「入ってろ!」
小早川城が桜庭凛子の肩をぐいと押した。
凛子はよろめきながら二歩後退した。
止めようとした時には、小早川は既に室内へ入り、ドアを「バン!」と閉めていた。
轟音に凛子の胸が震えた。
「小早川社長、お話があるなら外で!」凛子は低い声で言った。
あの豪華客船での彼の不埒な行為を思い出していた。
「外?」小早川が一歩一歩詰め寄る。
凛子は眉をひそめて後退した。
「今出て行けば、新しい男にバレるんじゃないのか?」小早川の全身から冷気が漂っていた。
「九条家の若造といつからあんなに親しくなった?背中で俺と何を企んでる?ここで二人きりで何をしていたんだ」
「小早川城、何をデタラメ言ってるの?」凛子の眉間の皺が深まった。
「九条曜とは何もない!札幌には仕事で来てるの!」
背中が壁に触れた。これ以上後退できない。
小早川の冷たい手が突然、彼女の首を締め上げた。
「お前たちがべたべたしてる写真が送られてきたんだぞ?それでも騙すつもりか?」
首にかかった手に力が込められるのを感じ、凛子は無意識にその手を払いのけようとした。
「そんなことしてない...」
「お前はずっと俺を騙していた!五年前から仮面を被って俺を欺いてたんだ!」
「小早川社長、その仮面はあなたが望んだものじゃないですか?」凛子は必死で彼の指を剥がそうとした。
「あなたが早乙女さんを演じろと言うから、私は精一杯演じて喜ばせてた。今さらそれが私の間違いだと言うんですか?」
小早川の瞳が鋭く収縮した。
確かに...昔の彼は彼女がそう振る舞う様を好んでいたのだった。
「小早川城...手を押さえつけてる、痛い...」
凛子の左手が裂けるように痛んだ。
小早川が我に返った。
無意識に力を緩めた。
凛子の左手の包帯から確かに血が滲んでいた。
小早川は彼女をソファに引っ張り座らせた。
「薬は持ってるか?」
凛子が手を引こうとすると、小早川は許さなかった。
もみ合ううちに彼女はまた痛みで顔をしかめた。
「動くなって言ってるだろ!」小早川が威圧的に命令した。
「薬なんて要らない、もう治りかけなんだから」凛子は腹立たしげに言った。
小早川は彼女を睨みつけ、目にはまだ怒りの火種がくすぶっていた。
「さっき写真って言ったわね?どんな写真よ?」凛子が低い声で尋ねた。
小早川の凶暴な気配が再び燃え上がった。
彼は携帯を操作しアルバムを開いた。
「自分で見ろよ!俺がお前をでっち上げると思うか?」
凛子は無表情で一枚一枚めくり、見れば見るほど顔を曇らせた。
「私を監視させてたの?」凛子が小早川を睨んだ。
「そんな暇はない、知らない奴が送ってきたんだ」小早川はイライラしながら携帯を投げ捨て、鬼のような形相で凛子を見据えた。
「全部錯覚よ!空港の駐車場に監視カメラがないわけないでしょう?小早川社長なら簡単に全映像を確認できるはずじゃないの?」凛子の声は冷たかった。
「錯覚?」小早川はその可能性を全く考えていなかった。
「そうよ」凛子は呆れて笑った。
「そんなに多くの角度から撮られてて、九条くんと本当にキスしてる写真が一枚でもある?」
小早川が考えてみると、確かに一枚もなかった。
「調べてちょうだい、私は休むわ」凛子が立ち上がろうとした。
小早川は乱暴に彼女を座らせた。
「何するのよ?」凛子のイライラも頂点に達していた。
「誰がお前を出張させた?どうして俺に言わなかった?」小早川が尋ねた。
凛子は彼を見た。
「私が担当したプロジェクトの問題を処理しに来たの。なぜあなたに報告しなきゃいけないの?報告する義務なんてある?小早川社長、私はもうあなたの秘書じゃないのよ」
小早川は返答しなかった。
「じゃあ九条曜は?なぜあいつがここにいる?」
「あなたに関係ある?」凛子はますます煩わしさを募らせた。
小早川社長、一体どうしたんです?私たちは清算済みじゃない?いつまでも絡んでると、あなたが私に未練があるって誤解しちゃうわよ?
「何寝ぼけたこと言ってる!」
小早川の反応は激烈だった。
彼は凛子の顎をぎゅっと掴んだ。
「桜庭凛子、俺が結婚したらお前は出て行くって約束だったが、俺はまだ結婚してない!この関係はまだ終わらせない!」
凛子は呆然と彼を見つめた。
雷に打たれたようだった。
「小早川城、自分の言ってることが人間の言葉か分かってる?」彼女の目は徐々に冷たくなった。
「この五年間、私はあなたに全てを捧げてきた。私をそこまで嫌うなら、これ以上人を踏み躙らないで。あなたに心はあるの?」
凛子がこんな目で小早川を見たことは一度もなかった。
小早川は一瞬戸惑った。
「それとも、金を払ったんだから物は永遠に自分のものだと思ってるの?」凛子は興奮して声を荒げた。
「じゃあ全て返すから、私を解放してくれますか?」
「そんなこと許さない!」
小早川は理由もない不安に襲われた。
自分でも何に慌てているのか分からなかった。
本能的な拒絶だった。
「小早川城!」
凛子が鋭く叫んだ。
胃が突然激しく攣った。
彼を押しのけ浴室へ駆け込み、ドアをロックすると便器に突っ伏して吐いた。
吐き終わると全身がぐったりした。
床に座り込み、そっとお腹をさする。
彼女は理解した。この子は父親を嫌っているらしい。
激しく反応するのは、いつも小早川がいる時だった。
浴室外。
小早川は一瞬呆然とした。
浴室へ向かおうと立ち上がった。
誤って凛子のバッグを蹴ってしまった。
バッグの口が開き、中身が散らばった。
小早川は最初に小分けの薬ケースに目を留めた。
拾おうとした時、
真っ赤な文字のA4用紙が視界に飛び込んできた。
小早川がそれを拾い上げた。
一言一句読み終えた。
顔が再び氷のように冷たくなった。
そこに書かれていたのは二つの意味だけだった――誰かが桜庭凛子の命を狙っているということ。
彼氏ちゃん。
凛子はしばらくして浴室から出てきた。
バッグがひっくり返され中身が散らばっているのを見て、心臓が跳んだ。
あの薬は...
急いで近づき、慌てて物を掴みバッグに押し込んだ。
「これは何だ?」
小早川が紙を差し出した。
「命を狙っているという警告よ」凛子はバッグを手に寝室へ向かった。
小早川も後に続いた。
問い詰める間もなく、凛子は疲れたように言った。
「小早川社長、この件は高橋常務が把握してます。彼に聞いてください。本当に気分が悪いの。休ませて!」
吐いたばかりで、
凛子の顔は青白く、目尻が赤くなっていた。
小早川は「彼氏ちゃん」に腹を立てながらも、怒りを爆発させる気力もなかった。
凛子は彼を無視した。
上着を脱ぎ、布団をかぶって丸くなった。
しばらくすると、
後ろのマットレスが沈んだ。
慣れ親しんだ気配が瞬時に彼女を包んだ。
小早川が背後から抱きしめ、全ての暴力性は跡形もなく消えていた。