有紗は母親に駅まで送ってもらい、1人で大阪環状線に乗ってきた。互いに反対方向から大阪城公園駅を目指したため、悠貴は姪と落ち合えるかやや心配だったが、彼女は母親の志穂からの連絡通り、約束の時間の5分前に改札口に現れた。
有紗も心細かったとみえ、悠貴の姿を見つけてぱたぱたと走ってきた。今は終業の時間もあって迎えに行けなかったが、帰りは最寄り駅の改札まで送ってやろうと悠貴は思う。
「おにいちゃん、お待たせ」
小生意気な口をきく姪は、青い花柄のワンピースを着て、小さなベージュのポーチを斜め掛けにしていた。右手に持つナイロンの手提げからは、黄色いミニブーケが覗いている。
初めて行く本格的な音楽ホールでの推し活に、きちんとした姿で行けと言ったのは、たぶん志穂だろう。悠貴は微笑ましく思いつつ、姪を促す。
「いえいえ、行こか……花も受け取ってくれるらしいからな」
「うん、おにいちゃん真柴さんに連絡取ったん?」
訊かれたが、旧交を温めるというほどのやり取りはしていない。それでも、コンサートに行くと伝えることができただけでもよかったと、悠貴は思っていた。
少女の歩幅に合わせて歩くと、悠貴の見込みよりホールまで時間がかかった。階段を上がった場所に見えた入り口はもう落ち着いていて、開演時間が近いことを示している。
悠貴は2枚のチケットを改札の女性に手渡し、辺りを見回した。何げに涼しくてほっとする。入って左手に、プレゼント受付コーナーらしきテーブルがあった。
有紗は改札の男性からプログラムの入ったナイロン袋を差し出されて、両手で受け取っていた。花の入った袋が危なっかしく揺れるので、悠貴はプログラムを持ってやる。
「有紗、花はこっちな」
ホワイエのシャンデリアや大きな階段に目を奪われている有紗を左手に導こうとすると、彼女は、え? と目を見開いた。
「あそこに真柴さん来るん?」
「預けたら、ホールの人が真柴んとこに持ってってくれるんや」
悠貴は当然のこととして答えたが、有紗の表情に一気に不満感が広がった。
「直接渡せるんちゃうの?」
「は? それおまえ」
厚かましいやろ、と言いかけて留めた。有紗が、自分のピアノの発表会を判断基準にしていると察せられたからだ。
ピアノ教室の発表会では、出演者は自分の演奏が終わり次第、客席に向かう。そこで観に来てくれた人たちと、衣装のままロビーで写真を撮ったり、差し入れをやり取りしたりするのだ。
悠貴は困惑した。時間もあまり無いので、彼女が納得できそうな言葉を探す。
「あのな、有紗の発表会と
有紗は明らかに膨れっ面になる。
「悠貴おにいちゃんは真柴さんの友達やのに、
悠貴は焦った。こんなことを有紗に吹き込んだのは、広輝に違いない。
「おまえそれはあざといわ、俺も真柴とそんな親しないし、有紗は今日ここに来てる他の人と一緒やで? ただのファン」
悠貴の言葉は明らかに、有紗のプライドを傷つけた。対象がどう受け止めているかに関係なく、自分が一番応援していると思いたがるのが、ファン心理というものである。
むっつりと黙りこんだ姪を見て、やばい、と悠貴は思った。とにかく開演時間が迫っているので、差し入れ問題をしばし棚上げにすることにした。
「それ後にしよか、始まる前におしっこ行っとこ」
悠貴は有紗を奥のトイレに連れて行く。彼女の首に一筋汗が流れていたので、鞄に常備しているボディシートを一枚引き抜き、手渡した。
「首とか腋の汗も拭け、レディのたしなみや……トイレに花忘れんなよ」
悠貴は不機嫌な有紗をやや強引に送り出して、自分も急いでトイレに入る。
やれやれ、と思う。有紗はなかなか頑固な子なので、真柴に直接花を手渡すと言って譲らないだろう。どうするべきか。
こうなったらお望み通り楽屋口に突撃して、警備員やホールの人間に、非常識な奴扱いされるまでだ。悠貴は半ば投げやりに考える。世の中には思い通りにならないことがたくさんあると、皆に甘やかされている有紗は学んだほうがいい。
トイレから出てきた有紗は、マグマが落ち着いたのか、不機嫌な表情をやや緩めていた。悠貴は密かにほっとしながら、係員の立つ客席への扉に向かった。
チケット入手がぎりぎりだったこともあり、下手の後方の席しか取れなかったが、座席の勾配が強めになる列なので、座高の低い有紗にも舞台がきちんと見えたようだった。
真柴がピアノに向かうと、その顔はほとんど見えなかったが、弾く手元を見ることはできた。有紗もそこは満足そうで、休憩に入ると、すごいね、としきりに口にした。
カフェコーナーは混雑していたが、オレンジジュースのグラスを持つ有紗を見て、老夫婦がテーブルを譲ってくれた。別に構わないのだが、親子だと思われたかもしれない。
悠貴は、かつて交流のあった同期がピアニストとして活躍していることに、ただただ圧倒されていた。800余りの客席はほぼ満席だ。しかも、自主コンサートにありがちな、客同士が知り合いだらけの馴れ合い感など皆無で、ここに集まっているのは、真柴の「身内」ではない純粋なファンばかりなのだ。
舞台にぽつんと置かれたグランドピアノは、真柴の手で生き生きと音を紡ぎ出し、観客をあっという間に引き込んだ。
真柴がどんな曲が好き、あるいは得意にしているのか、悠貴はほとんど知らない。扱う楽器が違うと、互いにそんな話をしないからだ。しかし彼の演奏には、本人の作曲家の好みに左右されない均一性があり、バッハもショパンも危なげなかった。
「悠貴おにいちゃんが真柴さんと友達とか、ちょっと想像できひんかってんけど、やっぱり想像できひんわ……」
有紗に言われて、悠貴はコーヒーカップを手にしたまま苦笑した。
「そやろ、だって俺が一番そう思てるもん」
「えーっ!」
悠貴はプログラムを出して、真柴の顔写真つきのプロフィールのページを開いた。その顔だちや髪型は、学生時代とほぼ変わらないが、やはり何か表情に大物感が出ている。
「ほれ、ここまでは俺と一緒」
悠貴は真柴のプロフィールに記された、彼が卒業した大阪の大学名とフランスの音楽院名を、指でなぞった。
「俺はこの音楽院は、途中で辞めたけど」
「ふーん……」
有紗のオレンジジュースが、ストローで吸い上げられる。
差し入れの件は、終演後に楽屋口に行ってみるということで折り合いをつけていた。ホールを出ることになるため、断られてしまったら、もう真柴に花を渡すこと自体できなくなる可能性も伝えている。
悠貴は、楽屋口で追い返されそうになったら、真柴の学生時代の友人だという伝家の宝刀(?)を抜こうと考えていた。メッセージに返事をくれたのだから、まさか知らないとは言わないだろう。彼がばたばたしていて楽屋口に来てくれなくても、花を託すことはできると思う。
辛うじて姪の前では平静を装っていたが、悠貴の気持ちはここ数年で一番乱れていた。堂々としたタキシード姿、説得力のある演奏、鳴りやまない拍手……こんな輝かしい演奏家と友達だなどと、本当に自分が口にしていいのだろうか。