声楽Ⅰ ~ 決意の歌 ~
いままつ
「はぁ~……」
私は筆を置いた。なんだか気持ちが高ぶらないのだ。最近はこんな鬱々とした気持ちが続く。
絵のモデルの花瓶が悪いわけではない。決して、ハクション大魔王に出てくるような絵付けがされている、あの花瓶が悪いわけではない。……決して。
私は片づけを済ませると教室を後にした。校内を溜息つきながら歩き、ふと目に入った中庭のベンチに腰を下ろす。こんなところにベンチがあるなど、初めて知った。
木が風に揺れ、葉や枝がこすれる音がする。
遠くに人の声が聞こえた。
鳥のさえずりも聞こえる。
夏の午前中にある特有な若葉の香りを風が運んできた。
私は、久々に社会の騒がしさから離れることができた。
このまま寝てしまいたい……そう思ったときだ。
「あれ、ミホちゃん?」
話しかけてきたのは、誰であろう上下黒のドレスに身を包んだ油絵学科四年の和田飛鳥先輩だ。
飛鳥先輩は、以前、私の絵を模写し、本物と偽って提出するという騒ぎを起こした張本人である。事件以後は和解した私と良好な関係を築き、先輩後輩というよりも友達感覚で付き合っている。
その飛鳥先輩は、今日は中世ヨーロッパ風のドレスを着ていた。尋ねると、間違って服を全部洗ってしまい、着られるのがこれしかなかった。さすがに校内にいては目立つので、中庭でひっそりと影をひそめていたのだという。いったいどういう服のセンスをしているのか、いっそこの場で訊いてしまおうかとも考えたが、今後のことも考えて止めることにした。
先輩は私の隣に腰を下ろした。
二人で風を感じる。
「そういえば、どうしたの? 暗い顔して」
私は絵に集中できないことを話した。
「わかるわ~。なぜか知らないけど、突然絵が描けなくなっちゃうの。私も悩んだわぁ」
先輩は腕を組み、うんうんと頷いた。飛鳥先輩の場合、年中スランプ泣きもしないではないが。しかし、そんなことを言えばケンカになるのが目に見えている。
「どうしたらいいですかね……?」
すると、飛鳥先輩は右手の人差し指をピンと立てた。
私は首をかしげる。
「こういうときはリフレッシュよ。ミホちゃんは音楽聴いたりする?」
わたしは首を左右に振った。わたしはCD一枚も持ってはいなかった。聴きたいときは、スマホで一度聴いて、それっきりだ。
「それじゃ、丁度いいところがあるから、一緒に行きましょう」
そう言われ、私は半ば強引に左腕を引っぱられて連れて行かれた。
***
「わぁ、大きいですね……」
連れてこられたのは、音楽学部の音楽ホールだった。入り口に〈公開試験会場〉とあり、誰でも入場できるようだった。
私たちは入り口から堂々と入った。特に先輩は、美術学部では浮いていた服が出演者の衣装であるかのように思われ、危うく警備員に試験者と間違われるところであった。
ホールに入ると、すでに試験が行われていた。
ステージではピアノに合わせ男性が歌っている。その歌は、イタリア語であろうかフランス語であろうかドイツ語であろうか……。とにかく、とても華やかに感じた。
「音楽学部では、前期と後期の年に二回、このような試験が行われるの。試験は一次試験から三次試験まであって、合格者が次の試験に進めるようになってる。で、最後まで合格した人は、この音楽ホールで一〇〇〇人の観衆を前に演奏することができるの。すごいでしょ」
先輩が小声で教えてくれた。
席はがらんと空席だったが、これが先輩の言う途中試験であれば納得がいく。二階席もあるのだから、一〇〇〇人は余裕で入るだろう。
男性の歌が終わり、舞台袖へと下がっていく。今度はフルートを持った女性が現れた。
演奏が始まった。受付でもらった案内では、ドビュッシー作曲『牧神の午後への前奏曲』だという。
息を呑む。
静かにフルートが奏でられる。その静けさは、まるで波風立たない湖のほとりにいるかのようだ。
私は、いつもなら睡魔に襲われるであろう環境にも関わらず、聴きいっていた。
きれいだ。
絵画や彫刻とは違う美しさに、目も耳も冴えわたっていた。
ふと隣を見る。
飛鳥先輩は夢の世界に入っていた。やばい。よだれが垂れてる。
しばらくして曲が終わり、奏者が退場した。
次は声楽でヴェルディ作曲『椿姫』だ。
壇上に三人の男女が出てきた。紺のドレスを着た女性がピアノ席に就き、ピンクのドレスを着た女性とタキシードを着た男性が歌うようだ。
ピアノがリズミカルな、バレエのようなリズムを刻み始めた。
そこに女性が力強く、また、のびやかな声を重ねる。
男性は語りかけるように、静かに歌う。
私は、そこに舞踏会を見た。いや、見えた気がした。
二人以外の多くの人が取り囲み、声を重ね歌い上げる。華やかでヨーロピアンな音楽である。
しかし―――
私は、華やかな音楽の名から寂しさ、虚しさを感じた。これ、という証拠はないのだが、そう感じ取ったのだ。
二人は歌い上げる。ピアノは弾きあげる。最後まで華やかで、のびやかで、どこか虚しかった。
三人は礼をすると袖へと帰っていった。
次の演奏が始まろうとしたときだった。「きゃああああ!」と悲鳴が響き渡った。
ホールにいる審査員の先生たちや警備員がざわついた。
私は反射的に事件の予感を察知し、隣でよだれを垂らしている飛鳥先輩を起こした。
「どーしたの? ミホちゃん?」
「女性の叫び声がしました」
私は先輩を引き連れ廊下に出て、舞台裏に続く扉を開こうとした。
「ちょっとまって、あなたたちは?」
警備をしていると思われる男性に声を掛けられた。
「出演者です」
私はそう言い、男性の前に先輩を差し出した。
男性は飛鳥先輩をしげしげと見ると、「よし、行っていい」と通してくれた。
進むと、ステージのほぼ裏の通路に出演者の控室があり、その一室に人が集まっていた。
女性が一人うずくまっており、二人の女性が慰めている。
「どうしたんですか?」
私は近くにいた男性に声を掛けた。先ほど女性と一緒に歌っていた男性だ。
「ああ、この部屋の壁に、あんな張り紙がされていたんだ」
そういうと、男性は部屋の奥の壁、メイク用の鏡があるところを指さした。
【声楽学部の発表会を中止しろ。さもないと誰かが傷つくことになるぞ】
メッセージは新聞の刳りぬきで作られていた。
***
「と、いう訳なんです」
私は抹茶カステラを切り分けながら円先輩に説明した。
ここは〈芸犯〉の部室である。芸犯とは〈芸術犯罪解決サークル〉の略で、芸術犯罪に関して調査をし、その解決に努める部活である。部員は現在三名。私とカステラをいまかいまかと待っている環円先輩と石井拓哉先輩だ。
「うむ。うまい」
円先輩が唸る。
「おいしー! おいしいよ、ミホちゃん!」
拓哉先輩がフィーバーする。
「ありがとうございます」
一九二㎝の円先輩と一八五㎝の拓哉先輩という全くスイーツ男子には見えないこの二人には食べさせがいがあると感じる。
このコンビは、こう見えてもこれまでいくつもの謎を解決した。特に円先輩は切れ者で、調査を重ねて何人もの犯人を暴いてきた。
「……塩だな」
「え?」
「隠し味。しかもゆず塩。ちょっと奮発したんじゃないか?」
私は嬉しくなった。円先輩が神の舌を持つと分かってから、それまで以上にスイーツ作りにこだわるようになったのだ。とはいっても、目的は〈いかに円先輩をだませるか〉だが。
「あの、私のこと忘れてない?」
飛鳥先輩だった。音楽学部での事件について話すために連れてきたのだ。
「そんなことはないですよ。ホホホ」
そう言いながら、ごまかしまぎれにカステラを渡す。
「おいしい!」
私に対する賛美の声が止まらない。
カステラは、なぜか中途半端に残ってしまい、スカイツリーと東京タワーのじゃんけん対決になった。しかし、じゃんけんの勝率は拓哉先輩が高いのを私は知っている。
負けた円先輩が訊いてくる。
「それで? 他になにか情報はないのか?」
「ええ、その控室は、そのとき泣いていた女子学生一人しか使っていなかったそうです。基本的に一人に一部屋が割り当てられていたそうで。で、訊いたところによると、部屋を後にするときは、もちろん貼り紙なんて無かったそうです。戻ってきて気が付いたときに怖くなって叫んだそうです」
先輩は「ふ~ん」といいつつ、カステラの乗っていた皿を名残惜しそうに見ている。
「ところで、これって芸犯の管轄ですか?」
私は思っていたことを訊いた。
「は? どういうことだ?」
「いえ、これまでどちらかというと美術関係の事件に関わってきていたので、音楽関係はどうなのかな、と」
円先輩は、ふうっと、息を漏らした。
「音楽はもちろん芸術に含まれる。音という現象を用いた時間の芸術だ。芸術論や美学を語る上で、音楽を外すことはできない」
「ということは、今回の事件も――」
「もちろん、芸犯の対象だ。芸術を脅かすことを見て見ぬふりなどできない」
円先輩は立ち上がった。
***
「不審な人物ですか」
音楽ホールの警備員は、円先輩と比べると小柄で、いささか頼りがいのない雰囲気を醸し出していた。無論、円先輩が大きすぎるということも加味しなければならないのだが。
「ええ、あの貼り紙のあったとき、誰か怪しい人物の出入りなどありませんでしたか?」
警備員はしばし考えたが「分からな」とだけ答え、巡回業務に戻っていった。
先輩は、部室に拓哉先輩と飛鳥先輩を残し、私だけを連れてホールに来た。なぜ、私だけなのだろう? 考えても答えは出そうになかった。ここは後輩の育成と位置付けておこう。
先輩は控室に続くドアを開け、中に入る。
控室の廊下は一直線の白塗りで、蛍光灯の明かりがまぶしく感じられる。右手にいくつものドアが並んでおり、その全てが控室で、いまは開け放たれている。どうやら発表会の片づけをし終わった部屋のようだ。
先輩は事件のあった部屋を覗いた。誰もいない。荷物もなく、もちろん貼り紙もない。
私たちが覗いていると、
「あれ、さっきの子じゃん」
と、聞き覚えのある声がした。見ると、先ほどまでタキシードを着ていた男子学生が、隣の部屋から荷物を持って出てきていた。
「あ、さっきはありがとうございました」
「ああ、いいよいいよ。それより、あ、俺は野田。声楽科の三年生。よろしく」
野田先輩はにこやかに手を出してきたが、まるでライオンのように威嚇していた円先輩に気付くと、手を引っ込めた。
「それにしても、あのあと騒ぎはどうなったんですか?」
「あー、あのあとは、なにもないよ。ただ演奏会が続いただけ」
私は驚いた。
「え? なにもないんですか?」
「まあね、音楽もそうだけど、芸術っていうのは表現の自由を尊重するんだ。表現が害悪によって捻じ曲げられそうなときほど、落ち着いてあるべき姿で表現する。それが芸術さ」
野田先輩のいいたいことはわかった。
「ふむ。確かに芸術の理想論としては素晴らしい。しかし、害悪の根底を変えなければ、芸術もいつか捻じ曲げられてしまうかもしれないな。戦争芸術のように」
円先輩は丁寧に、しかし確実に野田先輩の言葉を否定した。表現を守るのであれば動かなければならない、と。
野田先輩は「はは……」と笑うだけだった。円先輩の方が一歩上手だと気づいたのだろう。
「ところで、演奏中にこの控え室に入った人はいますか?」
野田先輩は考えた。
「出演者は自分の演奏時間の五分前になると舞台袖に移動するんだ。それから演奏して、終わったらそのまま控え室に戻ってくる。問題の小川は、あ、脅迫されたのが小川法子っていうんだけど、『椿姫』が五分程だから、約十分は控え室を空けることになる。その十分間なら誰か入れるかも。一緒に出演している僕は無理だけど」
「なるほど。わかりました。ありがとうございます」
野田先輩は爽やかに手を振ると、荷物を持って歩いて去って行った。
チッ、と先輩が舌打ちするのが聞こえた。なにをイライラしているのだろう。
他に誰かいないか探す。と、一番奥の部屋から物音がする。
部屋を覗く。一人の女性が荷物を旅行鞄に入れているところだった。
「あの、すみません」
私は話しかけた。
女性は私たちに気が付き手を止めた。私と円先輩を交互に見ると「はぁ……」と言葉を漏らした。
女性は、ピアノ学科三年の道長笑美という女子学生だった。脅迫を受けた小川さんのピアノ伴奏を担当している、あの青いドレスの女性だった。本来はピアノ学科での試験だけでいいのだが、小川さんとは幼馴染のつながりで、よく伴奏をしているらしい。
道長先輩は急な訪問にも関わらず、私たちにペットボトルのお茶を出してくれた。
「そうなんですか、捜査をねぇ、ご苦労様ですぅ」
おっとりとした話し方は、どこか種田先生を連想させる。
「あ、あの、小川さんが誰かに恨まれたり脅迫されたりしていたことはありませんか?」
道長は「う~ん」と考えた。
「そんなこと聞いたことないわねぇ。ただ……」
「ただ?」
「ええ、ただ、法子は不眠症になってしまったみたいでぇ……、いまも精神科に通院しているの」
「そうなんですか、不眠症に」
会話をしている私の横で、ずず~っと音を立てて先輩がお茶を飲みほした。
その不躾な作法に、わたしは思わず先輩の足を蹴ってしまった。円先輩は瞬間的にこちらを振り向いてきたが無視した。マナーがなってない。
それを見て道長先輩は「ふふ」と笑った。
「仲がいいんですね」
私は「は?」と訊き返そうとしたが、それよりも早く円先輩が「はい」と、短く応えた。
「わぁ~、やっぱり。なんだかそんな雰囲気してたんですよねぇ」
道長先輩が勝手に話を進める。
いや、そんなことよりも、どゆこと? なんで円先輩は「はい」っていってんの……?
私の頭の中は、まるで洗濯機のようにかき回された。
「私と法子も昔はとっても仲がよくてね。あ、いまも仲は良いんですよ。うふふ。でも、小さい頃はもっと仲が良かったなって、最近は感じているんです。昔歌ったカッチーニの『アヴェ・マリア』なんかはすごく良くて、楽しんで歌ってたなぁって……」
そうこうしているうちに道長先輩との会話は終了し、わたしたちは白塗りの廊下に立っていた。
***
巨体は警備員室へと移動した。
警備員室には様々な機器が並んでいた。その中の一つ、モニターが並んでいる機器に近づく。モニター前には、一人のおじさんが座っていた。
おじさんは「中川だ」と端的に名乗った。どうやら、この音楽ホールのメディアシステム機器のすべてを任されている、実はものすごい人物だということがわかった。
事件の捜査をしていると伝えると、中川は「よし、いいぞ」と協力を申し出てくれた。
「まず、脅迫があったときの控え室廊下の映像などはありますか?」
控え室廊下に防犯カメラがあるのは、先ほど確認していた。
「ちょっと、まっとれぇの」
中川は機器のボタンをいくつか操作した。
「そこのモニターに映るでぇ」といい、問題の映像を流した。
モニターには先ほどの廊下が映っている。時折タキシードやドレスで着飾った人たちが通る。問題の部屋は手前から二番目だ。
…………
…………
誰も入らない。
そんな映像だけがずっと流れる。
部屋から女性が出てきた。おそらくこの人が小川法子だろう。演奏のときと同じピンクのドレスに身を包んでいる。
…………
…………
時間だけが過ぎる。
先ほど画面から出ていった小川法子が控え室に戻ってきた。
防犯カメラにはマイク機能は着いていない。おそらく悲鳴が聞こえたのだろう。多くの人が彼女の控え室に集まり出した。
中川が映像を止める。
円先輩は、いつもの手を顎に当て考えるスタイルに入っている。
私にはちんぷんかんぷんである。
「なぁ、お前、この人の演奏を聴いて、なにか感じることはなかったか?」
ユグドラシル円は私に尋ねてきた。
「そうですね、なんか、こう、椿姫にしては悲しいっていうか、虚しさを感じました」
「虚しさ……」
そうつぶやくと、中川に「この間の発表会で小川さんが歌った映像ってありますか?」と尋ねた。
「このあいだのだったらすぐ出しぇるぞ。ちょいまっとれ」
すぐモニターに映像が流れた。マイク機能があるのだろう。スピーカーからは音も出ている。
映像はあのときのままだ。
ピンクのドレスの女性にタキシードの男性。
華やかなはずなのに、どこか哀愁を帯びて、虚しさ漂う歌声。
円先輩を見る。
ユグドラシル円は、その名に恥じない巨木になったかのように微動だにしない。目をつぶり、音楽に耳を傾ける。
曲が終わった。次第に呪いが解けたのか、ユグドラシル円も動き出す。
大きく息を吸う。
「さあ、事件を解決しよう」
***
発表会当日。
……やはり中止しなかったか。これで誰が傷ついても文句はないだろう。
ペットボトルのふたを開けた。それから、一㎝正方形ほどの銀小袋を取り出し、爪で慎重に破る。中から、さらに小さい楕円形の物を取り出す。
それの物質は水色をしていた。
落とさないよう、その物質をペットボトルに入れ、口に持っていく。
そのときだ。ドアが勢いよく開けられた。
「そろそろ止めにしましょう。小川法子さん」
そこには、呆然と立ち尽くす小川法子がいた。
「え? どういうことですか、これ」私は円先輩に問いかけた。
この場には私と円先輩、野田先輩、道長先輩がいた。みんな、いまの現状を把握できていない。
「どうもこうも、この事件は自作自演。はなっから犯人なんていない。いるとすれば、被害者である小川法子、あんただよ」
小川は「ヒッ」と息を呑んだ。相手はこの巨体だ。ヤクザにでも脅されているぐらいの迫力はあるのだろう。
「それじゃ、部屋に貼り紙を貼ったのも?」
「この人だ。防犯カメラに部屋に入った人が誰も映っていない。この控え室には窓はない。ということは考えられるのは、戻ってきた本人が貼ったっていうことだ。これなら説明がつく」
「あの」野田が口を開く。「理由は、やっぱりこの発表会を中止させることなんでしょうか」
先輩は首を振る。
「確かに、この発表会を中止に追い込むことは、あなたにとって一つの目的だったかもしれない。その証拠に」
先輩は小川法子からペットボトルを奪った。水の中に沈んでいる物質を見る。
「これはハルシオンですね、睡眠導入剤の。この薬は即効性に特化した薬で、三十分もすれば効き目が現れる」
円先輩は小川法子を見る。
「この薬を飲めば、控え室で倒れてもステージで倒れても大騒ぎになるでしょう。そして、効果が現れる前に新たな貼り紙を貼ればいい」
先輩はイスに置いてあったバックから一枚の紙を抜き取った。
【忠告を守らなかったため眠らせてもらった。今後は私の忠告に気をつけることだな】
「あのぉ、どうして法子がこんなことをしたのでしょう?」
道長先輩がおっとりとした話し方で訊く。この話し方は緊張をほぐす役割があるらしい。
押し黙っている小川法子にも少しだが笑顔が見られた。
「俺はこの事件について、その理由が分からなかった。だが、このあいだ行われたときに収録した映像を聴いたときに気付いた」
そして円先輩は人差し指を首に持っていった。
「あんた、喉を痛めてるんだろ?」
その場が静まり返った。
「声楽家にとって喉を傷めることは、画家が利き手を痛めることと同じほどのアクシデントだ。後の声楽家人生に響くほどの。あんたは、これまで出せた音域はいまのところはカバーできているから事なきを経ているが、確実に喉の痛みが広がりつつあることを感じ取っていたんだ。あれがあの『椿姫』さ」
「え? でも、あの『椿姫』は普通でしたが」
「いや、若干ではあるが、音がかすれてハスキーな声だ。おそらく、まだあんた自身しか気づいていないんだろ」
華やかさの裏に聞こえた虚しさは聞き間違いではなかった。確実にその声は私に届いていたのだ。
「そ、それじゃ、今回の事件は――」
「そう。自分自身が歌わないための事件さ。もとから誰も傷つけるつもりなんてない」
小川法子はその場に座り込んだ。
「三か月前だったわ」
小川が話し始めた。その顔は悲壮感漂っている。
「いつものように発声練習をしていたら、突然、声の音域が狭くなっていたの。わけがわからず病院で診てもらったら、悪性の腫瘍が見つかったの」
道長先輩は目を見開いた。声楽家にとって悪性の腫瘍は声帯を切除することにつながる一大事件だ。
「私、泣いたわ。でも、誰にも言えなくて。不眠症にもなっちゃって。私の人生、ここで終わるんだって……。まだ大学も卒業していないのに」
小川法子は泣いていた。メイクなんて関係ない、涙を流し続けている。
「でも、この声はもうだめな声。きれいな声じゃないの。だから聴かせられない、誰にも。発表会で一〇〇〇人になんて聴かせたくない。だから」
小川法子は鼻をすすった。
「今回の事件を思いついたの。最終的に私だけ倒れればいいから、誰も傷つかない。上手く考えついたと思った。でも、よくわかったわね」
「それは、こいつです」
そういい円先輩は私を指さした。
「最初、あんたの歌の感想を聴いたとき〈華やかで、寂しげで、虚しかった〉と答えたんです。素晴らしいですよね。一曲の中にこれほどまでの感情を込めて伝えられる人はそうはいない。しかも素人に。あなたの素晴らしさが伝わってくる感想です」
私はムッとした。確かに音楽の素養など持ち合わせてはいないのだが。
「それほどの芸術家に関わる事件です。芸犯として解いて見せようと思っただけです」
小川法子は円先輩を見上げていた視線を戻すと、ふうと、一息ついた。
「法子」道長先輩が駆け寄る。
「笑美。ごめんね、こんな相方で」
「ううん。私もごめんなさい。法子が悲しんでいることに、全然気づいてあげられなくて」
小川法子は首を振った。そんなことはない、と言いたいのだろう。
「わたしは、もう歌は歌えない。この声も、あなたに伝えられるのは最後かもね」
笑美先輩は泣き出しそうである。
そのときだった。
「あんた、歌は好きなのか?」
いきなり円先輩が話し始めた。
小川は優しい顔になり、なにかを思い返すように眼を閉じた。
「たくさん、たくさん歌を歌って笑ってきた。歌は好きよ。大好き」
「じゃあ、歌え」
「え?」
円先輩は目を閉じた。皆の視線が集まる。
「韓国のテノール歌手ベー・チェチョルは、声帯の摘出手術を受けた後に声帯再生手術を受け、不断の努力により歌手として返り咲いた人だ。彼はこういう」
努力はもちろん必要だが、一番大切なのは、アモーレ(愛)だ
歌に対する愛が無ければ、努力し続けることはできない
「声帯を失うことは大きな出来事だ。しかし、世界を見れば、声帯を失っても言葉を話したり、強いては歌を歌うことができている人もいる。画家が腕を失っても、口や足で絵が描けるように……。あんたはまだこれからの挑戦のスタートラインに立っただけだろう。頑張って見ろ!」
小川法子は円先輩を見ている。一つの道標を作ったその人物に感謝をするように。
わたしは感激した。円先輩はこうも人を感動させることができるのか。よし、ユグドラシル円からマウント円に改名だ!
「法子、覚えてる? 二人で演奏したカッチーニの『アヴェ・マリア』」
小川法子が頷く。
「もし、声が戻ったら、あれをまた歌わない?」
目を見開く。
「そんな、声出せるかわからないし、歌なんてどうなるか分からない――」
「ううん、歌うの。私、待ってる。そのときのあなたの声は、きっといまよりも輝いているはずだから。ね、待ってる」
そう言う道長先輩に、小川法子はうんうんと頷いた。
「それじゃ、今日の発表はどうします?」
連られて半泣きになっていた野田が言った。
小川が立ち上がった。
「歌います」
「法子!」
笑美先輩も立った。
「今日で多分この声で歌うのは最後になると思う。だから」
その瞳には強い意志が込められている。
「好きなように歌うの。いい?」
笑美先輩は満面の笑みを作った。
「もちろん! 『椿姫』なんだから! あなたの好きなように歌って」
そこへ「次の発表者は準備をしてください」とスタッフが呼びに来た。
部屋を出るとき、小川法子は私たちに深々と礼をしていった。
***
会場はざわめいた。なんであろう、三人とも涙でぐしゃぐしゃの顔だったからだ。特に女性陣はメイクが崩れてしまっている。
しかし、三人は動じなかった。そこには強い意志が通っていた。
私たちはステージ袖で見ることにした。一〇〇〇人の客席に空きはない。
歌が始まった。
私は息をのんだ。この間の発表よりも格段に異なっていたからだ。
声が広がる。感情が伝わる。空気が変わる。
私も客席で鑑賞したかったと思った。
「ところで先輩。『椿姫』って、なんで『椿姫』なんですか?
円先輩は「ん?」と言うと、視線を舞台に戻しながら答えた。
「舞台『椿姫』は、もともとアレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』が原作となっている。原作名は『道を踏み外した娼婦』だ。小説では、一か月の内二五日を白い椿、残りの五日に赤い椿を身につける高級娼婦マリグリット・ゴーティエが登場する。彼女は裏社会での生活に疲れ果てたころ、アルマン・デゥヴァルという青年と出会う。実直な青年に惹かれた彼女だが、それは長くは続かなかった、という本筋は舞台にも引き継がれた。
主人公マリグリッドは娼婦として道を踏み外しながらも、明るく、前向きに、意志を強く持って生きている女性だ。これは、当時の女性像も反映しているのかもしれない。この『椿姫』は一八五三年にヴェネツィアで初演が行われたんだが、歴史的な大失敗に終わったとされる。その翌年に再演が行われ、ようやく観衆や批評家にも受け入れられた。……このぐらいでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
私は体を円先輩から離した。近づけないと聞こえなかったのだ。
私は舞台を見つめた。
舞台にいる小川は、明るくのびやかに歌っている。まるで歌う喜びを噛みしめるように。また、歌えるようになることへの決意を誓うように。
彼女はきっと明るく、前向きに、意志を強く試練を乗り越えてくれるだろう。そう、『椿姫』のように。
了