小早川が桜庭凛子を抱きしめていた。
まるで隔世の感覚が荒唐たる思いをよぎった。
「小早川さん」凛子は躊躇いながらも抵抗しなかった。
心底疲れ切っていたのだ。
「……うん」小早川が首筋に顔を埋めて応じる。
凛子の胸奥で鈍い刃がじわりと抉るような痛みが走った。
「もう疲れたの。ただ静かに過ごしたい……離して」
泣き叫びも怒りの声もなく、ただ静かに懇願するその声に、小早川は思わず腰を抱く腕に力を込めた。
「私は早乙女さんじゃない。あなたが好きなあの姿は、私が演じていただけ。でももう演じきれない……代わりなんて御免よ。桜庭凛子でいたいの」
「余計なことを言うな。休むんじゃなかったのか?」小早川が手を離して凛子の口を塞いだ。
「寝ろ!」
凛子は小早川の真意が見えなかった。
新しい恋人がいるのに、なぜ古い恋に固執するのか?
自嘲の念に苛まれながら、やがて思考が混濁して眠りに落ちた。
恐らく深い眠りだったのだろう。
それとも日中の命懸けの警告に心が萎縮していたのか。
凛子は悪夢を見た。
いや、悪夢というより。
祖母が火葬される日へと遡る夢だった。
まばらな近所の人々が見守る中、黒いドレスに白い花を髪に挿した自分が立っていた。
祖母が逝った時、凛子は涙一滴も零さなかった。
長年、病魔に苛まれた祖母にとって、金を注ぎ込んで延命することは苦痛を引き延ばすだけだと思ったのだ。
祖母の解放を願って。
だが棺が炉へ送り込まれる瞬間、生と死を分かつ悲嘆が怒濤のように押し寄せた。
思わず駆け寄って祖母を取り戻そうとした凛子を、近所の人々が泣きながら引き止めた。
炉の前で跪き、巨大な恐怖と無力感が凛子を飲み込んだ。
「おばあちゃん……」
「おばあちゃん!」
「おばあちゃん──っ!」
泣き叫ぶ凛子の耳に、懐かしくも遠い呼び声が響いた。
「凛子ちゃん……」
はっと目を開くと、小早川の顔が視界に浮かび上がる。
「悪夢でも見たか?」
荒い息を整えながら、凛子の焦点が合わない瞳が次第に定まる。
「大丈夫か?」小早川の声には心配が滲み、指先が凛子の涙を拭った。
「……何でもない」凛子が顔を背ける。
小早川が何か言おうとした時、呼び鈴が鳴った。
「どいて」
凛子が押しても小早川は微動だにせず、逆に凛子をベッドに押し戻した。
「誰だ?あの小僧か?」
「…………」
鳴り止まない呼び鈴に苛立ちが募る。
「小早川ってば、あっ──」言葉を遮るように小早川が凛子の首筋に噛みついた。
「狂ってるの!?」押しのけた凛子は、今度は容易に離れられた。
「行け、出てやれ」
「頭おかしい」凛子は噛まれた痕を髪で隠しながらベッドを降りた。
扉を開けると、案の定焦燥した九条曜がいた。
「凛子!眠ってたのか?電話も呼び鈴も通じなくて心配したよ!もう少しで警察に通報するところだった!」
「寝てたの。どうしたの?」
「お嬢さん、何時だと思ってる?食事の時間だよ!昼は味が濃いってほとんど食べなかっただろう?夜は広東料理にしない?あっさりしてるから」
九条の言葉が終わらないうちに、彼の視線が凛子を越えて背後を射抜いた。
凛子がどう答えるか考える中、上着が彼女の肩にかけられる。
「羽織りもせずに」小早川の咎める口調は、あたかも本妻のようだった。
「なぜお前がここに!?」九条が驚いて問う。
小早川はまぶたすら上げず、凛子の上着に絡まった長い髪を指で梳いた。
「俺が彼女の男だ。ここにいて何がおかしい?」
「小早川!」
凛子と九条の声が重なる。
次の瞬間、九条の視線が凛子の首筋に釘付けになった。
透き通るような白い肌に浮かぶ赤い痕。
小早川は加減を知っていたが、九条はその痕を火のように凝視した。
純情であれ、男である以上その意味が分からぬはずがない。
九条の視線を感じた凛子は、小早川の罠に嵌ったと悟った。
説明の手間が省けた。
そう思った矢先。
「この野郎!無理強いしたな!?」
九条が罵声を上げ、拳を振りかざして小早川に襲いかかった。
呆気に取られる凛子をよそに、九条は小早川に腕を捻られ壁へ押しつけられた。
「九条様、乳離れもしてない小僧がよくも人の女を奪おうと」
「小早川!離して!」
凛子が引き離そうとすると、小早川が冷ややかに嘲笑った。
「見ろ、こんな腰抜けがお前を守れると?何ができる?」
九条の顔が一瞬で青ざめ、苦痛に歪んだ。
「小早川!いい加減にしなさい!」
本気の怒りを見せた凛子に、小早川は素直に手を離し九条を扉の外へ押し出した。
「九条さんよ、最初で最後の忠告だ。桜庭凛子は俺の女だ。狙う者は地獄を見る」
凛子は愕然とした。
この男は「終わり」の概念を理解しているのか?
「九条──」九条の様子を見ようとしたところへ、凛子の後襟首を小早川が掴み、扉を蹴って閉めた。
「小早川ってば──っ!」凛子は怒鳴る間もなく、小早川の凶暴な口付けが襲った。
噛みつこうとする凛子の顎を、小早川は前回の教訓で押さえ込む。
強制的に口を開かせ、舌が深く侵入してきた。
奪われるように絡み合う唇から、ついに凛子の思考が白熱しそうになる頃、小早川は接吻を解いた。
荒い息を漏らしながら、小早川は凛子の顔を両手で包んだ。
鼻先が触れんばかりの距離で、獲物を窺う猛獣のような眼差し。
小早川は見つめた。
霞んだ美しい瞳、酸欠で青ざめた頬、しかし耳朶は血のように紅く、唇は腫れあがっている。
ようやく、この姿を捉えたのだ。
かつて馴染んでいた、彼だけのものだった姿を。
「たまらないな」
小早川が垂れた睫毛の奥で笑い、再び軽く唇を啄んだ。
我に返った凛子は激しく押しのけ、後退りながらドアノブに手をかけた。
「そんな姿で外に出て、あの小僧が見たら更に発狂するぞ?」
悪魔の囁きのような小早川の声が、凛子の背筋を這った。