「大城くんお疲れ、残ってくれてサンキュ」
営業の
通勤時間が玉造の自宅から30分もかからないことが、悠貴の採用応募の決め手だった。コピーは等倍でしかできない、マイクロソフトオフィスはワードを少ししか触ったことがない、伝票なんか見たことがない、辛うじて電話応対はできるけれど、保留の方法がわからない。そんな、どうしょうもなく潰しの効かない芸術系卒の悠貴を、この会社の人たちはやいやい言いながら、4年で営業事務職らしく育ててくれた。悠貴はそのことに感謝していて、自分が真っ当な社会人の端くれだと思える安心感は、ブライダルの演奏では得られないものだった。
ただ、この業界は今なかなか厳しいようだった。安くて早いオンデマンド印刷が勢いを増しつつあった頃に蔓延し、日本の全てを停滞させた新型コロナウィルスは、カトリ印刷社のような昔ながらの印刷会社をさらなる苦境に追い込んだ。コロナ禍が明けても三浦たち営業マンは、ほんの200部くらいの印刷物の注文を受けるために、最近は神戸方面や奈良方面にまで出向いている。
仕事の数は多いので、こうして週に1日か2日、悠貴にも残業が発生する。しかし客単価が低く、会社の大きな収益にはつながっていない様子だ。
悠貴が現役のフルーティストだと知る
それを聞いた悠貴は、集客の実感を社長に話す。
「そやけどやっぱり、SNSで不特定多数にコンサートの案内するだけでチケット捌けるのって、それなりに名前が売れた人やと思います」
そうなん? と社長は首を傾げた。
「はい、俺らみたいな無名の人間ががコンサートする時は、やっぱり個人的に直接声かけるほうが効果的やし、その時フライヤーあったら案内しやすいですよね……あ、でもその場合500枚も要らないんですけど」
「なるほど、そうか……小ロットで作んのを基本にしたらええんやなぁ」
社長に意見してしまったことに恐縮した悠貴だったが、それくらいから、会社の人たちと仕事以外の話をちょこっとするようになった。
ただ、この会社の人間は、仲は悪くないのだが必要以上の交流を好まず、飲み会などが滅多におこなわれない。だから元パリピの悠貴は少し寂しい。といって、あまり仕事ができないバイトの自分が、飲み会の企画をするのは差し出がましいと思うので、帰りに一杯どないですかと言えずに今日も退勤した。
すっかり日が長くなった。まだ外は明るく、しかも暑い。まっすぐ帰っても何もすることも無いので、悠貴は駅に近いセルフのチェーンカフェに入った。実はここ数日気になっていることを、やるべきかどうか決めようと思っていた。
良く冷えた店内の、1人掛けの椅子が並ぶゾーンに向かう。鞄を置いて席を確保し、財布とスマートフォンだけ持って注文レジに行った。
「えーっと、アイスコーヒー」
この暑さなので迷うことなどないのに、どうしてこういう時「えーっと」と前置きするのだろう。どうでもいいことを考えつつ、現金で会計を済ませる。
席に着き、悠貴は軽く溜め息をついた。窓から空を見上げると、ほんの少しオレンジを帯びて来始めていて、淡くぽつんと三日月が浮かんでいた。
来週の月曜日に姪の有紗と行くコンサートのチケットは、会場であるスプリングホールのインターネットチケットボックスで購入した。兄の広輝はあんな風に言ったが、舞台に立つ側の事情を知る身としては、知人だから割り引いてくれなどとは言い出しにくい。個人が主催するコンサートは、割り引きイコール自己負担だからだ。まあ真柴瑠可も音楽事務所に所属しているだろうから、多少事務所が割引分を持ってくれるのかもしれないが、本人に頼みにくいことには変わりがない。
悠貴も一応毎日労働している身なので、有紗の分のチケット代は出してやるつもりだ。ピアノのソロリサイタルだから、外国のオーケストラの引っ越し公演のように数万円するわけではない。むしろ良心的な価格設定というのか、悠貴の財布に大打撃を与えるような値段ではなかった。
悠貴を煩わせているのは、チケットのことではなかった。有紗が広輝を通じて、真柴に差し入れをすることはできるのかと訊いてきたので、何と答えようかと悩んでいる。常識的に考えると、ホールに入ったホワイエなどに差し入れの受付コーナーがあれば、開演前にそこに預ければいい。問題はそういうコーナーが、今回設けられるかどうかだ。
差し入れ受付は、出演者の格が上がると、ホールのロビーなどではおこなわない。というよりも、受け付けそのものをしない。それこそ大変な数になり、ホールの担当者にも出演者本人にも迷惑だからだ。それを知っている悠貴が、やめておけとはっきり有紗に答えればいいだけの話なのだが、悠貴は困ったことに、姪っ子がそれなりに可愛いのだった。
有紗の願いを叶えてやりたい。その気持ちが、真柴瑠可のような今や大物になったピアニストに差し入れをするなんて無理だと、突き放す意思を鈍らせる。しかも広輝は娘に、悠貴が真柴と同級生であるという余計な情報を与えてしまっていた。有紗は絶対に悠貴の力(?)に期待しているだろうから、できないと答えたら彼女にがっかりされることは必定だ。
くだらない見栄でしかないが、悠貴は有紗に失望されたくない。となると、もう出演者にお尋ねするのが手っ取り早い気がしてきた。悠貴はストローでひと口コーヒーを吸って、メッセージアプリを開いた。
真柴のアカウントは、まだ残っていた。悠貴がフランスから逃げるように帰国した以降、やり取りは一切無い。6年ほど放置されていたトークルームは、いつの間にか消滅していた。
アカウント、生きてるんかな。悠貴はどきどきしながら、真柴のアイコンをタップした。どうも今も使われているようだ。どうしよう。思わず窓越しに空を見上げると、三日月はその姿をやや明瞭にしている。
そういえばパリで、真柴とあんな月を見た。
もう俺日本に帰りたい、言葉も通じひんし食べもんも合わへん、先生もまともに相手してくれへんししんどい。真柴にそう愚痴を洩らした。すると彼はこう返してきた。俺かてみんなに馬鹿にされて地獄やわ、でももうちょい頑張ろうや。まだ1年しか経ってへんやん。
あの時、ここで見る月は何て頼りなく寂しげなのだろうと思った。今空に浮かんでいるのは同じ月だが、やはり寂しそうに見える。
今さら連絡取っても、何やこいつって思われるんやろな。あ、忘れられてるか、真柴はもう別世界に生きてるんやから。……でも、有紗のためや。俺のことは今どうでもいい。
悠貴はもう一度、三日月の場所を空に確認してから、新しいトークルームを開いた。本当は自分が旧友に連絡を取ってみたいと思っている可能性を、無意識に否定しながら。