思わず部屋を見渡すフィーネにゼルヴァの冷たい声が聞こえてきた。
「忙しいんだ。手短にしてくれ」
「あ、すみません。この本に書かれている事は本当でしょうか? それだけ伺いたくて」
そう言ってフィーネは書類の間からゼルヴァが居ると思われる場所に本を差し入れるが、ゼルヴァはそれを手に取ろうとはしない。
「嘘が書いてある本を書庫に保管する意味はあるのか?」
「……」
無い。無いけれど!
それでもフィーネは食い下がった。聖女として生きてきたフィーネは誰かに逆らった事などないが、信仰を汚されたのなら話は別だ。
「だったら、本が誤りだという可能性は?」
「それも無い。お前たち人間よりも私達は聖女の事を、この世界の事を知っている。たかだか数十年の命しか無い者達が、何百年も生きる私達の知識に敵うと思うのか?」
「それは……そうかもしれないけど」
フィーネは差し入れた本を引き抜いて乱暴に掴んだ。物に八つ当たりするなど言語道断だが、この本は好きじゃない。
人間を侮辱された事よりも、フィーネはこの本の内容に酷く傷ついた。もしもこの内容が本当だとすれば、聖女など本当にただの物だ。
「終わりか? 見ての通り私は忙しい」
「……お邪魔しました」
温度の無いゼルヴァの声にフィーネは一礼して部屋を出た。
部屋を出ると燭台に止まっていたリコが肩に戻ってくる。
「魔王、会エタ? フィーネ、悲シイ顔」
「うん……でも、欲しかった答えは得られなかったわ」
「可哀想。フィーネ可哀想」
「可哀想? 私が?」
どうして突然そんな事を言うのだ。そう思いつつリコを見ると、リコはフィーネの肩で羽を繕っている。
と、その時だ。向かいからスタンレーが廊下を滑るように歩いてくるのが見えた。
「おや、聖女ではありませんか。もう読み終えたのですか?」
スタンレーはそう言ってフィーネが握りしめている本に視線を落として言う。
「はい。貴重な本をお教えいただいてありがとうございました。それから……私はもう聖女ではありません。フィーネです」
「ではフィーネ、それはあなたの言う通り貴重な本なので、乱暴に扱わないでくださいね」
フィーネはこの言葉にハッとして本を胸に抱きかかえた。こんな注意のされ方は子どもの時以来だ。
「……ごめんなさい」
何だかここへ来てからというもの、自分が情けなくて仕方ない。まるで本当に子どもにでも戻ってしまったような気分だ。
聖女の力が無くなった途端、心まで聖女では無くなってしまったのだろうか?
涙がじんわり浮かんできて慌てて俯くと、スタンレーの指先から血が滴り落ちている事に気付く。
「怪我してるんですか!?」
ハッとして今度は勢いよく顔を上げると、スタンレーは何て事無いように頷く。
「た、大変! すぐに治療しないと!」
そう言ってフィーネは条件反射でスタンレーの腕に手を翳してみたが、何も起こらない。そこでようやく自分は本当の本当に聖女の力を失ってしまったのだと実感してしまった。
フィーネは力なくダラリと腕を下ろす。
「……ごめんなさい……」
最後の希望を失ったフィーネを見てスタンレーがさっきとは打って変わって穏やかな声で呟く。
「お気持ちだけ頂いておきますよ。ありがとうございます。これはイブでも難しい。対処出来るのは王だけでしょう」
それだけ言うとスタンレーはゼルヴァの執務室へと消えてしまった。
どういう意味なのだろう? ゼルヴァには怪我を治癒する能力があるのか? そんな話は聞いた事もない。
けれど魔界に来てからこんな事ばかりだ。フィーネが信じていた物はことごとく壊されていく。
「フィーネ、元気! 元気!」
肩で一生懸命リコが元気づけてくれようとするが、フィーネはそのまま自室へと戻ってベッドに突っ伏した。
本には確かに聖女の事が書かれてあった。そのどれも教会から教わった物とは真逆で、あまりにも荒唐無稽だったにも関わらず、今までの自分の生活を振り返ると思わず納得してしまいそうになる事ばかりだった。
聖女の力が無いフィーネなど、何の意味があるというのだ。本に書かれていた事が事実なら、聖女の矜持とは一体何だと言うのだ。
こんな思いをするなら生き残るべきじゃなかった。後悔を抱いてでも聖女として死んだ方が絶対に良かった——。