「ミ、ミリちゃーん」
海の民のお二人に食事をお出しした後、こちらの様子を恐る恐る伺っていた常連様のお一人に声を掛けられます。
「はいただいま~ですわ! エールのお替りでよろしくて?」
「あ、あぁ、おかわりー。……じゃなくて! 今あの人達と何話してたんだい? 急にミリちゃんが知らない言葉を話すからおじさんびっくりしちゃったよー」
「あぁ、先程の……。あの方々は、こちらにある湖から流れる大河の先にある海の、その海に浮かぶ島々の方々ですわー。
恐らく大河を遡る船でいらしたのではないかしら? 確かにこちらまで海の方々がいらっしゃるのは珍しいですわねー」
「いやいや、俺達はそんな珍しい他の国の言葉を喋れるミリちゃんにびっくりだから!」
ちょっぴりお顔を引きつらせている常連様。
その目にはちょっぴり不信感も漂っております。
「そ、それは……たまたまですわっ!!」
大事な仕事場と住む場所を手放すわけには参りません!
「たまたまってさぁ。まぁどっからどう見てもミリちゃん訳アリだけどさぁ……」
「そ! そんなっ?!」
ガーン! ですわ! 白目ですわ! わたくし立派に平民として生きているつもりでしたのに!?
「いや、どう見ても家出中のお嬢様だよな」
「うんうん」
「訳アリ感がすげぇよな……」
「……バレバレなの本人気づいてないって痛いな……」
「な……」
「そ、そんなぁ……」
助けを求めて女将さんと、女将さんの旦那様で厨房を仕切っているオヤジ様に視線を送ります。
……無情にも目を逸らされましたわ!
「わ、わたし……立派に生きていけていると……」
がっくりですわ。
「だ、大丈夫だって! ミリちゃん頑張ってるよ!」
「そうだそうだ! 最近はエール零さなくなったし!」
「料理の入った皿をぶちまけなくなったし!」
「勘定計算は完璧で、前みたいにちょろまかせなくなったし!」
ちょっとそれは聞き捨てなりませんわ!
「包丁すら握った事なかったのに、芋の皮むけるようになったんだろ?!」
「そうだそうだ!」
「ミリちゃんは頑張ってる!!」
で、ですわよね?! わたくし平民に馴染んでますわよね?!
「まぁ、未だ一時間に一個で、剥いた身より皮の方が食べるとこ多いけどね!」
「お、おかみさぁん!!」
とどめですわぁ! 色々台無しですわぁ!!
「指は切らなくなったじゃないか! アンタはよくやってるよ!」
ちょろまかしも無くなったしね!! と女将さんの言葉に励まされ顔を上げると、些か顔色の悪い常連様が何人かいらっしゃいましたわね。常習犯だった方達でしょうか?
「で、ですわよね?! わたしここでずっと生きていけますわ…「それは困るな」……よねぇ?!……っ?!」
お店の入り口から聞こえてきた、大変聞き覚えのある声に、びくりと肩が跳ねてしまいますわ。
振り向きたくないと、振り向いたらダメだと警鐘を鳴らす理性が、振り向きたいと、この声の持ち主に名を囁かれたいと、その腕の中に捕らえて欲しいと希う本能を抑え込みます。結構必死で。だって本能が強すぎるんですもの。
そんな情緒がぐちゃぐちゃの状態で振り向くことも、逃げ出すことも出来ず、僅かに震える身体を抑え込む為、持っていたお盆を抱きしめていると、背後からコツコツと床を叩く靴音と、大きな人の気配、一拍おいて大好きなあの方の香りが……。
「つーかまーえた」
背後から回された腕に誘われるように、その胸元に頭を寄せたくなりますが、ぶるぶると首を振って振り返ります。
「い、いらっしゃいません! ですわぁ!!
本日のおすすめは根菜と鶏肉のクリームシチューですが、先程売り切れましたわぁ!
本日は閉店ですのっ! お帰りはあちらですわぁ!!」
びしりと先ほど彼が入ってきたばかりの入り口を指差します。何と便利な事に、向きを変えるだけで入り口は出口に早変わりですわ!
往生際悪いな。な? ……とかこしょこしょ話す常連様達の会話は聞こえないふりですわ!
「ふぅん。僕に……そんな事言うんだ?」
王族特有のアレキサンドライトのような色の瞳が僅かに眇められます。
そこから放たれる鋭い視線がギラギラとわたくしを射抜きます。
「ど、どちらさまでしょうかですわぁ!! おとといきやがれですわぁ!!」
焦りのあまり自分でも何を言っているのか分かりかねますわ!
でも! それでも! ここであのお方に捕まれば、色々身の危険を感じるのだけは己の勘を信じられますわ!
「さぁさぁさぁさぁ! お出口はあちらですわぁ!!」
くるりと身体を反転させて、ぐいぐいとその背中を押します。
手のひらに感じる、鍛えられた筋肉を撫でまわしたいと本能が訴えますが、それは無視ですわっ! お空の彼方に飛んでいけーですわ!
「ちょ! こらっ!? 無駄に力強いな相変わらず!
まぁいいや。まだこちらの店も営業中だもんね。仕事が終わったら迎えに来るよ」
だから......逃げるなよ?
にやりと嗤うその顔は剣呑で、今すぐ逃げ出したいですわ。
「な、何の事かわかりかねますわぁ!!!」
バタンと食堂の扉を閉めます。
本当は鍵も締めてしまいたいところですが、お店は営業中ですからね。それは出来かねますわ。
「ミ、ミリ?」
いつも余裕しゃくしゃくの肝っ玉女将さんが、いつになく不安そうな顔でわたくしを見てきます。
「へ、変なお客さまでしたわねー!!」
「ミリちゃん……諦めが肝心だよ」
「そうだよミリちゃん、人にはそれぞれ合った環境ってものがな?」
「あの人相手に逃げ出そうったぁ、ミリちゃん豪胆だなぁ」
『……湖の姫君? 訳あって逃げるなら手を貸すが?』
海の民のお客様……お気持ちだけいただきますわぁ。
「ミリ? もう今日は上がっていいから、ちゃんとあの人と話し合ってきな?」
女将さんにそう諭され、一つ頷きます。
だってもう……ここはバレてしまいましたもの。
いつまでも居座ってご迷惑をおかけするわけには参りませんわ。
「み、みなさまはごゆっくり~ですわぁ!」
心配そうな顔でこちらを見つめる常連様達ににこりと微笑んで、上階へと続く階段を登りますわ。
途中の窓からちらりと外に視線を投げるとそこには……。
店の前の壁に背を預け、腕を組んで入り口を見つめる王太子殿下のお姿が。
……だいぶ営業妨害ですわね。
階段を登り切って、二階の廊下から店の裏口に視線を落とせば……。
「……お兄様……」
裏口を見張るように立っているのは見覚えのあるお姿。
似てない兄妹だとよく言われるわたくし達は、わたくしが地味な茶色い髪と目の色をしているのに対して、お兄様は見事な金髪に碧色の瞳です。
王太子殿下と並び立つと、神々しさのあまり直視できないとご令嬢方に評判ですわ。
そんなキラキラの金髪を薄暗闇に浮かび上がらせて、この店を見ているお兄様。
その視線がふと上向いた気がして、慌てて身を隠します。
正面も、裏口も抑えられているのであれば……。
「窓から逃げるしかありませんわね……」
ぽつりと落とした呟きは、誰にも聞き取られる事なく、闇に解けていった……はずでしたわ。