城に戻ったフィーネは寝る支度を済ませてベッドに入ると、今日一日の事を思い返していた。
「今まで私が見てきた世界は何だったんだろう」
人間界に比べて魔界は実に平和だ。どこへ行っても誰もが笑顔に満ちあふれ、魔力のないフィーネにも気さくに声をかけてくれたりして、その度にフィーネは恐縮していた。人間界では魔力の無い者に人権などない。
聖女だったフィーネは羨望と憧れの対象だったが、ここではそうではない。フィーネは魔力を失ったただの小娘に過ぎない。それでも誰もフィーネを責めたり蔑んだりしなかった。
フィーネは腕で顔を覆って泣き出しそうになるのを堪える。
泣くもんか。聖女は決して涙など見せないのだ。
「私、どうしたら良いの? これからここで、どうやって生きればいいの」
最後の最後に人類の役に立てなかった事が不甲斐なくて申し訳なくて、自分が何をすべきかも分からないまま、ただ魔界に連れてこられて……。
「聖女の矜持って何なの?」
信じていた物が全て足元から崩れていく。
フィーネはそれからしばらく部屋に閉じこもった。食事も受け付けず、誰にも、リコにすら会わなかった。
持っていた物全てを失くしたような感覚に、心がついていかなかったのだ。
途方にくれるフィーネの元にとうとう魔王がやって来たのは、フィーネが部屋に籠もってから三日目の事だった。
その日もベッドの上でぼんやりと天井を眺めていた所に、ノックの音が響き渡る。
もう食事の時間か。そんな事を考えながらフィーネは天井を見つめたまま言う。
「ごめんなさい……もう少し一人にして——」
フィーネが最後まで言い終える前にドアが大きな音を立てて倒れた。ギョッとしてそちらを見ると、そこには久しぶりに見る魔王が相変わらず冷たい顔で立っている。
「ま、魔王?」
「今すぐ出てこい。どうやら聖女というのは誰かの命令が無いと動けないようだからな」
「……」
それはその通りかもしれない。フィーネが立ち止まってしまった一番の理由は、何をすれば良いのか、今の自分に何が出来るか分からなくなってしまったからだ。
そんなフィーネの葛藤を無視してなおも魔王は辛辣な言葉をフィーネに投げかけてくる。
「お前の聖女の矜持とやらは誰かに崇められないと持てないものなのか? だとすればそれは矜持などではなく、他者から認められたいというただの欲求だ。お前が今まで助けた魔族や人間はお前の欲求を満たす為だけに助けられたのか?」
「どうしてそれを……」
「もちろん知っている。リコを通してずっとお前を見てきたのだから。お前に自我が無い事も主体性が無い事も知っている。随分つまらない女だと思っていたが、火刑の時に泣き言も命乞いもしなかった事だけは評価しようと思っていた。けれどあれすらも創り上げられた聖女としての役目を全うする為だったのだな」
「っ!」
呆れたような魔王の言葉にまるで頭を殴られたかのようだった。
全て魔王の言う通りだったからだ。フィーネは聖女という役職に準じていただけで、聖女がするべき事をしていただけ。ただそれだけだ。
「フィーネ、洗脳! 洗脳!」
そこへリコがまるでフィーネを庇うかのように割って入ってきた。そんなリコを魔王は睨みつけ、舌打ちをする。
「洗脳がどうした。そこから抜け出す機会をみすみす逃すような馬鹿はやはり物でしかない。聖女とは意思のない人形だ。最後の武器に実に相応しい」
それだけ言って魔王はフィーネを蔑むような顔で見下ろし、踵を返して出て行く。
取り残されたフィーネはただ呆然として壊されたドアをいつまでも見つめていた。この時の魔王の言葉は、フィーネの胸に深く突き刺さった。
翌日からフィーネは自分の意思でお祈りを止め、図書館にこもる事も止めた。いまさら魔族の勉強などしていても仕方ないという事に気付いたのだ。
大事なのはこれからだ。そして何よりも自分自身を知る事だ。
「フィーネ! また城下街へ行くの?」
「うん。私、仕事を探そうと思って」
出来るだけ明るく言うが、イブは心配そうにフィーネの顔を覗き込んでくる。
「仕事!? なんでまた急に!」
驚いたイブにフィーネは答えた。
「そう言えば昔、一度だけ花屋さんのお手伝いをした事があったなって。それが楽しかった事を思い出したんです」
いつもは病気や怪我を治す事が多かった聖女だが、一度だけ花屋の店番を頼まれた事があった。フィーネの説明を聞いて花が売れると得も言われぬ達成感を感じたのを不意に思い出したのだ。
「仕事ったって、何する気!?」
「接客がしたいです。色んな人と話してみたい。ただのフィーネとして。そうしたら私のすべき事が見つかるかもしれない」
これからは聖女ではないただのフィーネとして生きていかなければならない。その為にも魔王の言う通りまずは自我を取り戻すべきだ。