美術解剖学
いままつ
「と、いうわけで、各々デッサンして課題を提出してください」
後藤先生は、そう言うと授業を締めた。
後藤先生が担当している美術解剖学は、人物や生物の体を解剖学的に分析し、美術表現に活かそうとする授業だ。油絵学科だけでなく、多くの学科でも必修科目となっている重要な科目である。しかし――
「どうする?」
私は隣に座っている由里とカンナに問いかけた。二人も頭を抱えている。
「どうするって言ったって……ねえ?」
「そうだねぇ。いまのところノーアイディア」
二人とも首を振る。わたしも同じ状態だ。
みると、教室に残っている女性陣の多くが、同じように頭を抱えている。
と、そこへ……
「あのぉ、ミホちゃん」
聞きなれた声がした。見ると和田飛鳥先輩だ。飛鳥先輩は、今日は黒のジャージを着ている。
「あれ? 飛鳥先輩。どうしたんですか? こんなところに」
先輩は申し訳なさそうに由里とカンナに会釈した。
「実は、私、美術解剖学の単位も取ってなくて。今年は大丈夫かな、って思ったんだけど、今年の課題はいつもよりも難しそうで……。で、ミホちゃんを見かけたから、協力してもらえないかと、ちょっとお願いに」
飛鳥先輩は、まるで私が仏でもあるかのように手を合わせた。決して仏門に入る予定はないのだが。
しかたないので、四人で考える。
「前期の絵画制作Ⅰはどうにかクリアできたのにね」
「う~ん。やっぱり学期が後期になったから授業のレベルも上がっているってかんじ?」
「でも、この授業の課題は女子にはきついよ」
「……そうよね。モデル探しが大変そう」
「そうだ」由里がなにかを思いついたらしい。「いるじゃん、この課題にベストな人物が!」
「?」残りの私たち三人は記憶の中を探し始める。
「ミホ、あんたがこの中では一番知っている人」
「私がこの中で一番って……て、まさか!」
私の顔は引きつった。
***
「で、俺になんの用だ?」
私たち四人は〈芸犯〉の部室にいる。芸犯とは〈芸術犯罪解決サークル〉の略で、芸術に関連する様々な犯罪を解決することを目的とした部活である。芸犯には私、四年生の石井拓哉先輩、そしていま目の前に座る、同じく四年生の環円先輩が所属している。
テーブルには、先手として手作りのマフィンが置かれていた。
「実は……」
私はつばを呑み込む。
「絵のモデルになって欲しいんです‼」
「却下だ」
思っていたよりも返答は早かった。一瞬である。先手の意味なし。しかし、ここまでは想像どおりだ。
「な、なぜですか?」
食い下がってみる。
「俺なんか描いてもつまらん。拓哉でも描け。あいつはアイドル顔だから見栄えがするぞ」
確かに。円先輩では華やかさに欠けるかもしれない。しかし――
「いえ、ぜひ円先輩にモデルになって欲しんです。ねぇ、みんな」
他三人が頷く。
「だめだ。他を当たれ」
取りつく島もない。
だが、ここからが秘策だ。
「わかりました。では、他の人にモデルをお願いしてみます。【お・と・こ】の人に! ね、みんな」
「そうだね」
他三人が頷く。
先輩の耳がピクッと動いた。
ここからが本番だ。
その場で、円陣を組んで先輩にあえて聞こえるように会議をする。
「あ~ぁ、円先輩やってくれると思ったのになぁ」
「しかたないさ。もしかしたらモデル嫌いの木偶の棒かもしれないし」
「やっぱ見栄えのする人にモデル頼みましょうか?」
「そうよ、イケメンがいいわ。描いてると、こっちまでキュンキュンするし」
「じゃあ、イケメン狙いで」
「どうしよぅ。描いているうちに恋に落ちたら……」
「あるかも。うちの大学って芸大だけあってイケメン多いし。……憧れるなぁ」
「わ、私、知らない人に声かけるの勇気いるわ」
「大丈夫。そういうのミホが慣れてるから。ねー、ミホ」
「え? う、うん。大丈夫だよ」
「よし、決定! イケメン探しに行こう」
「イエ~イ」
私たちが部室を出ようとしたとき、その行く手を円先輩が遮った。
一九二センチメートルの巨躯により、完全に部室のドアは隠れてしまっている。いったいいつもどうやって出入りしているのだろう。
由里が前に出た。
「あの、邪魔なんですけど」
「そ、その、モデルだが、俺が一番適任なのか?」
先輩の耳は少しだけ赤くなっている。
「そう思って来たんですけど、嫌なら別にいいんです」
円先輩は私を見た。
「おまえはどうなんだ?」
私は、なぜ私に訊いてくるのかと思いながらも、答えた。
「そうですねぇ。先輩なら頼みやすいですし、描きがいもあると思ったので。あ、でも無理はしないでください。誰かその辺にいる人にでも声かけて頼み・・・」
「いいぞ。モデル」
言い終わらないうちに円先輩は返事をした。
「……いいんですね?」
私は確認する。
「ああ」
「……本当にいいんですね?」
「だから、いいと言っているだろ!」
「ありがとうございます!」
私たちはそろって勢いよく礼をした。そして動いた!
「よし! プランB開始!」
「ラジャ」
由里の掛け声とともに動いた。
私と飛鳥先輩は部室にある物を端に寄せ、広い空間を作った。由里とカンナは美術演習室に向かい、イーゼルを四脚運んできた。
呆気にとられていた円先輩は、本当に木偶の棒となっていた。
部室にイーゼルが四脚並んだ。これでめい一杯だが入ってよかった。
「こ、ここで描くのか?」
「はい。ほかの部屋がよかったですか? でもそれだとモデルされているのがみられて恥ずかしいかと思って……」
「――!」
息を呑んだ円先輩に次の言葉はなかった。
イーゼルにクロッキー帖が乗せられる。の、一方で、カンナが奥のカーテンを引っ張り出し、部室の一部だけが見えないようにした。
「ん? あれはなんだ?」
円先輩が目を丸くして訊く。
と、由里が先輩の前に立つ。
「すみませんが、これに着替えてください」
そういい、由里は円先輩にビニール袋を一つ手渡した。
「これは?」
「水着です。しかもビキニタイプ」
円先輩は呆然と立っていたが、見る見るうちに耳が真っ赤になった。
「な、ま、お、おま、なに、え? ちょ、これ、は」
言葉にならない。
「すみません。実は課題が〈男性のトルソ(胴体)を描く〉だったもので。しかも首下から太ももの一部まで」
「おま、おまえ、そういうのは――」
「でも、モデル引き受けてくださるんですよね。ここにいる全員が証言者ですよ」
全員で「お~」という。
円先輩は袋の中を取り出した。完全な競泳で使う水着だ。だが……
「ねぇ、由里。これって円先輩に小さいんじゃない?」
私は思ったことを言った。
「げ、まじで? でも、まあ、一回履いてみてください。それでだめだったら考えますから」
由里は先輩を、先ほどカンナがカーテンで仕切った区画に押し込んだ。どうやら着替えのためのスペースのようだ。
***
「先輩、まだですか?」
声を掛ける。
「なぁ、拓哉はそこにいるか?」
「え? いえ、いませんが」
「……わかった」
私は不意に不安になった。なにかあったのだろうか?
「先輩、なにかトラブルですか? 大丈夫ですか?
そっとカーテンに近づく。
「いや、大丈夫だ。って、お前なんで近くにいるんだ!」
「いえ、トラぶってたら大変かなっと。本当に大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。だから近くに来るな!」
そのときドアが開いた。
「ま~どか~! って、おわー! なんじゃこりゃぁ!」
入ってきたのは拓哉先輩だ。部室のあまりの変貌に驚いている。正直言ってうるさい。と、続けて種田先生も入ってきた。
「た、た、拓哉ー、助けてくれー!」
拓哉先輩はわけがわからないまま、声のするカーテンの向こうへと入っていく。
「あっはっはっはっはっは!」
拓哉先輩の笑い声。
「笑うな!」
「いてっ!」
なにかがゴチン、とぶつかる音がした。
拓哉先輩が出てくる。頭を左手で押さえていた。
「あのね、ミホちゃんたち、あの水着は小さいよ。特に円は体が大きいから一回りサイズ大きいの用意しないとね。にしても、あっはっはっはっは」
拓哉先輩の笑いは止まらない。
「その、水着はさ、円の尊厳のためにも、今回NGでお願いします」
拓哉先輩は体の前で大きなバツ印を作った。
なにかとんでもないことがカーテンの中で起きたのだろう。私たちはそれだけを感じ取った。
そうこうしていると、カーテンの隙間から円先輩が顔を出した。
「準備OKですか?」
「その、水着は無理だからパンツにしたんだが、それでもいいか?」
「いいです、いいです。お願いします」
ワンテンポ遅れて、円先輩がカーテンから出てきた。
円先輩に注目が集まる。
円先輩の体は筋肉そのものだった。とはいっても、筋肉マンのような体ではなく、柔らか味のある筋肉だ。しいて言えば、ボディビルダを連想させる。
「すごーい! 円先輩って、なにかスポーツしているんですか」
円先輩が黙っていると、拓哉先輩が代わりに、
「円はね、なんでもやるんだよ。サッカー、水泳、登山、ロッククライミング、スノーボード、自転車、重量挙げ……逆にできないものが無いかもね」
そんな円先輩のパンツは、いつものシックでタイトなファッションイメージとは相いれないピンクのボクサーでかわいらしかった。
円先輩は種田先生を見つけると弁明をしていたが、その種田先生はどこ吹く風という感じで、テーブルにあったマフィンを食べていた。
「さ、先輩。ここに座ってください」
円先輩は中央に据えられたイスに座った。
「それじゃ、ポーズです。手を頭上で組んでください。首も、その手を見るように上に向けてください」
円先輩は渋々ポーズをとっていく。
「それから、脚を大きく開いてください」
「は?」
円先輩は、似つかわしくない大声を出した。顔が一気に赤くなる。
「太腿も描かないといけないのでお願いします」
「お、お前ら、後で締め上げてやる!」
円先輩は少しずつ脚を広げた。
ポーズをとった円先輩の体は、首、脇、腹、脚と、いたるところの筋が浮き出ており、一つの彫刻のようである。
「はい、じゃあ、このポーズのままでお願いします」
私たちは制作に取り掛かった。
***
私は鉛筆を置いた。
正面からの円先輩の体は、大部分描くことができた。首筋の血管、胸筋と腕の筋肉のつながり。腹筋と腹斜筋、大腿筋……。人の体が筋肉や骨というパーツでできているのが分かる。
と、種田先生が私のところへ来て、描きあげたばかりのデッサンを見た。
「ふぅ~ん、いい感じだね。でもおしいなぁ、立体感が無い」
そう言うと先生は私を立たせ、円先輩の下へと連れてきた。
「よく見てごらん。体の筋肉にはそれぞれ凹凸があるんだ。それは見えているところだけじゃない。鍛えることで、表面上浮き上がったり、反対に凹んでいるところもあるんだ。ただ、その筋肉の付き方は、女性と男性では異なってくる」
みると、円先輩の顔は赤くなっている。
すると種田先生は、
「円くん、ちょっと失礼」
そう言うと、先輩の脇腹に触れた。
円先輩はビックと反応したが、声を出さず、ポーズもそのまま耐え抜いた。
「一番は触ってみること。これは一番手軽で勉強になる。やってみなさい」
「えー、じゃあ、円先輩触りますよー」
先輩はそのポーズのまま目をこちらにやる。いつもの眼力はない。
「や、止めろ! 止めてくれー!」
「じゃぁ、もう部室にお菓子作って持ってこなくてもいいですか? あれ、結構材料費がかかってるんですよ~」
「!」
先輩が目を見開いた。
「協力してくれたら、お礼にホールケーキ作ってきちゃおっかな~、なんて」
さて、食の誘惑にこの人は勝てるのだろうか?
数秒後「わ、わかった」と、無念の言葉を先輩はポツリと放った。
「ありがとうございます!」
私は腹筋から触った。触った瞬間、先輩はビクッと反応したが、怒るわけでもなく、そのまま触った。
(なるほど、腹筋は見た感じよりも凹凸が大きいのね)
(腹斜筋は、浅く出ている感じ)
私がいろいろと先輩の体を触っていると、由里が、
「ミホだけずるいー! 私たちにも触らせて!」
と、意義を唱えてきた。
「いいよ」と、私が言うと、
「バカー! なに言ってんだ、お前!」
耐え切れなくなったのか先輩が叫んだ。しかし、
「ホールケーキ、いいんですか?」
私には魔法の言葉がある。
先輩は次の言葉を飲み込み、されるがままだった。
全員に触られまくった先輩は、顔だけでなく体中が赤く染まっていた。その様子を見て拓哉先輩はゲラゲラ笑っている。おそらく拓哉先輩の未来はないだろう。
私は急いで触って気づいたことをデッサンに盛り込んでいく。新しい情報を入れていくと、絵のバランスは崩れていく。その調節も行わなくては。
ふとポーズをとっている先輩を見る。体が鍛えられて綺麗なのはわかったが、忘れていたのがこの人の男としてのポテンシャルだ。端正な顔立ちに頭脳明晰。しかし、人を見下す性質を持ち、性格もどこか曲がっているように感じる。だが、お菓子好きなど子どもじみているなど、かわいらしさがある。
総合評価C。ギリで可だ。
残念な結果に納得する私。
見ると、由里、カンナ、飛鳥先輩はもう少しかかりそうだ。特に飛鳥先輩は種田先生の助言を受けながら描いている。大変だろうが、この課題が出せれば単位はとれるだろう。
全員が集中している。拓哉先輩もマフィンを食べながら大人しくしている。
時計の音だけが響く。
***
全員が鉛筆を置いた。
「おっつ~、円~。体は衰えてないねぇ」
拓哉先輩が茶化す。
「拓哉! お前だって鍛えてんだろ、毎朝ジョギングとかしてんだし。お前がモデルになればよかったんだ」
「ノンノン。俺の体は、円みたいに人に見せられるようにはできていないから」
確かに拓哉先輩は太っていない。しかし、いつもTシャツなどラフな格好ばかりしているので、体のラインが見えない。対して円先輩はいつも体のラインの出るタイトな服を好んできている。今回のモデル選定での大きな要因だろう。
「それに、オレはそんなかわいいパンツ持ってないし~」
ブチッ!
なにかが切れる音が聞こえた。やばい。
「お前、パンツぐらい、なに履いたっていいだろうが、あぁ?」
あ、やばい。拓哉先輩も「ヤベ」とこぼした。
「まぁ、待て待て、待てって円。そう、そうだよな、パンツぐらい誰でも好きなの履いちゃいいんだよ。そうだ、なぁ、ミホちゃん」
なぜ、私に話を振る。やはり〈でくのぼう拓哉〉だ。
「んー、私はピンク似合ってると思いますよ、先輩。かわいいというよりもカッコよく見えます」
虎のようになっている円先輩が私を見た。
「……そうか?」
「ええ。いいじゃないですか、ピンク」
「……お前が、そういうなら、いいかな」
虎が牙を収めた。部室に安堵の空気が流れる。
「よし、終了。これで終わりだろう」
そう言ってカーテン裏に戻ろうとする円先輩を由里が制した。
「せんぱ~い、なにか勘違いしてませんか?」
「ん? 勘違い?」
「はい。私たち、なにも「一枚」とは言ってませんよ」
円先輩の顔が、さっと青くなった。
「ま、まさか……!」
「はい。正面を描いたので、今度は背中を描かせてください。あ、起立してお願いします」
円先輩はなにか言いたげだったが、相手が余裕綽々の由里だ。諦めて立ち上がると、私たちに背中を向けた。
先輩の背中は、表面にいろいろな筋肉が突き出ているように波打っていた。僧帽筋、広背筋、脊柱起立筋……。
ふと私は尋ねた。
「円先輩、こんなに鍛えてどうするんですか?」
「な、なんだ急に」
「いやぁ、なんか先輩っていつも本を読んでいて文化系の感じがするのに、バリバリ体育会系だったんだなぁって思って」
「体はなにかあったときのために鍛えているんだ。それに――」
先輩は横目で私を見た。
「この身長でひょろひょろじゃぁ、それこそ頼りないだろ」
「なるほど~」
全員が頷いた。それを考えれば、いまの先輩の体は本来見合った体型だと考えられる。
今度は飛鳥先輩につきっきりの種田先生に質問する。
「種田先生、なんでトルソって描くんですか?」
「ほう? なんでだい?」
「いえ、なんか胴体って、なんかこう、手とか顔みたいに表現するものじゃないのに、どうして描かないといけないのかなって、思って」
種田先生の目が光った。
「はっはっは。それこそがトルソの醍醐味なんだよねぇ~。〈トルソ〉はイタリア語で〈胴体〉を意味する言葉さ。もともとはルネサンス期に手足が欠損して発掘された彫刻のことを意味していた。代表的なのが『ミロのヴィーナス』だねぇ。ヴィーナスは両手が無いことで、女性特有の柔らかな胴体の曲線美に注目が集まり、評価された。そのようなトルソは古典古代彫刻家に端を発し、様々な芸術家を刺激したんだよぉ~。また、人物画や彫塑を作成する場合における、胴体の価値も上がったんだ。トルソ自身が発する表現力、というのかな?芸術性が高まったんだ。つまり、トルソは手足よりも重要な基本的な表現体だと認識されたのさ。……7このぐらいでいいかな?」
「あ、はい。ありがとうございます」
どうやら、芸術家として、また、教育者としての種田先生を目覚めさせたらしい。話にあまり間伸びがなかった。
そんな話の間にも、仁王立ちして背中を見せてくれている先輩の背中を見つめる。
それから、私たち四人は制作に没頭していた。ピンクパンツのモデルはそのまま仁王立ちをしている。種田先生は四人を巡回して助言をしてくれる。拓哉先輩には、邪魔をしないようチョコレートスナックを与え、ソファに座らせている。
静かな部室に時計の音が響く。と、
パシャッ!
――ん?
なんか音がした。
回りを見る。
パシャッ!
出入り口からフラッシュが焚かれた。
人の手とスマホが見える。
「誰!」
叫ぶと、スマホを持った手は引っ込み、走る足音が聞こえた。
「盗撮!」
私はソファに寝ていた拓哉先輩を殴り起こした。
「な、なに? ミホちゃん?」
拓哉先輩はわけがわからない状態だったが、どうにか説明した。
円先輩が振り返る。
「と、盗撮だと! お、お前ら捕まえてこい!」
ピンクパンツ円を残し、私と拓哉先輩は走り出した。
***
下から階段を駆け下りる足音が聞こえる。
「待ちなさい!」
時刻は午後八時。いつもならほとんど学生はいない時間である。
私たちは駆け下りる。
足音の数からして、犯人は一人なのだろう。走るスピードが早い。
(逃げられちゃう……)
三階で犯人はB棟廊下に出て走った。追いかける。
明かりが見える。
明かりは学生食堂だった。そこには数人の学生がいた。ふと犯人の走る気配が消えた。
食堂の奥にある、廊下に続くドアを押す。カギがかかっている。
つまり―――
私と拓哉先輩はあたりを見回した。
「ここに犯人がいる」
「ここに犯人?」
拓哉先輩は唾を呑み込んだ。
「私たちは犯人の足音を見逃さずに追いかけてきました。ということは、行き止まりである、この食堂にいるということになります。あたかも、ここにずっといたかのように装って……」
「でも、どうやって探す?」
慌てふためく先輩を余所に、私は目を閉じた。
――大丈夫。犯人はなにかしらのミスを犯しているはず……。
私たちは、食堂にいる三人を観察した。
白いパーカーを着た坊主頭の男性は、黒いトートバックを持ち、テーブルにクロッキー帖、彫刻実習Ⅱと塑像論Ⅱのテキストを出していた。
茶髪の男性は、緑のリュックを持ち、絵画制作Ⅰのテキスト、黄色の筆箱、スマホを出していた。
ショートヘアーの女性は、建築史と絵画制作Ⅱ、ファイル、スマホを出していた。
私は一周して彼らの持ち物を確認すると、考えた。この中にある矛盾。
それは……
「拓哉先輩――」
困惑する拓哉先輩に向かい微笑みながら言った。
「さあ、解決しましょう」
***
ガタガタガタガタガタ……。
「ん?」
部室にいた全員が何事かと出入り口をみた。
しばくして、ミホ、拓哉、そして見慣れぬ茶髪の男が入ってきた。
「円先輩、盗撮犯捕まえました!」
「でかした!」
円先輩は心挫かれていたようで、いまにも泣きそうである。
「で? こいつが犯人か? あぁ?」
腰を抜かしている犯人にとって、一九二センチメートルに筋肉マッチョ、赤い(ピンク)パンツに怒り心頭の顔は、まるで鬼なのだろう。逃げようと必死である。
「よくわかったね、ミホ」
カンナが訊いてきた。
「うん。持ち物でわかった」
「持ち物?」
カンナが首をかしげる。
「うん。食堂にいた三人のうち、この人だけが絵画制作Ⅰのテキストを読んでた。でもおかしいよね。いま後期なのだから前期の絵画制作Ⅰのテキストを読む必要無いのに。それで思ったんだ。この人は慌てて食堂に来て、どうにかくらますために、鞄に入っていた適当な本を引っ張り出して読んでいたんじゃないかってね。で、拓哉先輩がスマホを取り上げてみたら、写真もばっちり残ってたわけ」
捕まった学生は、そこに種田先生もいるとわかると大人しく正座をした。学生の名前は、星田という。
「星田くん。どうして写真を撮ったんですか~? しかも男のぉ」
間伸びした質問は、いつも場の緊張を和らげる。
下を見ていた星田が顔を上げた。
「実は、デッサンがしたくて」
「は?」
全員で応える。
「実は、その、美術解剖学のモデルが見つからなくて。俺、あんまり友達もいないのでお願いもできなくて、どうしようもなくて。で、困っていたときにイーゼルを持った女性が二人走っていて。ああ、モデルが見つかったんだなって思ったときに、ちょっと後をつけてみようと思ったんです。で、ドアの隙間から見てたんですけど」
星田は円先輩を見つめた。
「俺、あなたの体の凄さに驚いたんです。すごい、筋肉美だけでなく、躍動感、彫刻のような美しさ。あなたの体にはそんな美があるように感じたんです。だから、デッサンしたいと思ったんです。ですけど……」
星田は、まるで水をやらなかった花のようにしおらしくなった。
その肩を種田先生が叩く。
「星田くん、芸術家なら素晴らしいものを見たとき、それをデッサンしたいという気持ちは自然と湧いてくるものさ。だが、人の許可を取らないものはいけない。もちろん盗撮など言語道断さ。これは分かるだろう」
「……はい」
「だが、君はまだしていないことがある」
星田は困惑の顔を浮かべる。
「チャレンジさ。特に人に声をかける、ね」
「え、俺――」
「まずはデッサンさせてもらえないか、訊いてみるところから誰だって始まるんだ。やってごらん」
星田は円先輩に向き直った。いや、その美しいトルソに。
「あ、あの、あなたの絵を描かせてもらえないでしょうか……?」
わたしは円先輩をチラッと見た。いつもなら「くそくらえ」ぐらい言ってしまいそうな冷徹な心の持ち主だが。
「いや、まぁ、その、そんなにオレを描きたいんであれば、別にいいぞ」
なに恥ずかしがりながら言ってんだ、このピンクパンツは!
「あ、あ、あ、ありがとうございます!」
星田は感激のあまり泣き出しそうな顔を、めい一杯振り上げて礼をした。
一応一件落着の雰囲気に場が和む。
「で、どんなポーズをすればいいんだ?」
円先輩がポーズをとろうとすると、「あ、ちょっと待ってください」と星田が止めた。
「ん?」
「あなたの体は、全裸が一番きれいだと思うんです。だから、パンツを脱いで正面を向いて立ってください」
シン、と静まり返る。
……ブチッ!
やばい。
「お、お前、モデルを引き受けてやってるだけでもましだと思えー!」
「ひえー!」
虎を飛び越えライオンの顔となった円先輩を止める人は誰もいなかった。
***
「はい、円先輩。約束のホールケーキです」
私は持ってきた紙箱を開けた。瞬間的に生クリームの甘い香りがあたりを包む。
向かいのソファに座る円先輩とオプションの拓哉先輩はその空気を一ミリも逃すまいと、深く息を吸った。
あれから五日目の部室は、いろいろなものを動かした関係で配置が若干おかしい。少しずつ戻していくとしよう。
「先輩が頑張ったぶん、私も頑張りました。なんと、八号です! どうでしょう!」
「いよ! ミホちゃん、最高」
「早く切ってくれ」
「慌てないでくださーい」
ケーキに垂直にナイフを入れ、細かく振動させながら切っていく。これが一番ケーキが崩れない。
皿に一切れずつ乗せる。傍には、今回は紅茶がスタンバイしている。
「では、どうぞ召し上がれ」
「いただきま~す」
二人はケーキをいつものスピードで口に運ぶ。傍から見れば小学生だ。
あれから、デッサンは深夜にまで及んだ。残念ながら星田の希望する全裸は叶わなかったが、デッサンを終えた星田は満足げで輝いて見えた。
私たちも、特に飛鳥先輩は種田先生から直接教授してもらえたことが嬉しかったようで、うれし涙を浮かべていた。
「そういえば、円先輩、あのときはどうしてモデルを引き受けてくれたんですか?」
先輩は口に入れたケーキを吹き出しそうになった。
「な、なんだよ急に。なんでもいいだろ」
「はぁ、まあ、そうですね」
「円はね、ミホちゃんが他の人を描くのが許せなかっ――――」
ピンクパンツ円の視線を受け、でくのぼう拓哉は金縛りにあったようだ。
ケーキを食べ終わり、私が三人分の食器を洗っていると、
「あ、やばい! 今日は十七時までに家に帰んないと! お二人さんお先ー」
拓哉先輩が台風のように去っていった。珍しい。
皿を拭き、棚に戻す。と、いつのまにか円先輩が近づいていた。
「うわぁーお! なんですか、円先輩。驚かさないで下さいよ。ただでさえ体大きいんですから」
「べ、別に驚かそうとしたわけじゃない。その――」
一気に張り詰める空気。まるで狩猟民族が猟に出かけるときの雰囲気だ。
「この間は、犯人を見つけてくれて、ありがとな」
「あ、いいえ。そんな」
微妙な間。なんなんだ? これは。
「その、それのお礼がしたいなって、思っててだな」
「いえいえ、部活の一環ですから」
「いや、俺の危機的状況を救ってくれたんだ。なにかしないと気が済まない」
円先輩は、まるで先生に怒られている小学生のように、私の顔を見てくる。なんかついてんのかな? わたしの顔?
「で、その、近くにできた新しいカフェに行かないか?」
この心遣いは嬉しい。
「はい。いいですよ」
先輩は私を二度見した。
「え、いいって言ったか?」
「ええ、言いましたけど」
「そ、そうか。じゃあ、行こう。すぐ行こう」
「え? いまですか?」
「ああ、もちろんだ」
円先輩の子どものような顔にくすりと笑った。そんな先輩の耳は、いつもよりも真っ赤になっていた。
了