません。母は混乱しているのです」
小早川青子が慌てて言った。
「お母様、お孫の花嫁はこちらですよ!」
老婦人はアリス・カンベルの顔をじっと見た。
しばらくして、唇を尖らせて泣き出した。
「凛子ちゃんは? 城、私の凛子ちゃんは? これは凛子ちゃんじゃない! 凛子ちゃんを探す!」
小早川城の胸が締めつけられた。
老婦人は3年前に認知症と診断されていた。
ある時、小早川城が多忙で、桜庭凛子が特別養護老人ホームで数日面倒を見たことがある。
どんな魔法をかけたのか、老婦人は彼女を心底気に入り、ここ2年、誰にも手に負えない時は、小早川城が桜庭凛子を呼ぶしかなかった。
「お祖母様、凛子ちゃんは仕事で忙しいんです」小早川城が老婦人の手を握った。
「終わったら必ず会いに来させますから、ね?」
「ビデオ電話! 今すぐ!」老婦人は激しく首を振った。
花嫁が凛子ちゃんではないという現実に、完全に取り乱していた。
小早川城は仕方なくスマホを取り出した。
桜庭凛子からの未読メッセージがあった。
眉をひそめ、開くと――引っ越した?顔が一瞬で険しくなった。
すぐさまビデオ通話をかけるも、案の定桜庭凛子は拒否。
代わりに「?」と返信が来た。
「お祖母様の調子が悪い。あなたに会いたがっている」小早川城が送信した。
すると今度は桜庭凛子からビデオ通話がかかってきた。
小早川城は冷笑した。
画面がつながると、桜庭凛子は髪を下ろし、少し血色の戻った顔だった。
背景は……確かに彼女のアパートのどの部屋とも違う。
「凛子ちゃん!」老婦人がスマホを奪った。
「お祖母様~」甘い声が響く。
「凛子ちゃん、どうして来てくれないの? 寂しかったよ!」
老婦人は子供のように甘えた。
桜庭凛子は優しく囁いた。
「お祖母様、凛子もとっても会いたかったんです。最近は食事する暇もないくらい忙しくて……終わったらすぐにお伺いしますから、ね?」
「わかった!」
「じゃあお祖母様、お約束できますか?」
「うん!」
「お祖母様は世界一素敵です!」
小早川城はその甘い声を聞きながら、一日中曇っていた気分が、少し晴れたような気がした。
「お祖母様、凛子ちゃんもお忙しいので、今日はこれで……」
小早川城がスマホを受け取ろうとした。
「凛子ちゃん、バイバイ! 必ず来てね!」
「お祖母様、バイバイ~ 必ず行きます!」
小早川城がスマホを取り戻した時には、もう桜庭凛子は切っていた。
「麗子、お祖母様を休ませて」麗子は老婦人が大失態を犯したと悟り、さっさと車椅子を押して退出した。
小早川城は立ち上がり、アリス・カンベルを見た。
「アリス・カンベルさん、誤解なさらないでください。母は病気で人が判別できない状態なのです」小早川青子が慌てて説明した。
「理解しています」アリス・カンベルは上品に微笑んだ。
「城さんの過去のことなど気にしません」
小早川青子は大満足だった。
「本当に良いお嬢様です! 小早川家の嫁にこんな方が来てくださるなんて、ご先祖様のご加護です!」
小早川城は終始無口だった。
しばらくして、用事があると席を外し自室に戻った。
ソファに深く座り、スマホを握りしめながら桜庭凛子のチャット画面をじっと見つめた。