留学時代、修は女性関係のトラブルを招き、ストーカー被害に遭ったこともある。
命を狙われると告げられた時さえあった。
初めて脅迫された相手がY国のヤクザだと知り、修は恐れおののき、数日間居ても立ってもいられなかった。
結局、実家の介入で事態は収拾したのだった。
「君も以前脅されたことがあるのか?」修は思わず尋ねた。
「どうして?」凛子は奇妙な目つきで修を見た。
「いや、あまりにも冷静すぎやしないか?怖くないのか?」
「怖がったところで何か変わる?」凛子はノートパソコンを閉じ、鞄を手に取ると「明日の七時、ホテルのロビーで」と言い残した。
あっさり去っていく彼女に、修はその冷めた態度を反芻していた。
そこへ城から電話がかかってきた。
「小早川様、どちらに?会計してくれるのをお待ちしてますよ」修は気怠そうにからかった。
「何人か送り込んだ」城の声は冷たい。「竜也の件は彼らが処理する」
「へぇ」修は背もたれにもたれた。「随念入ってるじゃないか。まさか俺のためじゃあるまいな?」
「はっきり言え」城は苛立っていた。
「城、もしかして本当に凛子を行かせるつもりはないのか?」
「ああ」
「何だと?」修は即座に姿勢を正した。
「行かせないと言った」
「彼女が同意したのか?」修は眉をひそめた。
彼女の態度を見る限り、未練など微塵も感じられなかった。
「彼女の考えなどどうでもいい」城の声は低く響いた。「どうしても駄目なら、閉じ込めるまでだ」
「それは詩織への執着を凛子にぶつけてるだけじゃないのか?」
修の背筋が凍った。
城は考えるのも面倒だった。
詩織のためであれ、凛子自身のためであれ、彼は凛子を手放すつもりなど毛頭なかった。
「城、彼女にも親がいるんだぞ…」
「余計なお世話だ」城は一方的に切った。
自らの行いが過剰だとは微塵も思っていない。
彼から離れれば、彼女の生活の質は急降下する。
ましてや弱肉強食のこの世界で、どれほどの苦労を強いられることか。
形式上の立場以外なら、何でも与えてやれる。
衣食住に困らず、平穏な人生を保障する。
そう考えながら、城は札幌の担当者に電話をかけた。
「あまり順調に進めすぎるな。適度に障害を入れろ」少し間を置き、「ただし、目を離すな。怪我だけはさせないように」
電話の相手は困惑しながら承諾した。
支援に行くはずが、桜庭秘書にわざと手間をかけさせるとは?
社長の考えは本当に読めない。
電話を切った城の気分は幾分晴れた。
外で十分に挫折すれば、自分と一緒にいた時の安心感を思い出すだろう。
そうだ…ついでに東京の最高級サナトリウムも調べておかねば。
夢の中で祖母を呼んでいた。
きっと恋しがっているに違いない。
祖母を呼び寄せれば、凛子も喜ぶだろう。
深夜、東京に戻った城はカンベル家の私設病院へ直行した。
特別室では、包帯を巻いたアリスの額から血が滲んでいるが、意識ははっきりしていた。
「城!よく来てくれたわ」
青子が城の姿を見ると、すぐに立ち上がった。
「どうした?」彼の声には冷たさが滲んでいた。
「小早川様、そのお言葉は何ですか?」青子の隣に立つ中年の女性が眉をひそめた。
城は覚えていた。
アリスの執事、ジョイスだ。
「ジョイス…」アリスはそっと彼女の袖を引いた。
「ジョイス、城はアリスを心配してるのよ」
青子は、執事が息子にそんな態度を取ることに声を潜めた。
「奥様、本日はお嬢様と小早川様が挙式の会場を選ばれる予定でした。お嬢様は大変お楽しみにされ、カンベルご夫妻もご存知だったのです」ジョイスの表情は硬い。
「これではご夫妻も小早川家の誠意を疑われます!」
「だから?」城の声は凍りつくようだった。
「小早川様…」
ジョイスはその眼差しに押され、声をひそめた。
「会場もスタイルも好きに決めろと言ったはずだ」城はアリスを見据えた。
「城!」青子は城がアリスを直接問いただすとは思っていなかった。
「事故は俺が起こしたのではないだろう?」彼はさらに詰め寄った。
「違います…」アリスの顔が青ざめた。
「消防栓に自分でぶつかっただけですから…」
「結構」城はジョイスを一瞥し、冷ややかに言い放った。
「カンベル様、我々の結婚は利益のための結合だ。互いが必要としているものを得るためにな。だがこれを利用して脅そうとするなら、続行の是非を考え直した方が良い」
「城!」青子は怒鳴った。
「伯母さま、おっしゃる通りです」アリスは柔らかく言った。「今日の件はジョイスの余計なお世話でした。私が代わってお詫びします」
ジョイスの顔色が険しくなる。
ただ愚痴っただけで、城はあっさり態度を翻した?
約束を破ったのは明らかに城の方だろう!
彼のスケジュールを調べた。
ホテルを出て空港へ直行し、札幌に向かった。
噂のあの桜庭秘書も同じ場所にいた!
仕事などではない!
アリスが心乱れて事故を起こしたのに、謝るのはこちらの道理か?
「怪我の程度は?」
城は潮時を見計らい、口調を和らげた。
「エアバッグがあったから大丈夫だろう」
アリスの目尻が赤くなり、首を振った。
「何が大丈夫だろうって?」青子はいたわった。「脳震盪を起こし、手首も捻挫しているのよ!」
その時初めて城は、アリスの右手にギプスが巻かれているのに気づいた。
アリスはうつむき、痛々しくて可哀想な様子だった。
「アリスは一晩様子を見る必要があるわ。あなたが付き添いなさい!」青子は息子を睨みつけた。
城はしばし沈黙し、やがて「ああ」と応えた。
「アリス、城は無愛想で思いやりに欠けるところがあるの」青子は振り返って宥めた。
「結婚したら少しずつ躾けてあげてね」
アリスは恥じらいながら頷いた。
だが…思いやりに欠ける?
ガラスの破片が散らばる中、必死に凛子を抱きかかえる城の姿を脳裏に浮かんだ。