ここに映ってるんは、誰や。
首にずっしりとくる鬘や、肋骨から下を重く締め上げる帯の存在感さえ、夢の中の出来事のように感じる。
「きれいやねぇ、お母さん」
母の声に、美玖は意識を自分の中に戻した。鏡の中、自分の斜め後ろに、車椅子に座る母方の祖母の姿があった。付き添う母は祖母を優しく覗きこみ、祖母は微笑しながら、痩せた右手で胸を押さえるような仕草をした。
喜んでいるのだ。笑わなくてはいけない、彼女のために。美玖は歯を食いしばるような思いで、口角を持ち上げる。
「おばあちゃん、今日はほんまにありがとう」
美玖は可愛がられた孫だった。この姿を祖母に見せるためだけに、今自分はここにいる。
鏡越しでも、祖母の目にうっすらと涙が浮かんだのがわかった。
「きれいやで……」
祖母は全身を癌に冒され、命の期限を切られている。来週の美玖の結婚式と披露宴に参列するのは、体力的に難しいと担当医から言われていた。それで今日、祖母が外出可能な時間に合わせて、和装の前撮りをすることにしたのだ。
「整われましたかね、そしたら早速お写真撮りに入りましょうか」
笑顔のウェディングプランナーに言われて、美玖は涙を引っ込め、再度鏡の中の自分を凝視した。着付けもきれいにできているし、髪もメイクも完璧だ。
舞台で和物のメイクの経験もあるので、ただただのっぺりと白く塗られたら嫌だなという気持ちがあった美玖だったが、さすがブライダルのメイクさんの腕は素晴らしい。我ながら、高級な日本人形のようではないか。舐めててごめんと、美玖は額にそっとパフを当てた担当者に、心の中で謝った。
「ほんまよう
メイク担当者から言われて、美玖ははい、と静かに答えた。結婚式当日に洋装と和装の両方をすると、お色直しが大変だ。先に結婚した友人たちから体験談を仕入れ、和装に憧れがあった美玖は、前撮りで白無垢を着ると決めた。
今もし姿見に、世界で一番美しいのは誰だと尋ねたならば、貴女さまですと答えてくれそうな気がする。しかし、美玖の胸の中に満ちている冷めた失望は、そんな言葉で吹き払われそうになかった。
今、私は婚礼の衣装を着せられ、飾り立てられているけれど、まるで祭壇に捧げられる生贄のよう。
絶望したジュリエッタのレチタティーヴォが美玖の脳内に流れる。生贄? だとしたら、何のための?
美玖は介添に手を取られながら、草履に足を入れた。母と祖母に続いて、ホテルの美粧室を出る。そこには、夫になる予定の男が、紋付袴姿で待っていた。
「まあ、ほんとにきれいな新郎新婦でいらっしゃる……」
思わずといった口ぶりのプランナーの言葉に、嘘は無いだろう。美玖の婚約者、
純人も母親を従えていた。彼女は素早く、上から下まで美玖の姿に目を走らせる。しかし今日の美玖には非の打ち所が無いのだろう、いつも開けば嫌味か文句しか出ない口を引き結んでいた。ざまあみろと美玖は密かに鼻で笑う。
純人は白無垢姿の美玖を見て、でれっと鼻の下を伸ばした。
「きれいやなぁ、和装もすることにしてよかったわぁ」
この間延びした話し方を、可愛らしいと思った頃もあったが、今や虫唾が走って仕方がない。どの面下げて、自分に向かってきれいだなどとほざいているのだろう。容姿と歌以外ほぼ取り柄の無いこの男に対して、一瞬でも永遠を誓った自分の愚かしさを、美玖は心底憎んだ。
オペラで役を掴むのに役立ててきた愛想の良さを、純人は押し出してくる。
「お母さん、お祖母ちゃん、今日はほんまにありがとうございます」
「いえ、純人さんお忙しいのに写真撮る時間作ってもろて、こちらこそありがとう」
母は、純人と彼の母に深々と頭を下げた。すると祖母も、細いがはっきりした声で話し始める。
「座ったまんまで失礼します、私こんなんですからお式に出られませんけど、美玖のこと、どうぞよろしくお願いしますね」
もしかしたら演技かもしれないが、純人は涙を堪えるような表情になり、はい、と呟く。純人の母は、痩せ細った老婆に向かって、慈悲深い微笑を浮かべながら頷いた。
「とんでもない、こちらこそ大切なお孫さんを不出来な息子にいただくことになって……」
ようわかってるやん。こいつが見掛け倒しのちんこ脳なんは、おまえのDNAと躾の悪さの賜物やからなぁ。
美玖は白けた気持ちで、純人の母に向かって黙って暴言を吐く。
カメラマンが一同に声をかけた。
「では皆さま、まず写真室で撮影いたしますので、こちらへどうぞ」
美玖は、背中からまとわりつく罪悪感を必死で振り払う。前撮りは新郎新婦2人のみの3ショットだが、そのうちの1ショットを、母と祖母の3人で撮りたいと依頼していた。プランナーとカメラマンには、先が短く結婚式当日も参列できない祖母のためにと話している。何のことはない、せっかく金を出して美しくしてもらった晴れ姿の写真に、純人を入れたくないからだった。彼とのツーショット写真など、データも現物も要らないのだが、受け取り拒否できるだろうか。
純人が右隣についとやってきて、美玖に左手を差し出した。エスコートをしようとしたようだが、美玖は閉じた扇を両手で持ったまま、彼を無視して進んだ。ちらっと横目で純人の顔を見ると、彼は婚約者の冷たい目に、僅かな怯えのようなものを表情に浮かべた。
アホが。やっと気づいたか。
美玖はゆっくりと、純人の顔から視界を前方に移した。この2週間、得意のご都合主義で、美玖が結婚式を控えてナーバスになっていると周囲に言いふらしていたようだが、全く笑わせる。
その時美玖の身体の底から、何か新しい力のようなものが湧いてきた。美玖の気の強さと矜持から育つ闘争本能だった。この1年ほど、ろくに歌わず仕事と結婚準備に忙殺されているうちに、色褪せていた気持ちである。
……おまえが私を馬鹿にしたことを悔やませたるから、来週楽しみにしとけ。
仮死の薬をあおる前のジュリエッタは、こんな気持ちだったに違いない。テバルトとの結婚式はすぐに始まってしまう。本当にこの薬が、ロメオと自分を繋いでくれるか不安だけれど、ここまできたらやるしかない。
ああ、あの時にこの気持ちを経験してたら、受かってたかも。美玖は2年前に参加した、オペラ「カプレーティとモンテッキ」のオーディションを思い出していた。ジュリエッタのアリアはよく歌えたと思ったのだが、役には手が届かず、本番は合唱での出演に甘んじた。
草履の足音が絨毯に吸い取られて、微かな摩擦音となり耳に入ってくる。廊下を広く見せるためか、等間隔で壁に鏡がかかっていた。その前を通り過ぎ、白無垢姿の自分を確認しながら、美玖は気持ちを奮い立たせる。
この芝居、プリマドンナとして演じ切ってみせる。来週この茶番を観に来る人らに、一生忘れられへんもん見せたるわ。
次々に映し出される花嫁姿の自分は、やや青白い顔をしていた。しかしそれは、生贄になることを恐れているからでは、決してない。自分の思いを確認できただけで、美玖は満足だった。