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第26話

留学時代、修は女性関係のトラブルを招き、ストーカー被害に遭ったこともある。


命を狙われると告げられた時さえあった。


初めて脅迫された相手がY国のヤクザだと知り、修は恐れおののき、数日間居ても立ってもいられなかった。


結局、実家の介入で事態は収拾したのだった。


「君も以前脅されたことがあるのか?」修は思わず尋ねた。


「どうして?」凛子は奇妙な目つきで修を見た。


「いや、あまりにも冷静すぎやしないか?怖くないのか?」


「怖がったところで何か変わる?」凛子はノートパソコンを閉じ、鞄を手に取ると「明日の七時、ホテルのロビーで」と言い残した。


あっさり去っていく彼女に、修はその冷めた態度を反芻していた。


そこへ城から電話がかかってきた。


「小早川様、どちらに?会計してくれるのをお待ちしてますよ」修は気怠そうにからかった。


「何人か送り込んだ」城の声は冷たい。「竜也の件は彼らが処理する」


「へぇ」修は背もたれにもたれた。「随念入ってるじゃないか。まさか俺のためじゃあるまいな?」


「はっきり言え」城は苛立っていた。


「城、もしかして本当に凛子を行かせるつもりはないのか?」


「ああ」


「何だと?」修は即座に姿勢を正した。


「行かせないと言った」


「彼女が同意したのか?」修は眉をひそめた。


彼女の態度を見る限り、未練など微塵も感じられなかった。


「彼女の考えなどどうでもいい」城の声は低く響いた。「どうしても駄目なら、閉じ込めるまでだ」


「それは詩織への執着を凛子にぶつけてるだけじゃないのか?」

修の背筋が凍った。


城は考えるのも面倒だった。


詩織のためであれ、凛子自身のためであれ、彼は凛子を手放すつもりなど毛頭なかった。


「城、彼女にも親がいるんだぞ…」


「余計なお世話だ」城は一方的に切った。


自らの行いが過剰だとは微塵も思っていない。


彼から離れれば、彼女の生活の質は急降下する。


ましてや弱肉強食のこの世界で、どれほどの苦労を強いられることか。


形式上の立場以外なら、何でも与えてやれる。


衣食住に困らず、平穏な人生を保障する。


そう考えながら、城は札幌の担当者に電話をかけた。


「あまり順調に進めすぎるな。適度に障害を入れろ」少し間を置き、「ただし、目を離すな。怪我だけはさせないように」


電話の相手は困惑しながら承諾した。


支援に行くはずが、桜庭秘書にわざと手間をかけさせるとは?


社長の考えは本当に読めない。


電話を切った城の気分は幾分晴れた。


外で十分に挫折すれば、自分と一緒にいた時の安心感を思い出すだろう。


そうだ…ついでに東京の最高級サナトリウムも調べておかねば。


夢の中で祖母を呼んでいた。


きっと恋しがっているに違いない。


祖母を呼び寄せれば、凛子も喜ぶだろう。


深夜、東京に戻った城はカンベル家の私設病院へ直行した。


特別室では、包帯を巻いたアリスの額から血が滲んでいるが、意識ははっきりしていた。


「城!よく来てくれたわ」

青子が城の姿を見ると、すぐに立ち上がった。


「どうした?」彼の声には冷たさが滲んでいた。


「小早川様、そのお言葉は何ですか?」青子の隣に立つ中年の女性が眉をひそめた。


城は覚えていた。


アリスの執事、ジョイスだ。

「ジョイス…」アリスはそっと彼女の袖を引いた。


「ジョイス、城はアリスを心配してるのよ」


青子は、執事が息子にそんな態度を取ることに声を潜めた。


「奥様、本日はお嬢様と小早川様が挙式の会場を選ばれる予定でした。お嬢様は大変お楽しみにされ、カンベルご夫妻もご存知だったのです」ジョイスの表情は硬い。


「これではご夫妻も小早川家の誠意を疑われます!」


「だから?」城の声は凍りつくようだった。


「小早川様…」

ジョイスはその眼差しに押され、声をひそめた。


「会場もスタイルも好きに決めろと言ったはずだ」城はアリスを見据えた。


「城!」青子は城がアリスを直接問いただすとは思っていなかった。


「事故は俺が起こしたのではないだろう?」彼はさらに詰め寄った。


「違います…」アリスの顔が青ざめた。


「消防栓に自分でぶつかっただけですから…」


「結構」城はジョイスを一瞥し、冷ややかに言い放った。


「カンベル様、我々の結婚は利益のための結合だ。互いが必要としているものを得るためにな。だがこれを利用して脅そうとするなら、続行の是非を考え直した方が良い」


「城!」青子は怒鳴った。


「伯母さま、おっしゃる通りです」アリスは柔らかく言った。「今日の件はジョイスの余計なお世話でした。私が代わってお詫びします」


ジョイスの顔色が険しくなる。


ただ愚痴っただけで、城はあっさり態度を翻した?


約束を破ったのは明らかに城の方だろう!


彼のスケジュールを調べた。


ホテルを出て空港へ直行し、札幌に向かった。


噂のあの桜庭秘書も同じ場所にいた!


仕事などではない!


アリスが心乱れて事故を起こしたのに、謝るのはこちらの道理か?


「怪我の程度は?」

城は潮時を見計らい、口調を和らげた。


「エアバッグがあったから大丈夫だろう」

アリスの目尻が赤くなり、首を振った。


「何が大丈夫だろうって?」青子はいたわった。「脳震盪を起こし、手首も捻挫しているのよ!」


その時初めて城は、アリスの右手にギプスが巻かれているのに気づいた。


アリスはうつむき、痛々しくて可哀想な様子だった。


「アリスは一晩様子を見る必要があるわ。あなたが付き添いなさい!」青子は息子を睨みつけた。


城はしばし沈黙し、やがて「ああ」と応えた。


「アリス、城は無愛想で思いやりに欠けるところがあるの」青子は振り返って宥めた。


「結婚したら少しずつ躾けてあげてね」


アリスは恥じらいながら頷いた。


だが…思いやりに欠ける?


ガラスの破片が散らばる中、必死に凛子を抱きかかえる城の姿を脳裏に浮かんだ。

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