小早川青子は一瞬、反応できなかった。
顔の笑みがまだ固まっている。
アリスは手に冊子を持ち、ちょうど小早川城に見せようとしていたところだった。
まさか……
「あの男ども……仕事に夢中になると本当に加減がわからないんだから!」
青子が先に我に返り、怒りを抑えてアリスに優しく言った。
自分の息子のことはよくわかっている。
会社が大騒ぎになっても、あんな様子にはならないはずだ。
「おばさま」アリスが青子を見た。
「お祖母様がおっしゃってた凛子さん、フルネームは桜庭凛子さんですか?」
青子はぎくりとした。
「ああ……ええ、城の社長秘書補佐よ」
アリスはうなずいた。
あの日、空港に迎えに来てくれた城。
遠くからでも彼の姿はすぐにわかった。
人混みの中でひときわ背が高く、目立っていた。
でも……
彼は上の空で、何度も携帯を見ていた。
彼女が目の前に来るまで、気づかなかった。
空港を出ると、今度は会社に用事があると言って、彼女を会社に連れて行った。
アリスはその時、深く考えなかった。
城が会社に連れて行き、みんなに紹介してくれたことが、むしろ嬉しかった。
ところが会社に着いた途端、城は電話に出た。
彼女に一言もかけず、火がついたように営業部へ駆け出していった。
続けて彼女が見たのは、放心した城が怪我をした女性に駆け寄る姿だった。
周囲は騒然とし、制服姿の人間もいた。
城が声を震わせて「桜庭凛子」と叫ぶのが聞こえた。
「アリスさん、勘違いしないで!城は桜庭凛子なんて全然大したこと思ってないわ。あなたへの想いは、彼女なんかより何万倍も強いのよ!」
青子はアリスの顔色が曇ったのを見て、慌てて説明した。
「あなたと婚約してから、すぐに彼女をクビにしたんだから!」
アリスは我に返った。
そして再び優しい笑みを浮かべた。
「おばさま、わかってます。たとえ彼女がまだいても、私の手から城を奪えるなんて思いませんから」
言葉は優しいが。
青子はその中にどこか冷たい響きを感じた。
彼女は大きく胸をなでおろした。
気分は言いようなく良くなった。
アリスと息子の関係は政略結婚だと思い込んでいた。
まさかアリスに本気の想いがあるなんて!
これで事はずっと楽になる!
「安心して!」青子はアリスの手の甲をポンポンと叩いた。
「私がついてるから、誰にもあなたをいじめさせたりしないわ!」
アリスはうなずいた。
青子を抱きしめた。
城がいないので、二人とも興ざめだった。
アリスはすぐに帰った。
青子はすぐさま城に電話をかけた。
向こうは早く電話に出た。
「何だ?」城の声は冷たく硬い。
母親に対する口調ではなかった。
青子は腹の虫を抑えた。
「城、今どこ?」
「用事中だ」
「桜庭凛子のところへ行ったのか?」青子は冷笑した。
「あの娘は一枚噛んでるって前から言ってたじゃない!早乙女詩織のふりをして君のそばにいたくせに、お祖母様におべっかも使って……今になって君が家庭を持とうとしたら、本性を現したんだわ!!」
「母さん、何ふざけたこと言ってるんだ?」
城は苛立っていた。
青子が彼の前で桜庭凛子の悪口を言うのは初めてではなかった。
以前は気にも留めなかった。
しかし今日はなぜかイライラする。
「ふざけたこと?今日は君が婚約パーティをやってるのを百も承知で、わざとアリスの目の前で君を呼び出したんだわ!」
城は青子の言わんとすることがわかった。
彼は鼻で笑った。
「桜庭凛子が俺にしがみついて離れないと思ってるのか?」
「そうじゃないと何だっていうのよ!」青子の声が甲高くなった。
城は歯を食いしばった。
おそらく、彼と桜庭凛子の関係を知っている者なら皆、そう思っているのだろう。
彼女が彼から離れたいはずがない。
彼が結婚すると知れば、ありったけの手を使って奪い返そうとするに決まっている。
青子の言うことも間違ってはいなかった。
結婚を知った桜庭凛子は確かに本性を現した。
違った顔を。
もう彼を愛さず、媚びず、合わせず。
代わりに彼を嫌悪し、遠くへ逃げようとしている!
彼が与えた休みを使って、他の男と遊び回っている!
「母さん、俺なんて、あいつの目には大した価値もないんだよ」
は自嘲気味に言った。
青子は眉をひそめた。
息子の様子がおかしいと感じた。
「あの娘が君に何を吹き込んだかは知らない!小早川城、小早川グループとキャンベル家の政略結婚は小さなことじゃない。誰が邪魔をしようものなら、その者に痛い目に遭わせてやるわ!」
城は突然ブレーキを思い切り踏んだ。
タイヤが路面を擦る耳をつんざくような鋭い音がした。
後ろに車がいなくて本当に良かった。
そうでなければ確実に追突していただろう。
電話の向こうで、その音を聞いた青子が慌てた。
「城!何があったの!?」
「桜庭凛子に手を出すな!」城は一語一語、脅すような勢いで言った。
彼がこんな口調で青子に話したことは一度もなかった。
青子は昔から強気だ。
城が台頭する前、小早川グループは青子が切り盛りしていた。
母子の関係は淡白だが、表向きはうまくやっていた。
「だったら、彼女とは完全に縁を切れよ!」
青子は一歩も引かず、そう言い放つと電話を切った。
そしてすぐに別の電話をかけた。
「桜庭凛子を尾行しろ!」
「必要なら、消し去れ!」
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桜庭凛子はホテルに荷物を置いた。
高橋修に札幌に着いたことを伝えた。
高橋の電話がすぐに追いかけてきた。
「今、佐藤健の連中と一緒か?」
「いえ、適当なことを言ってあまり絡まないようにしてるわ」
「賢い!」
高橋は明らかに安堵した息をついた。
「ちょっと調べものが入ってな、佐藤健の背後には地元の黒崎組がいるらしい。やり口は荒く、腹も黒い」
凛子は思わず眉をひそめた。
「お前は大人しくホテルにいろ。こっちは午後4時には着く」
「用事があったんじゃないの?」
「キャンセルした」高橋の向こうは少し騒がしかった
「あの連中はお前一人の女の子が相手にする相手じゃねぇ。勝手に動くな、待ってろ!」
電話が切れた。
凛子は少し面食らった。
普段はいい加減な高橋が突然まともになると、なんだか違和感があった。
凛子はノートパソコンを見た。
実はさっき、彼女も高橋の言っていた黒崎組について調べていた。
組長は黒崎竜也、50代前半。若い頃は悪事の限りを尽くし、金と人脈を築いた。
金が貯まると、地元の実業家として表の顔を持つようになった。
全盛期は、札幌の娯楽産業の半分以上を手中に収めていたという。
そう考えていると。
ドアベルが鳴った。
凛子が玄関に行くと、インターホンの画面に九条曜が映っていた。
彼女はドアを開けた。
「九条様〜、まだ食事の時間じゃないですよ〜」
その「九条様」には少しからかうような響きがあった。
九条曜は大いに気に入ったらしく、歯茎が見えるほど笑った。
しっぽがあれば今にも振り回しているところだった。