健は結局、自首する機会すら得られなかった。
事務室の扉を出た途端、待ち構えていた警官に地面へ押さえつけられ、冷たい手錠がカチリと彼の手首を締めた。
「この悪女め、いつか必ず天罰が下るぞ!」
パトカーに押し込まれる間も、健は狂ったように罵り続けていた。
修は思わず傍らの凛子を見た。
凛子は無表情で、あの悪意に満ちた呪詛が自分とは無関係であるかのように振る舞っている。
「いつ手を回したんだ?俺まで知らせずに」 修は眉を上げて問いかけた。
「私の任期中の問題ですから、私の手で解決するのが当然です」
凛子の口調は静かながら、揺るぎない決意をにじませていた。
「自首すら許さないとは、なかなか辛辣だ」 修は腕組みし、軽薄な笑みの奥に賞賛の色を浮かべた。
「桜庭さんと知り合ってから五年、今日初めて桜庭秘書の手厳しさを知ったよ」
「敵に情けをかけるのは、自分を痛めつけるのと同じです」
凛子は一呼吸置いた。 「それに、彼らは友達の車を壊しました。あの車は結構高いのよ」
「目には目を、歯には歯をとは、いい性分だ」 修は笑いながら親指を立てた。
「後始末は私が担当します。異論は?」 凛子は手にした裏切り者のリストを揺らしながら尋ねた。
来る前まで、修はこの女性の能力を疑っていた。
だが今、彼は完全に納得していた。
「なし。お任せします」 修は「どうぞ」と手振りしながら応えた。
凛子は少し離れたところで震え上がっている中年の男に手招きした。
人事課長の池田寛太だ。
健が逮捕されて以来、経営陣全員が針の筵の心境だった。
不正に手を染めた面々の首筋には、見えざる刃が突きつけられているようだ。
「桜庭秘書、高橋さんは…」
池田寛太が冷や汗を拭いながら駆け寄ってきた。
「全員に至急会議を」
「は、はい!」 池田は慌ててスマホを取り出し、社内グループで全員呼び出しをかけた。
修は自分のスマホを手に取り、城に桜庭秘書の武勇伝を伝えようと思ったのだ。
だが、しばらく迷っていた結果、やめることにした。
婚約間近の城に、他の女のことを伝える必要はなかった。
「桜庭さん、昼は何を食べる?」 スマホをしまうと、笑顔で尋ねた。
「会議後は社員食堂で何か買って食べます」
修は意外だった。
これまで付き合った女性はミシュランか高級店派ばかり。
社食を自ら選ぶ女性は初めてだ。
城は凛子に対して、いつだって惜しげなく小遣いを渡すのだった。
修は彼女も他の金銭目当ての女と変わらないと思っていた。
「何か?」 凛子が視線を察し、不満げに眉をひそめた。
修は花のような目を細め、 無邪気な笑みを浮かべた。
「小早川様とこれほど長く付き合ってきたけど、彼が目を誤るのは初めてだ。桜庭秘書はまさに未研磨の宝玉だ」
「……」
凛子は冷笑を一つ漏らし、会議室へ背を向けた。
プレイボーイの口先だけの褒め言葉など、一言も信じるつもりはなかった。
会議室は程なく満席となった。
資材調達中の者を除き、工事部全員が揃っている。
「桜庭秘書、九条様の件は本当に我々は…」池田寛太が言いかけた時、全員のスマホが一斉に震えた。
修が工事部のチャットグループに健の自白を流したのだ。
「これは誹謗です!」
「健が狂ってでたらめを!」
「小早川グループで十年以上も働いて、まさか…」
「静かに」
凛子が机を叩くと、騒然とした室内が次第に静まった。
顔を真っ赤にして弁明する者もいれば、後ろめたそうに俯く者もいた。
「火のない所に煙は立たぬ」 凛子の口調は静かだった。
「健は詳細に供述しています。会社が調べられないとでも?」
さっきまで憤慨していた面々は急に黙り込んだ。
「皆さんの手口はどれも巧妙とは言えませんね。調べればすぐにわかることばかりです」
「桜庭秘書!私は五十万円だけもらったのです!無理やりされたんです!」 一人の中年男性が突然立ち上がり、涙ながらに訴えた。
「1円も使ってません! すぐに会社に返しますから! 警察に通報しないでください!お願いします!」
最初の声を皮切りに、次々と返済の意思を示す者が現れた。
金を使い切った者たちは顔色を失っている。
「事情は把握しています」 凛子は周囲を見渡した。 「皆さんがここまで来たのは、健に引きずられた部分が大きい」
「そうそう!桜庭秘書のおっしゃる通り!」
「九条さんがいつも、衆に法は及ばずって…」
「ええ」 凛子は頷いた。
「社長の機嫌を損ねるかもしれませんが、ご家族が路頭に迷うよりはましでしょう」
「何でも言ってください!必ず協力します!」
「返済は必須です」
凛子の口調は幾分和らいだ。
「会社の金はただで湧いてくるものではありません。異論は?」
「ありません!すぐ返します!」
「妻に振り込ませます!」
「でも…桜庭秘書、今は全額用意できなくて…」
「すぐに難しい方は分割返済も可です」 凛子は珍しく寛容さを見せた。
「あなた方の態度次第では、社長に酌量の余地を求めることも可能です」
ここまで言われて、牢屋行きを免れるため、連中は我先に協力を申し出た。
現場にいない奴らまで、慌てて電話をかけてきて、泣きながら許しを請う始末だ。