小早川城は、よくある因縁深いタイプの社長とは少し違っていた。
両親は健在で、そこそこ仲睦まじい。
金の匙をくわえて、甘やかされて育った若様だ。
桜庭凛子が城の側にいたのは五年。
城の冷たい顔や高みの見物も、商売の場での冷酷な決断力も、すっかり見慣れていた。
早乙女詩織以外に、城の足を止められるものはなかった。
正直なところ、凛子は早乙女詩織さえも彼を止められないと思っていた。
あの時、城が交通事故に遭ったのに、詩織はさっさとヨーロッパの貴族と結婚してしまった。
城は気を紛らわせるために身代わりとしての女を探しただけで、詩織を取り戻そうとはしなかったのだ。
桜庭凛子は小早川城の様々な顔を見てきた。
だが、今目の前にあるこの図々しい態度は初めてだ。
凛子が背を向けると、城のシャツは寝癖でくしゃくしゃになっていた。
凛子を見つめながら、城の端正な顔には、凛子にとっては見慣れない得意げな表情が浮かんでいた。
「何か憑かれたの?」凛子は真剣に尋ねた。
城の顔が一瞬こわばり、また険しい表情に戻った。
「お前、あいつに俺のことをどう言ってたんだ?」城が問い詰める。
いきなり手を出してきて、それに自分が無理強いしただなんて喚いてるじゃないか!
「何も言ってないわ!」
凛子はそう言い放つと、寝室へ入り、さっとスマホを手に取った。
画面には機内モードの表示。
誰がやったかは、聞かなくてもわかる。
凛子は機内モードを解除し、少し考えてから、九条曜にメッセージを送った。
「九条さん、今日は本当にすみませんでした。怪我はありませんか? 一旦戻ってください。後で必ずお詫びに伺います。」
返信はなかった。
正直、小早川城は人をイラッとさせるのが本当に上手い。
九条曜との友人関係は、これで八割方おしまいだろう。
「話がある」城が付いてきて、凛子の向かいのソファに腰を下ろした。
「何の話?」凛子が城を見て言った。
「お前の仕事は見事だった」城は真剣な口調で言った。「倍栄キャピタルで新エネルギー事業を始める。新会社だ。お前に任せるつもりだ。」
「何て言ったの?」凛子は一瞬、言葉を失った。
「お前を新会社のトップに据えるって言ってるんだ」城ははっきりと繰り返した。
凛子は認めざるを得なかった。
これは実に美味しい餌だ。
だが…
美味しい餌ほど、その代償も大きい。
「遠慮するわ」
凛子はきっぱりと断った。
仕事はやりたかった。
しかし、今は立場が違う。
子供のために、小早川城からは遠く離れなければならない。
そうしなければ、子供のことを彼に知られたら、すべてが終わりだ。
「凛子、ムキになるなよ」城は珍しく親しい口調で呼んだ。
「分かったわ。考えておく」城がまた怒り出しそうな気配を感じて、凛子は仕方なく言い直した。
「答えはいつまで?」城が詰め寄る。
「戻ってから改めて真剣に考えるから、それまでは待ってください」凛子は適当にあしらった。
城はむしろ満足そうだった。
新エネルギー会社のトップの座。
どれほどの者が血眼になって狙っているか。
断る理由などないはずだ。
別れてからの日々、城は凛子の動きを見ていた。
城はちゃんと理解しているつもりだった。
檻の小鳥は、なかなか気位が高いのだ。
一軒の豪邸に二億円だけでは、凛子の欲望は満たされないのか。
新会社のトップの座こそが、釣り合う価値がある。
「行くぞ、食事に付き合え」
「無理」凛子は拒絶した。
「仕事があるの」
城は眉をひそめた。
凛子と正面からぶつかるのは得策ではないと考えた。
城は、どうやら押すより引くほうが効くらしい。
「和食が食べたいのか?」さっきの小僧がそう言っていたのを思い出した。
「小早川城…やめてくれない? 気持ち悪いわ!」凛子は顔を背けた。
城はぽかんとした。
「どうした? ただ何が食べたいか聞いただけだぞ?」
凛子は笑った。
「小早川社長、今まで私に食べたいものを聞いたこと、一度でもありました?」
城の顔がゆっくりと曇っていった。
「ちょうどいい機会だから聞きますけど、小早川社長。私は五年間もあなたの側にいました。あなたは私の好き嫌い、わかってるんですか?」
城はしばらく黙ってから言った。
「今から教てくれないか」
「そんなの、今更意味があります?」
ちょうどその時、凛子のスマホが鳴った。
高橋修からのだった。
「高橋部長」凛子の口調はよそよそしい。
「午後、うっかり寝込んでしまって、スマホが機内モードになっていました。お着きですか?」
「声が枯れてるぞ?」高橋は質問に答えずに言った。
「少し風邪気味かも」リョウコは言った。
「明日の会議前に打ち合わせを?」
「じゃあ食事でも? 食べながら話さないか?」
凛子が答える間もなく、城が凛子のスマホを奪い取った。
「和食屋を探せ。店の住所を俺に送れ」と高橋に言った。
「お前、誰だ?」高橋が怒った。
「お前のbossだ」城は電話を切った。
凛子はこれ以上言い争うのも面倒だった。
着替えようと立ち上がる。
「どこへ行く?」城が後をついてきた。
「着替えに」凛子の服は全てコーディネートされて揃っていた。
凛子がクローゼットに手を伸ばすと、城が彼女の背後から手を伸ばし、軽々と服を取った。
そして、ケガをしていない方の手を引いて、脇へ連れて行こうとした。
「何をしているんですか?」凛子が眉をひそめた。
「手伝ってやる」城は当然のように言った。
「結構です!」凛子は断固拒否した。
「やりたい」城は凛子を見つめた、「前に俺がゴルフで腕を折った時、お前はどうやって世話をしてくれた? 同じことをしてやるだけだ」
「それは仕事でしたから。お金を貰っていますし」
「今だって俺に請求すればいい」城は理不尽なことを言い張った。
「小早川城…やめてくれ!」凛子は諦めの声を出した。
「桜庭凛子、お前こそやめてくれ」城は彼女の腰を抱いて自分の方へ引き寄せた。「俺の性格はわかってるだろ? 話し合いでうまくいかないなら、別の方法に変えるしかない…」
城は背後にある大きなベッドを一瞥した。
凛子は背筋が凍った。
その「方法」が何を意味するか知っていた。
考えるまでもない。
歯を食いしばって城に着替えさせた。
城は不器用だった。
自分で着るなら数分で済むところを、
城は無理やり十数分もかけてしまった。
「よし」城は手を離した。
が、すぐにまた凛子の腰に手を回し、彼女の鎖骨や首筋の赤い痕にキスをした。
「スカーフをかけないとな」
「いいんです!」
凛子は城を押しのけた。
小早川城は犬のように、跡をつけるのが好きだった。
だから彼女はコンシーラーをすぐに使い切ってしまうのだった。
しばらくすると、凛子の首の痕は消えていた。
「どうしてこんなものを塗るのが好きなんだ?」城はどう見ても気に入らなかったらしく、嫌そうにそのコンシーラーをつまみ上げた。
「これがなかったら、過去五年間、真夏でもスカーフを巻いてたんですから」
凛子はそう言うと、パソコンケースを手に取って、まっすぐに外へ出ていこうとした。
城が後を追う。
警戒しながらドアを開けると、九条曜がまだ廊下に突っ立っていた。