「ネットで見つけた地元料理のお店、よさそうなんだけど、ちょっと遠くてね。遅くなると並ばなきゃいけなくてさ!」
ここ数年、小早川城の側にいる桜庭凛子が接してきたのは、老獪な策士か道楽息子ばかりだった。
九条曜のように、こんなにも無邪気で明るい人間は、本当に久しぶりだった。
時折、ふとした瞬間に。
あの出来事の前の自分が、ちらりと重なって見えることもあった。
あの、無邪気で明るかった頃の自分が。
「わかったわ、ご馳走するって言ったものね。場所は任せるよ」
桜庭は根気強くうなずいた。まるで子供をなだめるような感じで。
九条はご機嫌だった。
桜庭がバッグを手に取ると、二人はホテルを出た。
札幌の秋。通りは黄葉に染まり、なかなか風情があった。
桜庭が助手席に座り、九条が通り過ぎる景色を熱心に説明するのを聞いている。
彼、結構下調べしてきたんだな。
桜庭はだるそうに相槌を打つばかりで、特に熱心に返すわけでもなかった。
だが、九条の目には、それがかえって何とも言えず艶やかな、だらりとした魅力に映った。
「この先の交差点を過ぎると渋滞するんだよな」九条がそう言うと、道端の空き駐車スペースを見つけ、ゆっくりと車を寄せた。
「凛子さん、ちょっと歩かない?」
「ええ」桜庭も車の中に閉じこもっているのは気分が悪く、吐き気が込み上げてきていた。
ドアを開けると、冷たく澄んだ空気が寒さを伴って流れ込んできた。
たちまち、あのムカムカする感じがおさまった。
お腹の子、結構気を遣ってくれるんだな。
感情が高ぶった時以外は吐き気をもよおすこともなく、普段はほとんど自覚症状もなかった。
九条が大きく足を伸ばして桜庭の側へと回り込む。
肩を並べてレストランへ向かう。
二人は知らなかった。
後ろから、常に一定の距離を保って誰かがついてきていることを。
九条は事前に席を予約していた。
少し待つだけで案内された。
この店の名物は牛や羊の肉料理。
火照るような味わいだ。
桜庭はあまり食欲がなかった。
少ししか食べなかった。
一方の九条は、まるでお坊ちゃまのように、楽しそうにぺろりと平らげた。
楽しい昼食を終え、二人は駐車した車を探しながらぶらぶらと歩いた。
途中、桜庭が仕事の電話を二本受けた。
二本目はまったくもって非常識なものだった。
相手は倍栄キャピタルの子会社の総経理。
いきなりこう切り出した。
「桜庭秘書、小早川社長と連絡が取れずにいるのですが…」
桜庭は冷たく遮った。
「恐れ入りますが、直接社長室にお問い合わせください。私はもう小早川社長の秘書ではありません」
相手は一瞬言葉に詰まった。
慌てて返事をすると、電話を切った。
九条が桜庭の顔をチラリと見る。
口を滑らせてしまった。
「凛子さん、あの時だよ、埠頭で妙な女が、君のことをさんざん噂してたんだ!」
桜庭は彼を一瞥した。
視線を遠くへと向ける。
秋風が地面の落ち葉を巻き上げる。
「何て言ってたの?」彼女が尋ねた。
「やめとくよ、今さら言うことじゃない」九条は自分を殴りたくなった。
なんでついさっきの「小早川社長」という言葉に反応してしまったんだ?
「聞きたいのは、私と小早川城がどんな関係だったかってことでしょう?」
九条はぎょっとした。
「凛子さん、俺は…」彼は少し慌てた。
どう言っても、これはプライバシーへの詮索に他ならない。
「確かに、私は小早川城の側に五年いました」桜庭は九条をまっすぐに見つめ、その眼差しは澄み切っていた。
九条の体が一瞬固まった。
桜庭は少しも驚かなかった。
彼女は何もかもわかっていない純粋無垢な女なんかじゃない。
九条がこんなにべったりしてくるのは、友達でいたいだけのわけがない。
ましてや、今彼女は腹に子を宿している。
パートナーを探すつもりなど、毛頭なかった。
豪門の世界は深い。
小早川城の側にいた五年間、悲劇を数えきれないほど見てきた。
わざわざその火の中に飛び込む気はさらさらない。
「ご飯も食べたことだし、そろそろ戻りましょうか」
彼女はさりげなく話題を変えた。
そう言うと、歩き出そうとした。
足を踏み出したその瞬間、九条が彼女の腕を掴んだ。
桜庭は驚いた。
振り返って彼を見る。
「過去は過去だ」九条は真剣な表情を浮かべた。
「俺が欲しいのは、これからの君だ」
桜庭は仰天した。
慌てて腕を引っ込めた。
「九条くん、現実を見てよ!私たち、釣り合わないわ!」
「どこが?俺はどこだって完璧に釣り合ってると思うけどな!」九条は頑なに言い張る。
桜庭は頭を抱えた。
「私はあなたより年上だし、あなたの世界にいる多くの人は私と小早川城のことを知ってる…」
「俺は気にしない!」
「私は気にするの!」桜庭は口調を強めた。
「九条くん、あなた、本当にわかってるの?あなたの結婚なんて、自分で決められることじゃないでしょうが」
九条は言葉を失った。
「私が小早川城の側にいたのは、仕方なかったの。今、彼が結婚して私は去った。どれだけの人が私を嘲笑ってるか…?こんな目にもう二度と遭いたくないわ」
「俺はあんな風にはしない…」九条は慌てて言い訳した。
その時、桜庭が突然前方を見て、眉をひそめた。
「あれ、九条くんの車じゃない?」
九条も視線を向ける。
彼も眉をひそめた。
二人は急いで車の元へと駆け寄った。
シルバーのSUVは、窓ガラスがことごとく叩き割られ、ボディにはいくつもへこみがついている。
「一体誰が…?」
九条はこんな経験は初めてだった。
しかし桜庭は、割れたフロントガラスに一枚のA4用紙が貼られているのに気づいた。
冷たい表情で近づき、それを剥がし取る。
【桜庭様。まずはほんの気持ちです。札幌での楽しいデート、お楽しみくださいな。だし、余計なお節介はお控えあれ。我々の稼ぎを奪うなら、命はないと思え】
「命の警告か…?」九条の表情が険しくなった。
「ええ、私への警告ね。巻き込んでごめんなさい」桜庭はため息をついた。
「修理代は私が払うわ」
「被害者は君だろうが!何を賠償するんだよ!」九条は初めてこれほど厳しい口調を出した。
「怖がるな、俺がちゃんと始末をつけてやる!」
「倍栄キャピタルのここのプロジェクトを狙ったものだと思う。巻き込まれないよう、手を出すんじゃない。会社に処理させるわ」
「小早川城が?」九条は思わず口に出た。
桜庭はどこか酸っぱい匂いを感じた。
「小早川社長がこんな小さなことに関わるわけないでしょう?」桜庭は呆れたように言った。
「まずは警察に通報よ」
桜庭の予想通りだった。
通報し、防犯カメラを調べたが、当該区間のカメラは故障しており、何も映っていなかった。
温室育ちの九条の若様は烈火のごとく怒った。
二人があれこれ手続きを終え、ホテルに戻り着いたのは、もうすぐ午後4時という頃だった。
途中、桜庭は佐藤ケンに電話を入れ、午後の会議を翌日に延期してもらうよう手配した。
九条は心配で、桜庭を部屋のドア前まで見送った。
「誰が来ても簡単にドアを開けるなよ」と何度も念を押すと、彼はすぐさまロビーへと向かった。
桜庭の部屋の近くに自分の部屋を変えてもらうためだ。
彼が去ったかと思いきや、すぐに桜庭の部屋のドアベルが鳴った。
まだ何か言い忘れたのかと思い、
仕方なくドアを開けた。
「九条様、そんなにご心配なら耳が…」
言い終わらないうちに。
桜庭はドアの外に立つ人物を見て、驚いて目を見開いた。
「どうしてここに…?」