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第6話 重なる音、重なる道

 大変ご無沙汰しています。ご活躍、眩しく拝見しています。

 そんな書き出しのメッセージを見て、真柴ましば瑠可るかは、最初強く警戒した。

 当たり前だ。もう6年以上連絡を取っていない学生時代の知人から、いきなりこんなメッセージが来たのだ。相手が自分のアカウントをブロック、あるいは消去していなかったことにも、驚きよりは不信感のほうが強い。瑠可の知る限り、こんな丁寧な言葉遣いができる人物でもないし、てっきり彼のアカウントが乗っ取られて、勝手にこんなメッセージを送りつけてきたのだと思った。

 しかしやや長いメッセージには、ともすれば言い訳とも愚痴とも取れそうな近況報告が混じっており、それを読む限り、差出人はフルーティストの大城おおしろ悠貴ゆうき以外には考えられなかった。瑠可はとりあえずピアノから離れて、メッセージを読み進める。

 大城は、七夕の日のコンサートに、身内と一緒に行くつもりだと書いていた。その身内が瑠可のファンで、何か差し入れのようなものを用意しているのだが、受け取ってもらえるのだろうか、とも。

 大城の身内とは、何者なのだろう。もしや、妻? 若い頃は結構遊んでいた(少なくとも瑠可はそう見做していた)彼だが、結婚したのかもしれない。年齢的にも不自然ではなく、メッセージにあるように会社で事務として働いているのなら、音楽家でないまともな女性との出会いもあったに違いない。

 瑠可は複雑な気持ちになった。練習よりも飲んで騒ぐことを優先していたあの大城が、家庭を持って落ち着き、こんな真人間のようなメッセージを寄越すようになったのなら、非常に喜ばしいことだ。彼の妻が自分のファンだなんて、いたたまれなさ混じりのくすぐったさが半端ないではないか。にもかかわらず、おまえ何さっさと一般人になって結婚してんねん、とひと言ぶつけたくなってしまう。

 いろいろ大城に尋ね返したいことはあったが、コンサートの日も近いので、まずは質問への答えを入力する。


『久しぶりですね。連絡嬉しく思います。もうチケットは入手しているのでしょうか? もしまだなら当日渡しも可能ですので、連絡ください』


 まずここまで書いて、送信する。こういうやり取りを含むコミュニケーション作業は好きではないので、大城への懐かしさや友人としての慕情がどれだけ大きくても、苦痛だ。音楽事務所のマネージャーに丸投げしたいところだが、やはりせっかく連絡をくれた旧友に、自分が対応したい気持ちがあり、めずらしくそれが瑠可の中で勝利を収めた。


『差し入れ等のお気遣いは無用ですが、一応ロビーの隅に、受け取りカウンターを用意する予定です』


 送信して、ほっとひと息つく。瑠可の左手が、不安を覚えた時の癖である握ったり開いたりの動作を始めた。あれでよかっただろうか。歓迎していないように受け取られないだろうか。しばらく手を動かしていると、気持ちが静まってきた。

 いつもなら、本番の直前に感情を乱されるようなことが起こると、ヒステリックに鍵盤に手を叩きつけて練習してしまう瑠可だが、何故か今日はそんな風にはならなさそうだ。スマートフォンを右手に持ったまま、静かにピアノの椅子に戻った。

 今回の関西ツアーは、日程は割とシビアだがプログラム的に無理がない。バッハ、ブラームス、休憩を挟んでフォーレとドビュッシー、メインはベートーヴェン。王道寄りと呼ばれる取り合わせだ。それに、各ホールは自宅から向かえる距離なので、慣れたピアノでしっかり練習できる。だから落ち着いているのかもしれなかった。

 コンクールで入賞した後の、凱旋帰国コンサートと銘打たれた全国4箇所でのツアー公演は、毎回違うオーケストラとラフマニノフの協奏曲を演奏し、それに加えてラヴェルやショパンを弾かなくてはいけなかったからか、神経がひりついて仕方なかった。夜な夜な浴室でシャワーを全開にして叫び、リハーサルでがんがん弾き過ぎて指揮者に止められた日もあったし、移動中に失踪願望が発露し、マネージャーを振り回したこともあった。

 何弾こ。瑠可はしばし白黒の鍵盤を見つめた。本番の曲を弾く気にはなれず、楽譜が詰まった背後の書棚に視線を遣った。

 あ、あれ弾こ。立ち上がって、シューマンの楽譜が並ぶ場所に手を伸ばす。

 大城はフルート、瑠可はピアノの勉強のためにフランスに渡ったので、同じ音楽院に通ったといっても、昼間はほとんど顔を合わせなかった。実質音楽学生専用のアパルトマンで、瑠可は1階、大城は3階の部屋を借りていて、課題に追われたりコンサートに行っていたりしなければ、夜に互いの部屋で食事をするなどした。

 瑠可の部屋で一緒に演奏したのが、シューマンの「子供の情景」の第7曲、「トロイメライ」だ。誰に聴かせる予定も無い、ほんの息抜きのアンサンブルだった。しかし瑠可はこの曲を通じて、気分屋で練習嫌いの大城が、実は結構いい音の持ち主であることを実感したのだ。

 原曲はピアノのための曲集だが、メロディを管楽器や弦楽器にアレンジした楽譜がたくさんある。大城が持って来た楽譜は、基本的にフルートがメロディで、ピアノにもメロディを弾かせてくれる面白い編曲だった。

 へ長調のゆったりした旋律を弾くと、大城のフルートの音が重なってきたような気がした。息をたっぷり使った、深みのある響き。管楽器は、自分の呼吸で最低音から最高音までの響きを、均一にしなくてはならない。ピアノとは全く違う筋肉の使い方をするのだと、大城に教えてもらったことが、懐かしく思い出された。

 あの頃、扱う楽器は違っても、歩く道や求める音楽は確かに重なっていた。でも大城は、慣れない外国での生活の中ですっかり自信を失ってしまい、瑠可と重なっていた場所から、音も無く転がり落ちてしまった。

 大学と親から金出してもろてるくせに、弱音吐くな。愚痴ってる暇あったら、フランス語と楽器の練習しろや。大城がもう耐えられないと訴えてきた時、瑠可が彼にそう言いたいのを堪えたのは優しさのつもりだった。しかし、彼が自分に何も言わずに日本に戻ったと知り、甘えるなとはっきり言ってやるべきだったのかもしれないと、悔やんだ。

 転調し、最初のメロディが戻ってきた時、瑠可は手を止めた。音楽に酔ったのか、泣きそうになっている自分に気づき、軽く頭を振る。その時、ピアノの屋根の上に置いていたスマホが小さく震えた。


『ありがとう。チケットは手に入れてます。差し入れが手荷物になること、先に謝っておきます、ごめん。本番楽しみにしてます』


 大城からのメッセージだった。話が一段落したので、瑠可はもう返信しなかった。でも終演後、もしその「身内」と楽屋口に回ってきてくれたら、少し話せるのにとちらっと思った。

 音楽家として、もう道は重ならないかもしれないけれど。いや、大城が楽器を手放していないなら、一緒に演奏はできるのではないか。でも、家庭を持ち会社員として働く大城には、迷惑な誘いになるかもしれない。

 瑠可の一人問答は、しばらく続きそうだった。

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