桜庭凛子はビデオ通話を切った。
ソファに沈み込み、しばらく呆然とした。
普段祖母は介護施設で暮らしており、大事な用事がない限り本邸には戻らない。
さっき小早川がスマホを取り戻した瞬間――
ちらりと映った画面の向こうに、アリスの姿が確かに見えた。
つまり…
出張なんて嘘で、今日は婚約の日だったのか?
どうかしてるんじゃない?)
どうしてお祖母様にアリスの前でビデオをかけさせた?
狂ったのか?
それとも心底最低な男で、相手の立場を考えられないのか?
無意識に手をお腹に当てた。
「パパって本当に酷い人ね」
言い終わってハッとした。
子供の前で父親を貶すべきじゃなかった。
腹立たしさにスマホを放り投げ、寝室へ向かった。
深夜。
ソファの上のスマホが二度震えた。
小早川からのLINE通知:
「住んでた家はそのままでいい。名義を変えてやる」
「2000万円の小切手、すぐに換金しろ」
「芦ノ湖の別荘も急いで名義変更しとけ」
小早川は冷静に三通送信した。
返信はなかった。
ベランダでタバコを半箱吸い終えても、予想していたほどの怒りは湧かない。
桜庭とのLINE履歴をゆっくり捲った。
婚約発表前――
彼女は毎日のようにメッセージを送っていた。
仕事の連絡だけじゃない。
『寒いから上着を着て』
『ちゃんと食事を』…
彼の返信は、数えるほどしかなかった。
翌朝。
桜庭が小早川のメッセージに気付いた。
ため息をつく。
「小早川社長、これまで十分いただいてます。今回は結構です」
返信後、タクシーで空港へ向かった。
札幌行きの早朝便に飛び乗るためだ。
現地責任者への連絡は、つい昨日だった。
手荷物を押す桜庭が出てくると、佐藤健部長が部下を連れて待っていた。
「佐藤部長」
「おっと!桜庭秘書ご光栄!」
佐藤が部下に荷物を取らせようとした,
「お一人ですか?」
「高橋総経理は後から合流。私が先に状況確認に来ました」
佐藤の笑みが深まる。
「ではさっそく歓迎会を!」
歩き出すその時――
「凛子!」
弾んだ声が響いた。
振り向くと、九条曜が爽やかな笑顔で駆け寄ってくる。
「九条さん?」
「驚いた?」
「ええ」凛子は一呼吸置いた。
「私に会いに?」
「もちろん!」
九条はうなずいた。
「夜行便で到着して、夜明け前から待ってたんだ」
凛子の動揺を察した九条は腰をかがめて近づいた。
「ご飯おごってよ!」
「そのためだけに?」
「君が奢るならね」
「桜庭秘書、お知り合いですか?」
佐藤が割り込んだ。
「友人です」
事情が分からない今、九条の身分を明かすつもりはない。
「彼氏さん?」佐藤の笑みに部下も加わる。
「違います」凛子の声が冷たく響いた。
「状況を鑑みて、歓迎会は辞退します。午後2時に会社で打ち合わせを」
「それは困りますが…」
佐藤の「歓迎会」は、監査前に密かに根回しする魂胆だ。
「高橋総経理到着後で結構です」
凛子は佐藤たちを帰した。
手配されたホテルにも泊まらない。
「九条と同じ所に泊まる」と告げた。
佐藤たちの態度は、前回接触した時とは明らかに違っていた。
人影が遠ざかるのを確認し、九条が呟く。
「あの連中、物騒な感じだな」
「ベイキャピタルの現地プロジェクト担当です」
凛子は簡潔に答えた。
「私は東浜通りのビジネスホテル。九条さんは?」
九条の宿泊先とは反対方向だ。
「奇遇だね!僕もそこだよ!」
「そうなの?」
「さあ荷物を置いて、美味いもの食べに行こう!」
九条がふと触れた袖の中の手を、凛子が思わず引っ込めた。
「どうした?」
袖を捲くり上げると、九条の顔が青ざめた。
「これ、どうしたんだ?」
「大したことじゃない」
接触を避けるように手を引く凛子に、九条は真剣な眼差しで言った。
「次から絶対に気をつける。約束する」
苦笑いする凛子を、九条は荷物車と共に守るように駐車場へ導いた。
車は手配済みだった。
気づかなかったのは、死角に潜むカメラマンが、二人の「接近」を狙っていたことだ。
手を繋ぐ角度、抱擁に見える構図…
一時間後。
早乙女亜月の手に写真が届いた。
さらに時を置かず、匿名メールが小早川城の元へ:
【小早川城、君の女が札幌で男と密会中だ。見事な浮気疑惑じゃないか?】
小早川がメールを受信した時、母・青子とアリスと婚約パーティーの会場下見中だった。
開封した写真群に、彼の体が凍りついた。
今朝の凛子のメッセージを思い出す。
【これまで十分いただいてます】
なぜ受け取らない?)
数億円は庶民が一生かかっても稼げない金額だ。
以前なら何でも受け取った彼女が。
答えは明白だったのかもしれない。
九条がより多くを約束したと?
「城、ここが良いと思うわ」
青子がアリスの手を引いて振り返った。
小早川の鉄のような表情に、声が詰まる。
「会社の…何か問題?」
「何でもない」
スマホをロックする小早川に、青子は疑いの目を向けた。
「本当に?」
うなずく小早川は、その後も硬直したまま席に座っていた。
突然立ち上がる動作に、青子とアリスが驚く。
「母さん、アリスさん。急な出張が入った。会場はお任せします」
返事を待たず、車のキーを掴んで駆け出した。