娘にせがまれて買った新しい風鈴は、描かれている間の抜けたうさぎの顔に似合わない、いい響きをしている。ベランダに面した窓のそばにぶら下がるうさぎは、すうっと入る夜風に、りりん、と低めの澄んだ音を立てた。
スマートフォンが、テーブルの上でかたかたと震えた。画面のプッシュ通知には、弟の
『用事って何?』
漫画を読んでいた娘の
「悠貴おにいちゃんから?」
父親より5歳下でまだ独身の叔父を、有紗はおにいちゃん呼びするが、広輝にしてみると不公平だという気持ちが拭えない。好きなことをしながら未だ実家に居つく、社会不適合者の弟が、「良いもの」扱いされているように感じてしまうからだ。
「うん、叔父さんやけど、ほんまに行くんか?」
わざわざ叔父と訂正しながら、広輝は有紗に確認した。少女は母親に似た丸い目を輝かせる。
「行く!」
ならば仕方がない。広輝は一人娘に甘いという自覚があり、今夜もそれに流された。キーパッドをタップし、文章を作る。
『有紗が
真柴瑠可は、今クラシック界隈で注目を集めているピアニストだ。昨年夏、フランスでおこなわれた国際ピアノコンクールで、日本人最高位の4位入賞した。入賞確実と言われていた各国のピアニストたちの成績が振るわなかったこともあり、それまで無名だった真柴は、一気にスポットライトの中に躍り出た。
小学校3年生の有紗は、この新進ピアニストのファンなのだ。ピアノを始めてまだ4年目のくせに、生意気だと広輝などは思ってしまうのだが、妻の
「子どもの時から、本物に触れさせんのはええことや」
そう話す彼女は、今夜は所属するアマチュア合唱団の定例練習なので、帰宅が遅い。娘のコンサート行きを了承するべきか、妻に再度確認したかったのだが、広輝1人で今決断しなくてはならないようだ。
弟からの返事は早かった。
『来週月曜の夜か、兄貴とお義姉さんは忙しい?』
『志穂は会社の暑気払い。有紗は俺よりおまえと行きたいと思うから』
打ち込みながら微妙に悔しくなったが、一応フルーティストである悠貴に、有紗が一抹の憧れのようなものを抱いているのは事実である。
それに何よりも、真柴瑠可は、悠貴の大学時代の同期なのだ。真柴が悠貴と有紗に、チケットを融通してくれないだろうかという期待が、広輝にはあった。
ピアノ科と、悠貴が所属していた器楽科とは、授業ではあまり接触が無かったようだ。しかし同時期に同じ国に留学に行ったこともあり、真柴は悠貴の「友達」と言って差し支えない関係だった。
『悠貴が行くなら、真柴くんはチケット割り引いてくれませんか?』
すると、悠貴の返信がぴたっと止まった。スマホの画面を黙って見つめる父親に、有紗も不安になったようだ。
「どうしたん、悠貴おにいちゃん行かれへんって?」
「いや、何か返事来やへん」
もはや夜もエアコン無しでは過ごせないが、換気のために細く開けた窓からまた風が入ったのだろう、風鈴がりん、と鳴った。室内に細く残るその響きは、弟のフルートのそれと似ている気がする。
悠貴がふらふらと大学に行っているようにしか、広輝には思えなかったのだが、弟はなかなか上手いほうだったらしい。選ばれし者だけが出演できる卒業演奏会に、悠貴はぎりぎりの成績で出演を決めたのだ。
妊娠中だった志穂を連れて、広輝は演奏会に赴いた。髪を整え、タキシードを着てフルートを構える悠貴は、広輝が知らない何処かのご令息のようだった。普段の口の悪さから想像できない美しい音を銀色の横笛から繰り出し、誇らしげにホールいっぱいに響かせた。
あの時感心すると同時に、華やかな世界に生きようとする悠貴を妬ましく思ったことを、広輝はおぞましい記憶として心に留めている。
広輝自身も、高校の吹奏楽部でトロンボーンをたしなんだ(全然上達しなかったが)。悠貴が中学生になった時、新設された吹奏楽部に入部するよう勧めたのは、楽器が落ち着きの無い弟の腰を多少据えさせるだろうと考えたからだった。すると悠貴はフルートに夢中になり、高校2年生の春に初めて、音大に行きたいと口にした。
残念ながら悠貴の学力は、国公立の芸術大学に行くにはやや不足していた。大学4回生で就職活動をしていた広輝は、私立の音楽系は学費も馬鹿にならないし、よほど才能がある者以外は、卒業してから人生詰むぞと悠貴に言った。しかし両親は悠貴のために、高い学費を出してやることにしたのだった。
おとんとおかんが覚悟決めて身銭切ったのに、今のあいつは何やねん。だから俺は、音楽系なんかやめとけって言うたんや。ヘタレで根性無しの悠貴が、プロになんかなれるわけ無いって、わかってたやろが。
回想していると、広輝の中の埋み火が、ぶすぶすと燃え始める。だいたい両親は、悠貴に甘い。志穂まで、芸術家ってそんなもんやん、などと言う。ではこのまま皆が年を取り、まともな職を持たない悠貴の面倒を見るのは、一体誰なのだ。
「お父さんどうしたん、怖い顔して」
有紗の声に、広輝は我に返った。自分の暗澹とした思索を断ち切るために、娘に向けて笑顔を無理に作る。続けて口を開こうとした時、スマホが震えた。
『ヒロキ・セコビッチ健在やなあ。最近真柴に連絡取ってへんから微妙ですが、まあチケットは何とかします』
そのメッセージを見て、細い神経が数本、ぴきぴきと切れる音を聞いた気がした。やや見栄っ張りで、他人にいい格好をしたがる傾向のある悠貴は、高校生の頃くらいから、締められるところを締めようとする広輝を、せこい奴だと笑うのだ。
タダでチケットを寄越せとは言っていない。どれだけ捌けているのか知らないが、姪を連れて観に行く友達に、多少サービスしたいと思うのが人情というものだろう。
顔が引きつりそうになるのを堪えて、広輝は有紗に言った。
「つき合ってくれるみたいやで、月曜日学校から早よ帰って用意しいや」
「うん、よかった! 何着て行こかなぁ」
有紗は嬉しそうに首を振る。喜ぶ娘を見るのは何とも言えず幸せだが、こんな年齢からいっぱしのピアニスト気取りなので、将来が心配になる広輝である。
夢中になれるものと出会える人生は幸福だ。しかし、それで飯を食うとなると、話は別だ。ましてやスポーツや芸術で生きていくことができるのは、神に選ばれしひと握り、いや、ひと摘みの者だけである。
その中に入るための熾烈な争いに、有紗には参加してほしくない。もし彼女に多少才能があったとしても、ピアニストは目指させない。それが娘の幸せを願う、父親の責任だと思う。
あの華やかで残酷な世界に、悠貴は傷つけられ押し潰された。彼のフルートの音は紛れもなく、聴く者の心を洗うものだったけれど、あの程度の実力を持つプレイヤーなら、掃いて捨てるほどいるのが現実だ。
りりん、と風鈴が強めに鳴った。ぴんとした残響がやや憂いを帯び、広輝の耳の奥をくすぐる。
もしかしたらにわか雨が来るかもしれない。広輝はスマホを置いて立ち上がり、風鈴がぶら下がっている窓を閉めに行った。