人間界はもしかしたら地獄だったのかもしれない。その話を聞いた時、フィーネは初めてそう思ってしまった。
けれど思っただけだ。本当にどうだったかを決めるには、フィーネは人間界の事も魔界の事も知らなさ過ぎる。
ゼノはしばらくルネを睨んでいたが、くるりとこちらに背を向けて咳をしながら部屋へ戻って行ってしまった。
「いっつもこの調子なの」
ルネは肩をすくめて茶目っ気たっぷりに言う。フィーネは頷いてルネの後に続いてゼノの部屋へと足を踏み入れた。
ゼノの部屋はリビングとは違い、綺麗に片付いている。部屋の壁には沢山の枯れた花で出来たリースがかけられていて、部屋の奥には祭壇のような物があった。
そこには女の人の絵姿が立てられている。どこか既視感のある女性を見ていると、フィーネの視線に気付いたのか、ゼノが咳き込みながら言った。
「嫁だ。若い頃の絵姿しか無かったんだ」
「そう、だったんですか」
とても綺麗な人だ。フィーネは気がつけば祭壇に向かって無意識に手を合わしていた。そんなフィーネを見てゼノがフンと鼻で笑う。
「見たこともない奴の為に手なんて合わせるのか?」
「見たことが無くてもあっても、全ての命は平等であるべきです。それは死者も代わりません」
これは教会の教えだ。今は教会に不信感を抱き始めているフィーネだが、この教えだけはその通りだと感じている。命に貴賤はない。むしろそうあるべきだ。
フィーネの言葉にゼノは少しだけ俯いた。
「あんた、聖女みたいな事を言うんだな。嫁は人間に囚われ、聖女に逃された事があるんだ」
「……え」
突然のゼノの言葉にフィーネも、ルネまでも息を呑む。どうやらルネはこの話を知らなかったようだ。
「それには感謝してる。だがな、あいつは人間界で病気になっちまった。劣悪な所に長く居すぎたせいだ。今でも思うよ。もしも聖女がもっと早く妻に気付いて助けてくれてやっていたらってな……」
ゴホゴホと咳をしながらそんな事を言うゼノに、フィーネは両目を見開いた。
「……もしかして、レイアさん……?」
思わず呟いたフィーネに、ゼノがハッとして顔を上げて肩に掴みかかってきた。その力はとても強く思わず顔をしかめると、ゼノが眉を吊り上げてフィーネに早口で問いただしてくる。
「知ってるのか!? お前、レイアを知ってるのか!?」
あまりの剣幕にフィーネがゴクリと息を呑むと、ルネが慌ててフィーネ達の間に割って入ってきた。
この時、ルネがどんな顔をしていたかは分からない。
フィーネの目には、魔王討伐が始まる直前の光景が蘇っていたから。
「最後に、助けたのがレイアさん達でした……私は、あの船に一人でも沢山の人達を乗せて救いたかった……それはレイアさんも同じ……」
「……あんた、もしかして……」
ゼノの声すら耳に入らず、フィーネは滔々とその時の事を語る。
「レイアさんは魔族の女の子を抱えていました。その子は道中で大怪我を負ってしまって、今にも死んでしまいそうだった。誰かが置いていけと、助かりそうにない者は捨てていくべきだと言ったんです。でも私は降ろさなかった。決して。皆を助けるのだと、それが出来ると信じていました。そしてそれをレイアさんは後押ししてくれたんです。けれど私はその後すぐに魔王討伐に行かなければならない。そこで大量の魔力を使うことが出来ず、その女の子を助ける事が精一杯でした。だからレイアさんの身体の不調に気付くことすら出来なかった……あんなに、あんなに一緒になって皆を守ってくれたのに亡くなっていたなんて……どうして……どうして……」
フィーネの両目からとうとう涙が溢れ出した。今までに何度も泣きそうになる事はあったが、覚えている限りフィーネが泣いたのはあの処刑された日だけだ。
聖女は決して泣いてはいけない。逆らってはいけない。そう、教わってきたけれど——。
フィーネはゼノの前で跪きおでこを床にこすりつけた。
「ごめんなさい、私のせいで……私が気づかなかったから、私が弱かったからレイアさんが……ごめんなさい、ごめんなさい」
「……」
思い出すのは別れ際に見たレイアの清々しい笑顔だ。あの時はこんな事になるなんて思ってもいなくて、フィーネは自分のした善行に酔いしれていた。
なんて聖女だ。魔王の言った通りだ。フィーネは自分の為に皆を助けていただけに過ぎない。こんな聖女が居て良いはずがない。
延々と謝罪の言葉を述べるフィーネの肩を誰かが優しく叩いた。ルネかと思ったが、ルネの手ではない事がすぐに分かって顔を上げると、そこには泣きながら笑うゼノが居る。
「あんた、聖女か」
「……はい」
「なんでこんな所に居るんだ。城で手厚く保護されてるんじゃないのか」
「されて……ます。とても良くしてくれるんです……こんな私に」
最初に魔界へ来た時の違和感をフィーネが告げると、ゼノが顔をぐちゃぐちゃにして笑う。
「当たり前だ。でなきゃ皆が怒る。あんたの言う通りレイアは死んだ。けど、あんたが助けたのはレイアだけじゃない。今も幸せに暮らしてる奴らは山程いる。それは、あんたがそいつらを助けたからだ」
「……」
「それに、レイアはあんたの事をいつも話してたよ。あんたがレイアの居た地区を開放しに来た時、思わず両手を合わせて拝んでしまったんだって。それぐらい、あんたは光り輝いていたんだそうだ。まだ年端もいかない女の子が、人間に背いて1艘のデカい船に魔族ばっかり乗せて救い出すなんて、どれほど怖かっただろうってな。ありがとうな、あいつはあんたにずっと感謝してたよ」
「うっ、う……うぅぅぅ……」
ゼノの言葉にとうとうフィーネは堪えきれなくなってその場で蹲り、声をあげて泣いた。そんなフィーネをゼノとルネがいつまでも見守ってくれていた。