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水風船の中のしあわせ
水風船の中のしあわせ
穂祥舞
現実世界現代ドラマ
2025年07月01日
公開日
2万字
連載中
音楽学部を卒業し留学の経験もあるが、フルーティストとは呼べないような生活を送る悠貴(ゆうき)。ある日兄の広輝(ひろき)に頼まれ、姪の有紗(ありさ)を、とある新進ピアニストのコンサートに連れて行くことになる。そのピアニスト、瑠可(るか)と悠貴は大学の同期で、かつては音楽家を目指して切磋琢磨し合う仲だった。華々しく活躍する瑠可と顔を合わせずに、ホールから去ろうとする悠貴だったが、有紗は瑠可に花を直接手渡したいと言い出す。悠貴は姪の願いを、無下にすることも出来なくなり……。 綺想編纂館 朧さまの物書き企画「文披31題」2025年バージョン。頂戴しているお題を毎話使い、連作短編の形で書き進める予定です。舞台は大阪です。 拙作『夏の扉が開かない』は同じ企画の2024年版で、昨夏完結させたものを転載しました。今年はオンタイムで連載します。毎日更新は難しいと思いますが、無謀に頑張ります!

第1話 まっさらな予定表

 ぱらりと手帳をめくってみて、大城おおしろ悠貴ゆうきは小さく溜め息をついた。「July」というタイトルのついた月間カレンダーのページは、真っ白だ。

 そういえば、ブライダルのアルバイトの時間を、まだ確認していなかった。今更そんなことに気づき、悠貴はスマートフォンを手にして、派遣会社の会員専用ページを開く。

 7月から約2ヶ月、つまり真夏は結婚式は閑散期だ。仕事の数に期待せずマイページに入ると、大安の日曜日に数件依頼が入っていた。正直なところ、これで予定される収入にときめきは皆無だが、仕事はあるに越したことはない。

 悠貴は平日、朝の10時から夕方の4時まで、小さな印刷会社で事務のアルバイトをしている。そして週末は、大阪や神戸のホテルのチャペルでおこなわれる結婚式に出向いて、演奏する。ホテルから支払われた依頼料を派遣会社がかなりピンハネするので、繁忙期でも小遣い程度の稼ぎにしかならないが、音楽学部の器楽科を卒業した悠貴が、唯一専攻を活かせる場所だ。

 悠貴はまっさらの状態だった月間スケジュールに、3件の結婚式の予定を書きつけた。それでも7月のカレンダーは白白としていて、何やら物悲しささえ覚える。学生時代は、レッスンや舞台の本番、誰かのコンサート、それに友人知人と会う予定でいっぱいだったのに。

 ベッドに寝転がって、悠貴はまっさらではなくなったページの先を繰った。そこにもやはり、何も書かれてはいない。まるで自分の人生の空虚さを見せつけられているようで、不安混じりの軽い苛立ちが胸の中にもくもくと立ちこめてくる。

 学生時代から、自分が特別優れたフルーティストだとは思っていない。でも、「割と吹ける人」の位置にいたはずだ。その証拠に、大学の卒業演奏会に出演するメンバーの末端に入れてもらったし、留学の費用の半分を大学に負担してもらった。

 客観的に見て、社交性は高いほうだ。コンクールで知り合った同業者とすぐにSNSで繋がることにためらいは無く、公開レッスンなどで指導者に顔と名前を覚えてもらうコツも知っている。大城くんも吹かないかと、いろんな場面で共演のお誘いを受けたものだ。それなのに、今どうしてこんな、孤独でしょぼくれたフリーター生活を送っているのだろう。

 階下から、母ののんびりした声がした。


「悠貴、ごはん」

「はーい」


 ベッドから身体をゆっくり起こし、当然のように返事をしてしまった自分が嫌になって、またひとつ溜め息をついた。実家住まいで家に微々たる金額しか入れず、家事も母親に任せっぱなしの自分のような男を、世間が「子ども部屋おじさん」と呼ぶと知った時の衝撃。

 まだおじさんと呼ばれる年齢ではない。30に手が届いたばかりの悠貴は、平日勤める会社の男子従業員の中では、若いほうから3番目だし、週末チャペルで一緒に演奏している女性奏者の中には、母とあまり変わらない年齢の人もいる。

 だが、おそらく実年齢の問題ではないのだ。成人した者が、親に平気で甘えていることへの揶揄を、あの嫌な言葉は含んでいる。学生時代、社会から馬鹿にされるカテゴリーに自分が収まってしまう未来など考えたことがなかったけれど、案外その沼は近い場所にあり、嵌った悠貴の詰めが甘かったということなのだろう。

 階下のダイニングに入ると、いつものように母と2人の食卓を整える。兄の広輝ひろきが結婚を機に家を出てもう7年になり、父は会社への最後の奉公に、1年間の単身赴任中だ。

 悠貴は母がおたまで満たした汁椀を、テーブルに運ぶ。グリルが開くと、焼き鮭の匂いがした。塩味の効いた鮭は嫌いではないが、たまにはムニエルとかで食べたい、と言いかけてやめる。おまえが作れという話だ。

 母は茶碗にご飯をよそいながら、あっ、と高い声を出した。


「お兄ちゃんが、あんたに何か頼みごとがあるみたいなこと言うてたで」


 悠貴は首を傾げた。今のところ、兄からその手の連絡は無い。


「何かって、何やねん」

「知らんがな、ほんまに頼む気やったら言うてくるやろ」


 母はあっさり答えた。そこで兄に、弟への用を詳しく尋ねないのが、何となくこの人らしいと思う。

 メニューが出揃ったので、向かい合わせで座って互いに手を合わせる。


「いただきます」


 鮭に箸をつけた母が、塩辛っ! と小さく言った。悠貴も赤い身を口に入れたが、舌の上にざあっと広がった塩気に、すぐに茶碗を手にした。


「俺の血圧上げて殺す気か」

「あんた殺して何のええことがあるねん」


 母の返しがごもっともなので、悠貴は黙って炊き立てのご飯を口の中に押し込んだ。


「そや悠貴、今週末結婚式あるんか?」


 話題がいきなり変わるのもよくあることなので、悠貴はご飯を飲み下してから口を開く。


「土曜は無い、日曜に1本だけ」

「ほな土曜に映画つき合って」

「ええけど、おとん帰ってやへんのか?」


 不肖の息子は両親に気を遣う。九州に暮らす父が週末に帰宅するなら、天王寺に映画を母と一緒に観に行き、食事をしてきたらいいと思ったのだ。しかし母は、空いている左手を軽く振った。


「暑いから帰って来んでええって言うたわ」

「おとん帰って来たいん違うんか、かわいそ」


 大城家は次男が社会不適合気味であること以外は、比較的平和だ。だから父は大阪にちょこちょこ帰ってくる。

 父は国内での1年の単身赴任を一度拒否したのだが、ではカナダに半年行くのはどうだと言われて、福岡行きを選んだのだった。

 まあ父も、暑い中慌ただしく九州と大阪を往復するよりも、涼しい場所でゆっくり休んだほうがいいだろう。母相手のデートとはテンションが上がらないが、まっさらだった7月のカレンダーに仕事以外の予定が書けそうなのは、少し嬉しかった。



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