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第19話

桜庭凛子はビデオ通話を切った。


ソファに沈み込み、しばらく呆然とした。


普段祖母は介護施設で暮らしており、大事な用事がない限り本邸には戻らない。


さっき小早川がスマホを取り戻した瞬間――


ちらりと映った画面の向こうに、アリスの姿が確かに見えた。


つまり…


出張なんて嘘で、今日は婚約の日だったのか?


どうかしてるんじゃない?)


どうしてお祖母様にアリスの前でビデオをかけさせた?

狂ったのか?


それとも心底最低な男で、相手の立場を考えられないのか?


無意識に手をお腹に当てた。


「パパって本当に酷い人ね」


言い終わってハッとした。


子供の前で父親を貶すべきじゃなかった。


腹立たしさにスマホを放り投げ、寝室へ向かった。


深夜。


ソファの上のスマホが二度震えた。


小早川からのLINE通知:


「住んでた家はそのままでいい。名義を変えてやる」


「2000万円の小切手、すぐに換金しろ」


「芦ノ湖の別荘も急いで名義変更しとけ」


小早川は冷静に三通送信した。


返信はなかった。


ベランダでタバコを半箱吸い終えても、予想していたほどの怒りは湧かない。


桜庭とのLINE履歴をゆっくり捲った。


婚約発表前――


彼女は毎日のようにメッセージを送っていた。


仕事の連絡だけじゃない。


『寒いから上着を着て』


『ちゃんと食事を』…


彼の返信は、数えるほどしかなかった。


翌朝。


桜庭が小早川のメッセージに気付いた。


ため息をつく。


「小早川社長、これまで十分いただいてます。今回は結構です」


返信後、タクシーで空港へ向かった。


札幌行きの早朝便に飛び乗るためだ。


現地責任者への連絡は、つい昨日だった。


手荷物を押す桜庭が出てくると、佐藤健部長が部下を連れて待っていた。


「佐藤部長」


「おっと!桜庭秘書ご光栄!」


佐藤が部下に荷物を取らせようとした,


「お一人ですか?」


「高橋総経理は後から合流。私が先に状況確認に来ました」


佐藤の笑みが深まる。


「ではさっそく歓迎会を!」


歩き出すその時――


「凛子!」


弾んだ声が響いた。


振り向くと、九条曜が爽やかな笑顔で駆け寄ってくる。


「九条さん?」


「驚いた?」


「ええ」凛子は一呼吸置いた。


「私に会いに?」


「もちろん!」


九条はうなずいた。


「夜行便で到着して、夜明け前から待ってたんだ」


凛子の動揺を察した九条は腰をかがめて近づいた。


「ご飯おごってよ!」


「そのためだけに?」


「君が奢るならね」


「桜庭秘書、お知り合いですか?」


佐藤が割り込んだ。


「友人です」


事情が分からない今、九条の身分を明かすつもりはない。


「彼氏さん?」佐藤の笑みに部下も加わる。


「違います」凛子の声が冷たく響いた。


「状況を鑑みて、歓迎会は辞退します。午後2時に会社で打ち合わせを」


「それは困りますが…」


佐藤の「歓迎会」は、監査前に密かに根回しする魂胆だ。


「高橋総経理到着後で結構です」


凛子は佐藤たちを帰した。


手配されたホテルにも泊まらない。


「九条と同じ所に泊まる」と告げた。


佐藤たちの態度は、前回接触した時とは明らかに違っていた。


人影が遠ざかるのを確認し、九条が呟く。


「あの連中、物騒な感じだな」


「ベイキャピタルの現地プロジェクト担当です」


凛子は簡潔に答えた。


「私は東浜通りのビジネスホテル。九条さんは?」


九条の宿泊先とは反対方向だ。


「奇遇だね!僕もそこだよ!」


「そうなの?」


「さあ荷物を置いて、美味いもの食べに行こう!」


九条がふと触れた袖の中の手を、凛子が思わず引っ込めた。


「どうした?」


袖を捲くり上げると、九条の顔が青ざめた。


「これ、どうしたんだ?」


「大したことじゃない」


接触を避けるように手を引く凛子に、九条は真剣な眼差しで言った。


「次から絶対に気をつける。約束する」


苦笑いする凛子を、九条は荷物車と共に守るように駐車場へ導いた。


車は手配済みだった。


気づかなかったのは、死角に潜むカメラマンが、二人の「接近」を狙っていたことだ。


手を繋ぐ角度、抱擁に見える構図…


一時間後。


早乙女亜月の手に写真が届いた。


さらに時を置かず、匿名メールが小早川城の元へ:

【小早川城、君の女が札幌で男と密会中だ。見事な浮気疑惑じゃないか?】


小早川がメールを受信した時、母・青子とアリスと婚約パーティーの会場下見中だった。


開封した写真群に、彼の体が凍りついた。


今朝の凛子のメッセージを思い出す。


【これまで十分いただいてます】


なぜ受け取らない?)


数億円は庶民が一生かかっても稼げない金額だ。


以前なら何でも受け取った彼女が。


答えは明白だったのかもしれない。


九条がより多くを約束したと?


「城、ここが良いと思うわ」


青子がアリスの手を引いて振り返った。


小早川の鉄のような表情に、声が詰まる。


「会社の…何か問題?」


「何でもない」


スマホをロックする小早川に、青子は疑いの目を向けた。


「本当に?」


うなずく小早川は、その後も硬直したまま席に座っていた。


突然立ち上がる動作に、青子とアリスが驚く。


「母さん、アリスさん。急な出張が入った。会場はお任せします」


返事を待たず、車のキーを掴んで駆け出した。



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