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第7話

博物館資料保存論 ~マリアとローラ~


いままつ




 ポツリ。ポツリ。ポツリ……。


 空から涙が降ってきた、と詩的に表現するのには少し恥ずかしさを覚えるお年頃である。まあ、天気予報ではキャスターが降水確率六十パーセントと言っていた。だから、今日のこの雨は、あながち外れではないのだ。


 雨は難しい。言葉にするのにも、絵に描くのにも、感情を入れるのにも……。だから、私は雨が降る度に立ち止まり、地面に打ちつける雨や雨傘をつたう雨粒、水溜りに広がる波紋などを見るのが好きだ。だから今日も、他の学生が駆け足で校舎に入っていく中、私だけはゆっくり、ゆっくりと足を進めた。


 いつかは曇りのない、透き通る美しい雨を描きたい。画家の卵なりに、そう心に思う。


「ミーホ!」


「キャッ!」


 突然、背後から私に抱きついてきたのは友人の由里だった。数少ないこの友人は、なぜか傘を持っていなかった。天気予報を見ていないのだろうか?


「んもう、由里ったら。どうしたの? 傘は?」


「いやー、実はね、」


 すると友人は、あからさまに困った表情を浮かべた。


 話を聞くと、由里が出かけようとしたとき、彼女の飼い猫のでですけが、タイミングを見計らったかのように、由里愛用の花柄の傘にオシッコをかけてしまったのだという。


不幸だとしか思えない。


本降りになってきた雨にかけがえのない友人をさらす訳にもいかず、とりあえず教室まで一緒に行くことにした。歩調は由里に譲った。


 二人で入ると、私のビニール傘は定員ギリギリだった。


 ポツポツ、と心なしか雨足が早くなっているような気がする。今夜は大雨になる、と私は思った。


 見ると由里は髪も服も濡らしていた。


「そういえばさ、ミホ。博物館資料保存論のレポート書いた?」


 私はギクッと心の中で言葉を詰まらせた。


「……ううん。ぜんぜん」


 素直に答えた。嘘をついたって、なにも意味がないからだ。


「だよねー。私もぜんぜん。いったいなにについて書けばいいのか迷っているのよ」


 私は盛岩総合芸術大学芸術学部油絵学科の一年生だ。四月に入学したばかりの私と由里は小学校以来の腐れ縁だ。どちらも互いにつかず離れずの関係を保っていたが、大学への入学を機に、その距離はグッと縮まった。いまでは、かけがえのない友人と捉えている。


 一年生は、油絵の基礎を学ぶ他に、希望者は資格関連科目を取らなくてはならない。学芸員、教職、臨床美術士……大学からは「好きなのを選んでください」とだけ伝えられていたので、私と由里はほぼ同じ科目を履修した。まあ、大学一年生は教養科目に必修科目、基礎科目に、余裕があれば資格科目を履修する流れだから、自然と同じような科目を登録する仕組みにはなっていた。教職科目は二年生からの履修となるので、いまできる学芸員課程の科目を登録したのだ。


 学芸員科目は、博物館概論、博物館教育論、文化財概論などがあるのだが、その他に博物館資料保存論も必修科目として挙げられていた。


 だが、この科目、なかなかの癖ものだ。専門用語を繰り出す割には解説が無い。ノートテイクするのでいっぱい、いっぱいである。そのため、いつも講義終りにはホワイトボードの字を消すために背中を向ける教授に、イーッと、嫌味な顔を向けるのが日課となっていた。


「博物館資料保存論は試験をやらずにレポートの提出なんだってね。書けるかな、私。作文とか超苦手なんだよね」


 由里の家は文系だ。お父さんは出版社に勤め、お母さんは書道教室を経営している。確かお兄さんも英文学を学べる大学院に通っているはずだが……。由里だけが芸術系で異質なのだ。


 同感だ。私も作文や小論文系は苦手だ。


 ただ、問題なのは、作文が苦手同士が寄り添っても、なにも解決しないということだ。


「……」


「……」


 しばし、ビニール傘に雨粒が降り注ぐ音と、他の学生たちがワイワイと会話をしながら楽しそうに歩んでいく喧噪を受け流しながら、私はひらめいた。


「しょーがない! 由里、次の土曜日って、予定空いてる?」




***




 土曜日。


「ねえ、ミホ。これなんてどうかな?」


 私は友人が指さす目の前の絵画を見て、ゲッと思った。


「え? あ、うーん。まあ、いいんじゃない?」


 うやむやな返答をする私。


 ここは市の北東に位置する赤谷美術館。今日は参考になるかわからないが、博物館資料保存論のレポートを書くために訪れた。すると、偶然にもこの美術館ではアール・ブリュット展を催していたのだ。


 暗がりの中の展示だからよくはわからないが、人とぶつかりそうになってヒヤリとすることが少なからずあった。


「はっきりしないわね」


「だって、この小さいの全部虫よ。気持ち悪く思わないの? 由里は」


 相方は首を傾げた。


「えー、私は平気だよ。むしろ、こんなに小さいのが描けるぐらいだから、とんでもなく視力が良いでしょ。わけてもらいたいわ」


 彼女は眼鏡をかけていないが、コンタクトレンズをしていると以前話していた。いまも作品を見るために作品を凝視している。


 私は子どものとき、偶然にも踏み潰してしまったカマキリからうねうねと別の虫(後で調べると、ハリガネムシという寄生虫らしい)が出てきたことに背筋が凍ったものだ。それからは虫全般が苦手になってしまった。


 アール・ブリュットについては現代美学という講義でも、折に触れて学んでいた。


アール・ブリュットとは、芸術教育を受けていない者が作り出す〈生の芸術〉を指す。転じて、知的障害者や自閉症者などが作り出す個性あふれる芸術をも差す、と大学の講義では話していた。


 私は改めて作品を見た。小さなクワガタのような、ゴキブリのような、細かなかろうじて虫を描いているとわかる作品。ひとまず、この作品を作り上げるために費やされたと思われる集中力と労力の凄まじさに、私は敬意を払った。


「ねえ、次の観ようよ」


 そう促され、私は移動した。


 次にあったのは、六十センチ四方ほどのショーケースだった。小さなライトが二つ、中身を照らし出している。


「これって、本?」


 私は見たままを口にした。目の前のショーケースに展示されていたのは、四冊の積み重ねられた本だった。本の種類も、図鑑や単行本など様々だ。


「本だね。なになに? タイトルは『愛』か」


なかなか深い意味がありそうなタイトルである。


 それから、由里は続けて、小声で作品紹介を読み始めた。


「作品を作ったのは斎藤マリア、十四歳。彼女は重度の自閉症をかかえながらも、作品作りに意欲的に取り組み、これまでに多くの作品を世に送り出してきた。作品『愛』は昨年制作された最新作である。彼女の内心にあるすべてに対する感謝を意味していると考えられる」


 私は「ふーん」と応えた。マリアという人物だけでなく、自閉症やそこから生み出された目の前の作品の凄さにいまいちピンとこなかったのだ。


「結局は本よね、これ」


 由里は一言で作品を一蹴した。情けはない。


「そうね。本ね」同調する。


「でも、芸術って、こういう一見してわからないものがいいのかしら? 哲学的に考えてみると深いかもしれない」


「まあ、そんなことを考えるのは一巡してからでも遅くはないでしょ。次、次」


 この美術館では、入場券さえ持っていれば何回でも展示室に入ることができる。由里のように、慌てて観て回る必要はないのだが……。しかし、人がごったがえし蒸し暑くなっている展示室から出たい気持ちは、わからなくもない。


 私たちは次の作品へと移る。とそのときだった。


「キエー! アアアアアアアアア!」


 叫び声にも似たその声は、すぐさまその場にいた人々の注目を集め、場の空気を凍らせた。私も由里も、いったいなにが起きたのか知るために声の在りかを探した。そして、そこには、ひとりの女の子と女性がいた。


「落ち着いてマリア。作品はちゃんとあるわよ」


マリアと呼ばれた少女はいまにも先ほどまで私たちが見ていた本の入っているケースに飛びかかろうとしていた。


「ンンンンンンンンン!」


 そう唸ったかと思うと、少女は女性の手を振りきって走って行く。


「ま、待って、マリア!」


 暗がりの中、女性は少女の後を必死に追って去っていった。


 その場にいた人々は、走り去る女性の背中を見つめ、気まずそうに、それぞれの前に展示されている作品に再び視線を戻した。


「なんだったんだろうね、いまの」


「さあ……」


 私たちは、再び腰の高さほどに展示されている『愛』を見つめた。




***




「――ということが、この間あったんですよ」


 ここは芸犯の部室。〈芸犯〉とは、〈芸術犯罪解決サークル〉の略で、現在、私を含めて三人が所属している。


「へー、そんなことがあったんだ。大変だったねぇ」


 相槌を打ってくれたのは、芸術心理学科四年の拓哉先輩だ。拓哉先輩はテーブルに三人分のティーカップを用意すると、そこへ赤い紅茶を注いだ。


「ありがとうございます」


「いいって。円も来いよ」


 そう呼ばれて窓際の椅子から立ち上がったのは、拓哉先輩と同じ芸術心理学科四年の円先輩だ。円先輩は読みかけの本をパタンと閉じ、私の向かいの席へと腰を据えた。


「今日はミルクティーだよ」


 そう言って、拓哉先輩は紅茶の上に購買から買ってきた牛乳を少しずつ注ぎ始めた。赤い紅茶と白い牛乳。色で言えば赤と白だ。だが、この飲み物は不思議とピンクではなく茶色となる。私はかねてより、この不思議な現象に誰も異を唱えないことを、逆に不思議に思っていた。


「それで、今日のデザートは?」


 訊いてきたのは円先輩だ。この男はその体躯に不釣り合いに、甘いものが好きだ。彼が欲しているのはデザートとほどよい謎である。


「はいはい、そんなに急かさないでくださいよ。今日はシューチーズにしてみました」


 そう言いながら、私は冷蔵庫に入れていた紙箱を取り出し、テーブルの中央で開いた。冷気と共に、その姿が現れる。


「早くしろ。俺は腹が減っているんだ」


「慌てなくてもシューチーズは逃げないんじゃないか? はいよ、ミルクティー」


 拓哉先輩が円先輩の前にティーカップを置くのと同時に、私はシューチーズを乗せた皿を貢ぎ物のように差し出した。


 ……事実、貢ぎ物なのだが。


 その円先輩は、まるで殿様になったかのように「うむ」と言うと、ティーカップを持ち上げた。この身長百九十二センチメートルの巨人がティーカップを持つと、いつものことだが、まるでリカちゃんの御飯事(おままごと)セットであるかのような錯覚が起きる。


 円先輩はスッとミルクティーを飲んだ。それから、シューチーズを一口食べると、またしても「うむ」と頷いた。


「どうですか? シューチーズのできは?」


「うまい。が、俺はもう少し塩っ気のある方が好きだな」


「そうですか」


 すると、円先輩は「はぁ?」と異を唱えた。


「そうですかじゃないだろう。おまえは言われっぱなしでいいのか?」


「そうだよ、ミホちゃん。言い返してやれ!」


 立ち位置の違うはずの二人が、私に食ってかかってきた。まさかの板挟み状態だ。


 と、私の中で、一つの妙案が浮かんだ。


「わかりました、円先輩。では、こうしましょう。先ほどの話にあった謎を解き明かしてください。もし、解き明かせたなら先輩の好きなスイーツを作ってあげます」


 そこまで話すと、円先輩の眉がピクッと小さく動いた。どうやら興味を示したようだ。先輩は姿勢を少し正し「そうか」と小さく呟いた。


「俺に、先ほどの美術館での騒動の原因を探れと言うのだな」


「はい。そうです」私は頷いた。


「そういえば、ミホちゃんの受講している博物館資料保存論って、学芸員課程の授業だよね。学芸員の資格を取るの?」


 拓哉先輩が問題のシューチーズを頬張りながら訊いてきた。「うま!」という驚きの言葉が漏れる。


「いえ、私はまだ一年なので、とりあえず取れる資格課程を受講しているんです。だから来年からは教職課程の授業も取る予定にしています。まだ、先生になるかは決めていませんけど……」


「そんなことはどうだっていい。すぐ調査に行くぞ」


 そう言うと円先輩はグレーのスーツジャケットを羽織り、私たちを置いてさっさと外へと出て行ってしまった。




***




「これがその作品か」


 部室を後にした私たちは、さっそく赤谷美術館に来ていた。アール・ブリュット展も後期、しかも平日ともあって、以前来たときよりも来場者数は減り、閑散としているように感じられた。


 私たちは企画展示室のほぼ中央にある『愛』を観察していた。『愛』は以前観たときと変わらず積み重ねられていた。


「確かに。本が積み重ねられているだけだね」


 拓哉先輩が相槌を打った。見たままだが、それ以外にこの作品を言葉で表現するのは難しいとも思い、私は肯定の意味で頷いた。


「で、おまえが見に来たときにいたんだな、その女の子が」


「はい」


 この『愛』を見て泣き叫び走り去った女の子。私はどうしても彼女のことが忘れられない。


 話し合っていると、コッコッコと、ヒールを鳴らしながら、一人の女性が近づいてきた。


「申し訳ありませんが、館内ではお静かにお願いいたします」


「ああ、すみません。あなたは?」


「私はこの美術館で学芸員をしています宮地と申します」


 そう言うと宮地さんは、まるで社長に礼をする秘書であるかのように行儀よく頭を下げた。私たちは、そのあまりの行儀のよさに驚きながら、ワンテンポ遅れて同じように頭を下げた。


「あの、実は先日――」


 私は、例の出来事を宮地さんに伝えた。すると、彼女は驚くどころか表情を変えることなく「ああ、そうなんですか」と端的に応えた。


 それから宮地さんが「こちらへ」と部屋の隅の暗がりに私たちを招いた。どうしたのかと思ったが、どうやら観覧者に気づかれないために移動したようだ。それでも声量は変えず、淡々と話した。


「ミホさんが目撃されたのは、この『愛』の制作者であるマリアさんだと思います。マリアさんはこの企画展に毎日のようにお母様と一緒にいらしてます。ただ……」


「ただ?」


 宮地さんは、表情は変えなかったが、言葉を選びながら話し始めるのがわかった。


「ただ、毎日来ていただけるのはいいのですが、この『愛』を見ると、必ずといっていいほど、叫び声を上げて館内を走り回るのです。その度にお客様からの苦情が寄せられていて、どうしたものかと頭を抱えていたところだったんです」


 美術館や博物館にとって苦情は、そのまま売り上げや評価に直結する大問題である。私立ともなれば、あからさまに経営に数字として表れる。それを考えると、先ほどの宮地さんの態度も、幾分かは理解できる。


 と、そこへ長い髪をツインテールにした女の子がトトト……と、走り寄ってきた。


 宮地さんが「あ」、となにか言い出そうとした、そのときだった。


「キイイイイイヤアアアアア!」


 そのけたたましい叫び声に、その場にいた人々は驚き、一瞬だったがすべての行動を停止させた。


「止めなさい、マリア!」


 女性が女の子:マリアちゃんの口を塞ぐと、マリアちゃんは暴れ、女性の腕をかいくぐって通路の奥へと走り去って行った。「待って!」女性もマリアちゃんを追って行った。


「いまのは?」


「いまのが『愛』の制作者のマリアさんと、お母様のローラさんです」


 宮地さんだ。


「マリアさんは、いまのように『愛』を見ると叫び声を上げて走り出してしまうのです。どうしたらいいものか、当館でも対応を模索しています」


 すると、円先輩は「ふむ」と相槌を打った。


「宮地さん、少々お訊きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」


「はい、なんでしょう?」


 宮地さんは周囲に観覧者がいないことを確認してから、声のトーンを少し上げて応えた。それから、視線を円先輩に向けた。私も、先輩がどんな質問をするのか聞き耳を立てた。


「この展示会の前はどんな展示会をしたのですか?」


 私の頭には「?」が浮かんだ。いったい、その質問がなにに役に立つのだろうか。見ると、宮地さんも少し困惑を顔に浮かべていた。だが、彼女は真っ直ぐに、その整った顔を元に戻した。


「このひとつ前は【縄文土器の美を巡る】というテーマで、北区飛鳥山博物館とタッグを組んだ展示会を催しました」


「そうですか。土器ということは、なかなか展示期間中の保管には気を使ったでしょう。しかも、他の博物館からの借り物ですしね」


 宮地さんが薄く微笑む。


「確かに難しかったと思います。しかし、こちらも美術の専門家です。その点はぬかりなく行いました」


 会話を続ける先輩の視線が、対角線の部屋の片隅に向けられていることに私は気がつく。その暗がりの片隅の天井には防犯カメラが備えつけられていた。


 防犯カメラは、ジッと私たちを見つめていた。




***




「あ、いたいた」


 美術館内の喫茶店にローラ親子はいた。円先輩が近づく。


「あの、ローラさんとマリアさんですか?」


 そう尋ねると、ローラさんが顔を上げた。その傍で、マリアちゃんはストローでズズズと、オレンジジュースを啜っている。


「はい、そうですが……。あなた方は?」


戸惑った様子のローラさんが、私たちの顔を順に見つめる。いきなりの大男登場だ。不安になるのも無理はない。


 私は先輩をどかして、頭を下げる。


「急に申し訳ありません。私たちは盛岩総合芸術大学の芸術犯罪解決サークルの者です。少々、お話をお聞きしたくて来ました」


 すると、ローラさんは一度、マリアちゃんを見た。マリアちゃんは時折「フンフフン」と鼻歌を歌っているようだった。


「少しであれば……どうぞ」


 私たちはこれまでのいきさつを話した。話す中で、ローラさんの表情は少しずつだが曇っていった。


「そうでしたか。マリアの話がそこまで伝わっていたのですね。わざわざ来ていただいて、申し訳ありません」


 ローラさんは再び頭を下げた。


「私にもわからないのです。これまでの展示会にも、今回の作品『愛』を出品したことはありましたが、そのときはなにも起きませんでした」


 円先輩はなにかを考えるかのように顎に左手を添えた。


「すると、マリアさんが叫び声を上げるようになったのは、この美術館で展示が行われるようになってから、という訳ですね」


「はい。そうです」


「あの、」


 私はローラさんに問いかけた。


「なぜ、あの作品は『愛』というタイトルなのですか? 見る限り本が積み重ねられているだけのようなのですが……」


 すると、またしてもローラさんは頭を振った。


「わかりません。でも、マリアは昔から本が好きで、小さい頃はおやすみ前の読み聞かせは欠かせませんでした。きっと、その頃を思い出して、本が好きなことを表現したのではないでしょうか?」


 納得はしなかったが、私は、わかりました、の代わりに一度頷いた。


「もう一度お訊きしますが、先ほどの話では、『愛』は他の場所でも展示されていたようですが、そこではなにも起きなかったのですか?」


「ええ。マリアを連れて何度も見に行きましたが、なにも起きませんでした」


「ちなみに、その展示会はどこで行われたのですか?」


すると「えーと……」と、ローラさんは視線を宙に泳がせた。それから思い出したかのように、「ああ」と呟く。


「確か、大野景樹近代美術館です」


 大野景樹近代美術館とは、ここから電車を乗り継いで一時間ほど離れたところにある私立美術館だ。


「そこの展覧会でも、マリアさんを連れて観に行ったことがあるのですね?」


「ええ。せっかくこの子が作った作品が展示されるんですもの、一度は観に行きたかったのです」


 そこまで話したときだった。隣でジュースを啜っていたマリアが、ローラを「おかーさん」と呼んだ。


「ああ、もう、ジュースが無くなったのね」


 それから「申し訳ありません、そろそろ帰りたいと思います」と断りを入れ、荷物をまとめ始めた。


「最後に一つ」


 そう言ったのは円先輩だ。


「大野景樹近代美術館で展示していたときとこの赤谷美術館での展示、どこか作品に違和感はありませんか?」


 私は円先輩がした質問が、いったい、なにを意味しているのか、しばらくの間掴み損ねた。


 ――違和感?


 ローラさんは顎に手を添えると、しばらく考え込んだ。


「わからないわ。ただ、あなたの言う通り、なにか違和感はあります。でも、それがなんなのかわからない……。ごめんなさいね、こんな返答で」


「いえ、ありがとうございます」


 その言葉に合わせて、三人で礼をした。そして、ローラさんとマリアちゃんは帰って行った。




***




 次の日。私は四校時の講義が終わると、友人の甘い誘惑を一切断り、急いで芸犯の部室へと向かった。昼休みに偶然会った拓哉先輩から、今日の活動内容を聞かされ、それからは常に時計とにらめっこをしていたのだ。今日の活動内容とは、『愛』が以前展示されていた美術館へと調査に行くことなのだ。そして、それは同時に緊急招集をかけられたのと同じことを意味していた。


 それほど重要な事項なら電話やメール、LINEで連絡をとってもいいと思うところなのだが、なぜだか円先輩は私に連絡をとってはくれない。連絡取るのは、もっぱら拓哉先輩経由だ。理由について、円先輩は口を開かないが、拓哉先輩曰く「緊張するんだって」と意味不明なことを言っていた。


 緊張とはなにか、その理由がわからない。


 部室の扉を開ける。


「遅い! なにをちんたら走っているんだ」


 円先輩は苛立つと、まるで高校の体育教師のように短気になる。そして、その眼光が私に向けられる。


「すみません。必修の日本美術史の講義だったものですから、抜けるに抜けられなくて……」


「あ、それって細川先生の講義でしょ? 難しいんだよね、あれ」


 拓哉先輩が援護射撃をしてくれて、雰囲気を中和した。助かる。


 私は、ふと、昨日のミルクティーを思い出した。紅茶の円先輩とミルクの拓哉先輩。あのどちらが欠けても完成しない飲み物は、目の前のふたりのように、両者が溶け込み合うことによって、程よいものとなるのだ。


 私は一つ学習した。芸犯では学ぶべきことが多いが、決して嫌にならないのも、芸犯の良いところなのだ。


「さて、揃ったところで出発するぞ。約束も取りつけてあるから、遅れてはならない」


 約束?


 疑問に思っていると、拓哉先輩が囁いてくれた。


「昨日、戻ってきてから種田先生のところに行ったんだ」


 種田博次教授。芸術心理学科のトップであり、実質、この大学のトップでもある。彼は様々な方面に太いパイプを持っている。見た目はその辺にいるオッチャンと違いは無いのだが、その力は凄まじいものがある。そして、なぜか芸犯の顧問をしている。


 私は昨日、赤谷美術館を後にしたあと、バイトが入っていたために早々と先輩たちと別れていた。どうやら私と別れた後に話が進んでいたようだ。


「種田先生が言うには、大野景樹近代美術館にはこの大学の卒業生がいるらしくて連絡をとってくれたんだ。で、待ち合わせが午後六時」


「午後六時って、あと一時間半しかないじゃないですか! 急がないと」


「だから言っているだろ、急げって!」


 私たちは慌てて荷物を持つと、部室を後にした。


 電車を乗り継いで到着した大野景樹近代美術館は、駅前のビルの最上階にあった。まるで高級ホテルのような内装に驚いていると、円先輩が受付で「今日、サトウさんにお会いすることになっている者ですが」と伝えていた。


「はい、お話は承っています。少々お待ちください」


 受付の女性は電話を耳に当てると、二、三語話して受話器を置いた。


 しばらくして、受付隣の壁と同系色の[staff only]と書かれた扉からひとりの男性が現れた。


「お待たせしました。盛岩総合芸術大学の皆さんですね」


「はい。芸術犯罪解決サークルのメンバーです」


「話は伺っております」


 そう言うと、サトウさんは律儀に胸ポケットから名刺を取り出した。名刺には、[主任学芸員 佐東司]と書かれていた。


「私は盛岩総合芸術大学のOBでして、学生だったときには種田先生にだいぶお世話になりました。昨日、電話をいただいたときには驚きました。十数年ぶりに種田先生とお話ししましたが、先生もお元気で、なにより私のことを覚えていてくださったことに感激しました。あ、すみません、私的なことをお話してしまいまして。確か、お話では前回の展覧会について訊きたいことがある、とのことでしたよね?」


 円先輩が「はい」と応えた。そして、懐から一枚の写真を取り出す。


「半年前、こちらで行われていたアール・ブリュット展に『愛』という作品が出品されていたはずです。これは現在の『愛』ですが」


 佐東さんが現在の『愛』を見る。


 それから、円先輩はこれまでの経緯を伝えた。


 佐東さんは「うーん……」と円先輩の話を聞きながら、改めて現在の『愛』の写真を見つめた。


「どうですか? なにか気づかれた点や気になった点などはありますか」


「そうですねぇ……どうだったかな。でも、積まれている本は同じだと思いますよ。芸術とは奥深いなぁ、と思いましたから。ただ本が積んであるのではない。その真意を考えると、「これが芸術か……」と芸術の新しい形を考えさせられましたね」


 佐東さんは感慨深げに、遠くを見るような表情をした。


「そうですか。ところで、こちらで『愛』を展示しているときにマリアさんはいらしていたんですよね」


 佐東さんは「うーん……」と目を瞑ると、ハッと思い出したかのように頷いた。


「ええ、それも毎日お越しくださいました。『愛』を観て、売店を覗き、この同じフロアにある喫茶店でお茶を飲んでからお帰りになっているようでした。それがマリアさんのルーティーンとなっていたのでしょう」


 自閉症は〈変化〉への対応が苦手である。一定の時間、場所、行動で過ごすことが、メンタルを一定に保つ重要なことである、と私は今日の心理学の講義で学んできた。


 結局、佐東さんからはそれ以上のことは聞きだせなかった。せっかくなので、マリアちゃんが過ごしていた展示室、売店、喫茶店の順に見ていくことにする。


 いまの展示会は【甦る美しき刃:日本刀展】だった。館内は照明が多く明るく照らしだされ、日本刀の刃に光が反射する様は、まるで妖刀を観ているかのようだった。


……観たことはないのだが。


 売店には展示品のミニチュア版レプリカや、ノート、メモ帳、クリアファイル、図録、美術書、キーホルダー、はたまた高級アクセサリーまで様々なものが売られていた。私は美術書とクリアファイルを購入した。先輩たちも、それぞれ気に入ったものを購入したようだった。


 喫茶店では、円先輩はコーヒー、拓哉先輩がココア、私がオレンジジュースを頼んだ。クラシックなのかジャズなのかシャンソンなのかはわからなかったが、西洋風のアンティークが置かれたこの店にマッチしたBGМが流れていた。


 着席する、と拓哉先輩が気がついた。


「そういえば、今日はおやつ食べてないよね。三人分のケーキを注文してくるから待ってて」


 そう言うと、パタパタと店員のいるレジカウンターへと駆け足で行った。


 私は円先輩に向き直った。


「円先輩、なにか掴んだんですか?」


そう尋ねると、円先輩は例の写真を胸ポケットから取り出した。その写真をテーブルに置く。


「これが答えだ」


 この写真はいつの間に撮ったのかはわからないが、現在、赤谷美術館で展示されている『愛』だとわかった。


 しかし、どういうことなのか。戸惑った。この写真が、答え?


 どういうことなのか訊き返そうとしたとき、拓哉先輩と店員さんたちが飲み物とケーキを運んできた。ケーキはショートケーキ、アップルパイ、ガトーショコラの三種類だった。


 ケーキ決めの恒例のジャンケンをした。一番、拓哉先輩。二番、円先輩。ビリッケツは私だった。そして私に回ってきた不幸なケーキはアップルパイであった。まあ、ジャンケンの強さは、群を抜いて拓哉先輩が強い。だから、実質的に円先輩と私とでいつも不幸な残り決めをしているのだ。


 その不幸なアップルパイを少しずつ食べていると、拓哉先輩が円先輩に問うた。


「なあ、円。もう謎は解けたんだろ」


 すると先ほどと同じように、もう解決した、と言うのかと思っていた円先輩から出た言葉に、私は驚いた。


「いや、謎は解けた。だが、まだ情報が足りない」


 円先輩にしては、やけに弱気である。


「明日、赤谷美術館に行くぞ」




***




 次の日。十六時の赤谷美術館。


 私たち三人は展示室ではなく、その出口に立っていた。展示室はまるで蛇行する蛇のような構造であり、入り口と出口が別々にある。


 待っていると、展示室から「キャアアアアアアアアア!」というけたたましい叫び声が聞こえ、しばらくして猛ダッシュしたマリアちゃんとローラさんが走り出てきた。


 ローラさんがマリアちゃんに追いつき、その細い腕を掴む。


「マ、マリア。いつものことだけど、走らないでよね……ハアハア」


 どうやら、またしてもマリアちゃんが『愛』を観て叫んでいたようだ。


 そこへ円先輩が近づく。


「ローラさん、マリアさん、こんにちは」


 話しかけられると思ってもみなかったのだろう。ローラさんはビクッと身体を震わせ、声をかけた円先輩に振り向いた。顔見知りだと気づいた彼女の安堵の表情が、私は忘れられない。


「おかーさん、オレンジジュース」


 マリアちゃんは、お母さんの表情の変化や私たちの存在にも気がついていないようだった。


「ええ、そうね。オレンジジュース飲もっか!」


 そう言うと、ローラさんは喫茶店に移動する。それに倣い、我々も喫茶店へとついて行く。


私たちは、ローラさんたちが座っている隣のテーブルに腰を据えた。


注文を取りに来たウェイトレスにローラさんが「オレンジジュースを一つ」と伝えた。「それと、大人はコーヒーで」と円先輩が付け加えて注文した。


 数分後、ウェイターがオレンジジュースの入ったグラスとストローを持ってマリアちゃんの前に置いた。それからホットコーヒーが私たちの前に置かれた。


「ごゆっくりどうぞ」


 ウェイトレスが離れていく。それを待っていたかのように、ローラさんが少し小さめの声で尋ねてきた。


「例の件、どうなりました?」


 まるで、探偵に依頼したかのようだ。


 だが、確かにそうだ。


 芸犯は大学の一部活だ。だが、その実は大学内で巻き起こる事件や謎を解き明かすことを主活動としている、探偵まがいの部活であると間違えてもおかしくないのである。かの、ベイカーストリートイレギュラーズのようだ、と私は最近読んだ小説のキャラクターたちを当てはめてみた。


「目下、調査中です」


 円先輩がそう伝えると、ローラさんは、さらに小さく「そうですか」と呟いた。


「実は今日来ましたのは、ローラさんにお尋ねしたいことがありまして」


「私に?」


 目を見開いたローラさんに、円先輩が静かに、小さく頷いた。


「いまからお訊きする質問は私的なものになるかもしれません。ですので、答えたくなければ、答えなくてよろしいです。いいですか?」


 ローラさんはジュースをズズズッと啜る娘を見てから円先輩に「どうぞ」と伝えた。


「では、改めてお訊きします。マリアさんが泣き叫ぶようになったのは、この美術館の展示会で展示されるようなってからなのですね?」


 ローラさんが一つ溜め息をついた。困っているような、戸惑っているような、悲しんでいるような、あるいはそれらすべてを混ぜ込んでいるかのような、そんな表情を見せた。


「え、ええ……」


 ローラさんがそう応え、円先輩はパチンと指を鳴らした。なにかを思い出したようだ。


「マリアさんについてです。マリアさんは自閉症であるとの解説がありましたが、本当ですか?」


 すると、ローラさんの表情が固まり、一度ゴクリと唾を呑みこんだ。


「はい。もともとマリアは人とのコミュニケーションが不得意でした。なにをするのにも一人。マリア自身も、それがあたり前のことが如く生活していました。私もはじめての子だったので「ああ、こういうものかな」と楽観視していたんです。でも、一歳、二歳、三歳と、歳を重ねるほどにマリアの行動が他の子とは違うことが気になりだしたんです。そして、三歳のときに重度の自閉症と診断されたんです」


「重度の自閉症ということは、知的障害も併せもっているのですか?」


 自閉症と知的障害は密接に関係している。重度ともなれば尚更だ。


「……いえ」


 ローラさんが口を固く結び、断じた。


「マリアの場合、幸い知的には問題が無いとの検査結果は出ています。ですから、障害名は〈高機能自閉症〉となっています。ですが、自閉症が重度なので、行動や考え方の偏り、外部からの刺激への反応が苦手なんです。あ、あと協調性もですね」


 ローラさんが視線を窓へと向けた。窓の外は美術館らしく、青い芝生が植えられた開放的な広場となっていた。だが、その窓ガラスには、いつの間に付着したのか、おたまじゃくしのような、いくつもの滴がくっついていた。


「そういえば、マリアさんのお父さんはどんな方なんですか?」


 私は、ふと疑問に思ったことを訊いた、つもりだった。私の言葉を聞いたローラさんは目に涙を溜めた。


「マリアのお父さんは、いません。あの子が……マリアが自閉症と診断されると、あの子のお父さんは世間体を気にして、書置きを残して出ていきました」


 しまった。率直にそう思った。触れてはいけない琴線だったのだ。


 コツッと円先輩に小突かれた。小突かれなくても十分にその失態はわかっていた。


「ローラさん。ローラさんはどこのお国の出身なんですか?」


 私は話の方向を、むりくり変えようとした。


「私はイタリアの出身です。ですが、もう二十年は帰っていません。毎日、仕事、仕事……それでも、その日暮らすので精いっぱいです。とてもじゃないですが、イタリアに帰るお金は工面できません」


 ポロポロと、ローラの両目から涙が零れ落ちた。彼女はその涙をピンクのハンカチで拭う。


 私の作戦は失敗だった。


 私は再び円先輩に小突かれた。




***




 今日は土曜日。そして、あたり前ではあるが明日は日曜日だ。当然のごとく、芸犯の活動も休みとなる。


 じれったかった。目下、捜査中の事件があるのに休みだなんて。まるで犯人の居場所を突き止めたのに「お休みです」ということを理由に逮捕へ向かえない刑事のようだ、と表現すればよいのだろうか。とにかく、もどかしいのである。


 私はよくよく考えた。土日は博物館も美術館もやっている。変わって月曜日は休館日にしているところが多い。


 つまり、月曜日には調査ができない可能性が高い。


 私はトートバックを手にした。


 今日は私ひとりの自主調査としよう。先輩たちは口にしないが、ただでさえ足を引っ張っている可能性が高いのだ。それに芸犯のメンバーとして恥じない調査力は備え付けていなければならない。いまがそのときだと思う。


 ひとまず、赤谷美術館へと行くことにした。すべての答えは赤谷美術館にあるような気がするからだ。なぜなら、円先輩の視線の鋭さが、いつもとは異なっていた。まるで日本刀を突きつけられているかのような鋭さがあったのだ。


 赤谷美術館は、土曜日ともあり、そこそこ混み合っていた。


「学生ひとり」


「学生証の提示をお願いします」


 私は財布から学生証を取り出し、受付のお姉さまに見せた。


 お姉さまは学生証を確認すると、「六百円です」と言い、私は六百円を支払い、チケットを手に入れた。


 展示室は、相変わらず薄暗かった。作品や解説には個別に小さなライトが点けられているので、観るのには苦労は無かったが、気をつけないと、他の人とぶつかってしまうのではないかと思うほどには、暗かった。


「あった」


 そこに『愛』はあった。


私は部屋の片隅の暗がりに身を顰めた。『愛』を観る人の反応は様々だった。


 ジッと真剣に観る人、「ふーん」と軽く受け流す人、気づかない人。しかし、そのどの人もが『愛』の意図を捉え損ねているように感じた。


 ……私も、まだ真意は掴めていないのだが。


 私は他の作品も観て回った。絵画、彫刻、工芸、工作、書道、ポスター、グラフィックデザイン……いろいろとあった。障害を抱えた人の作品は、その表現方法を限定しないのであろうか。そのチャレンジシップに感嘆の意を感じた。と、思ったが、水彩画の隣にあったもう一つの水彩画も同じ人物の作品だった。どうやら、この人は水彩画を専門にしているようだった。芸術家が絵画や彫塑や版画などの専門をもつのと同じなんだぁと、親近感を覚えた。


 私はチラリと壁の隅を見た。あそこにも、ここにも、あっちにも……監視カメラが設置されていた。まるでレンズが光ったかのようにも見えた。なにかあれば、すぐに見つかりそうだ。


 他にも作品があるので、いろいろと観て回る。だが、あっという間に出口に出てしまった。


 特になんの成果も得られなかった私は、少し考えた。


 アール・ブリュット展は企画展だ。この他に赤谷美術館には常設展があるはずである。


 私は常設展のある二階へと足を運ぶ。が、途中で私は足を止めた。いや、止めないといけなかったのだ。なぜなら、通路の真ん中に立て札が置かれていたのだから。


《常設展示室は改装工事中》


 端的にそう書かれていた。つまりは、観られない、ということだ。


 私は少し首をもたげた。観られないのであれば仕方がない。むりくり中に入るのも出来ないのだから、ここにいてもしょうがない――と、自分に言い聞かせて、その場を離れる。


 受付のあるホールへと戻ってきた。右手に受付けと企画展示室。左に喫茶店と売店。正面に出入り口。


 私はどうしようかと悩んだが、出入り口へと向かった。ここにいても、もう新しい情報は得られないような気がしたからだ。


「あら、ミホさん?」


 そう、不意に呼びかけてきたのは、誰であろう宮地さんだった。彼女は今日もタイトなスーツにヒールの低い靴、それに薄い化粧で身を固めていた。


「いらしていたんですね。調査の方はどうですか?」


 私は頭を振った。


「いえ、少しずつ進んではいますが、まだ……」


「そうですか……」


 吉報が聞けず、宮地さんも少し残念そうだ。


 それから、私は気になったことを訊いた。


「あの、常設展を観ようと思ったんですが、なんだか行けなくて」


 目の前の彼女は「ああ」と呟くと、少し表情を曇らせた。しかし、それもすぐに消え去り、彼女の顔には再び薄い笑顔が戻っている。


「実は次の常設展のセッティングに手間取っておりまして。開室には、まだ時間がかかりそうなんです」


 嘘だと、直観で思った。なぜならば、彼女の目が私を見ていないからだ。宙を彷徨った後、ようやく、その双眸が私に向いた。


「そうだったんですか。ちなみに、赤谷美術館の常設展では、どんなものを展示しているんですか?」


 すると、宮地さんは得意げな表情を見せた。


「当館は、油絵画家であった赤谷渋一郎の作品を中心に、二百二十点余りを所蔵しています。常設展では、定期的に展示品を替え、お客様に観てもらっています」


「そうなんですね。観られないのが残念です」


 私は素直に応えた。本当に残念に思ったのだから、嘘ではない。


「来月には工事も終わると思いますので、そのときになったら、もう一度来てください」


 そう言い、宮地さんは私を見送った。




***




 月曜日。十六時。


 私は「最近素っ気ないよねー」と愚痴る友人をどうにか丸め込め、芸犯の部室へと直行した。


「おつ――」


 元気にそう言おうとしたのだが、窓際で円先輩が電話をしているのに気がついた。私は慌てて口を閉じる。


 大丈夫だろうか? 聞こえていなければいいな。そんな風に思っていると、拓哉先輩がニコニコとお盆を持ってやって来た。お盆にはコーヒが乗せてある。


 拓哉先輩がコーヒーをテーブルに並べた。私は通話中の円先輩を気にしつつ、手を洗うと、持って来た紙袋からクッキーを取り出し、キッチンコーナーに常備されている皿に移し替えた。猫型をしたクッキーは、もちろん手作りである。


「拓哉先輩、円先輩は誰と話しているんですか?」


 私はひそひそ声で拓哉先輩に話しかけた。先輩は、自分の指定席に座り、自分で持って来たコーヒーを啜っていた。


「多分、訊けば教えてくれるよ。円はそこまでひねくちゃいないからね」


 すると円先輩が通話を切り、こちらへと歩み寄ってきた。ソファの定位置に寸分の狂いなく座る。


「お疲れ様です、円先輩。いまの電話は……?」


 円先輩はコーヒーを一口飲み、クッキーを一枚食べた。


「うまい」


 答えになっていない。


「あの、」


「わかっている。ちょっとぐらい休ませろ」


 こちらだって、だいたいの予想はついていた。無駄な動きをしない円先輩。あの電話だってそうだ。なにか意味があるに違いない。


 それから、私たちはティータイムに入った。クッキーは由里の飼い猫であるデデスケをイメージしたことを伝えた。山のように作ってきたはずのクッキーが残り一枚となり、円先輩と拓哉先輩の不毛なジャンケン勝負の景品となった。


 ――本当に不毛な勝負だった。


 円先輩はズズッとコーヒーを啜ると、「はぁ」と息を吐いた。


 私はもうそろそろいいだろうと思い、尋ねてみた。


「円先輩、先ほどの電話はなんだったんです?」


「ああ、さっきの電話は北区飛鳥山博物館のシダさんだ。今回の調査の一環として、話しを伺ったんだ」


「あれ? でも北区飛鳥山博物館と赤谷美術館の企画展って、もう終わったんじゃ。それに、それと今回の謎との関係がわかりませんが――」


 拓哉先輩が疑問を含ませながら問いかけてきた。確かにそうだ。北区飛鳥山博物館と赤谷美術館がタッグを組んだ企画展はもう終わっているはず……。


「よくその、シダさん? の電話番号わかりましたね」


 私が率直に疑問を訊くと、円先輩は、フフンと、鼻を鳴らした」


「凄いだろ」


 なぜか得意げになっているのが腑に落ちない。


「なーにが、すごいだろ、だよ。あのね、ミホちゃん。ぜーんぶ、種田先生の太いパイプ。人脈だよ」


「ですよね。この間もそうでしたし」


 私は恐ろしい形相で拓哉先輩を睨む円先輩におののいた。


 と、そこへ「もっしー」と、一人の男性が部室に入ってきた。


「あ、種田先生」


 種田先生は絵具で色鮮やかに変色した白衣を羽織っていた。そして、テーブルの上の空き皿を見ると、ショボンと気を落とした。


「円くん。シダくんには連絡取れたかい?」


「はい。万端です。ありがとうございます、種田先生」


「うん。ところで今日のおやつはなんだったのかな?」


「ミホちゃんの御手製クッキーです――」


 そこまで言ってしまってから、拓哉先輩は、しまったと、口を噤んだ。


「うん。僕も食べたかったなー」


 種田先生が恨めしそうに、テーブルの上の空となった皿を見つめていた。そこに先生のぶんは無い。拓哉先輩がジャンケンに勝って食べてしまったのだから。


「あ、明日また作って来るので、先生も一緒に食べませんか?」


 私はなるべく平静を装って、そう伝えた。


 すると種田先生の表情が、パッと明るくなった。


「いいの?」


「いいですよ! 一緒に食べましょう! ハハハッ」


 そう言う円先輩の額には、大粒の水滴が光っていた。


「じゃあ、僕はこれで。あー、明日が楽しみだなー」


 種田先生は踵を返して立ち去った。


 しばしの沈黙の後、私が口火を切った。


「で、円先輩。これからどうするんですか?」


 訊いた私に向けられた円先輩の目は、これまで見たことが無いぐらいギラリと光っていた。まるで、「俺に触るな」と言わんばかりに。あのとき観た日本刀に、その目は似ているように感じた。


 それから、円先輩は、合戦に赴く騎士のように「次の土曜に、赤谷美術館に行くぞ」そう、私たちに言った。




***




 次の日。赤谷美術館の閉館時間ぎりぎりに入館した私たちは、受付けで学芸員の宮地さんを呼び出した。


 宮地さんは、始めは驚きを隠せない様子ではあったが、重要な話があることと、『愛』を見せてほしいことを伝えられると、「今回は特別ですよ」と、企画展示室へと案内した。


 客のいなくなった企画展示室は、どこか寂しさを漂わせ、靴と床だけがキュッキュッと、リズムを刻んでいた。


 私たちは終始無言で『愛』の下へと歩を進める。


 薄暗い通路の角を四つ曲がる。


 そこに『愛』はあった。


 よく観察する。


四冊の本で『愛』は構成されていた。


「……『愛』。なんで、この作品は『愛』と名づけられたんでしょう?」


 私は素朴に胸に抱いていたいくつもの疑問の中から一つを選んで、自然と呟いていた。


――『愛』は、なぜ『愛』でなければならなかったのか。


すると、私の呟きが聞こえたのか、円先輩が応える。


「それについては、いまから解き明かす。その前に、だ」


 円先輩は宮地さんに振り向いた。そして一瞥するかのように、宮地さんを見つめた。


「宮地さん。この美術館、あまり評判がよくないらしいですね。特に周辺の同業者からはいい話を聞きません」


 宮地さんは不意打ちを食らったかのように目を見開いた。


「な、なにを言うんですか、円さん。なにを根拠に――」


「確か、前回の展覧会は北区飛鳥山博物館とタッグを組んだとか……」


 宮地さんが頷く。だが、その目はどこかしら怯えている印象を感じさせた。そう思った根拠はすぐにわかった。瞬きが異様に多いのだ。まるで彼女の心の乱れを現しているかのようだ。


「改めて訊きます。本当にタッグを組んだんですか?」


 私は話の方向が掴めずにいた。


「それは……どういう意味ですか?」


「昨日、北区飛鳥山博物館に勤めている知り合いに話を伺いました」


 種田先生のパイプを使った例の話だとわかった。種田先生は、自身の築き上げたパイプを芸犯の活動には惜しみなく提供している。そして、そのパイプのおかげで、芸犯はこれまでいくつもの事件や謎を解決してきたのである。


「北区飛鳥山博物館の彼は嘆いていましたよ。私たちは美術の専門家であって考古学の専門家でないからと展示品の管理は丸投げ。しかも温湿度の調整が適当で、戻ってきた土器にカビが生えていた、と……。俺も気になっていたんです。この展示室の異様な暗さ。まるでお化け屋敷じゃないですか。そこで思ったんです」


 それから、円先輩はポケットに入れていた小型懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。そして、その一直線に伸びる光を展示ケースや壁、天井へと走らせた。


 懐中電灯の先、光が当たったところが浮かび上がる。


 私は息を呑んだ。そこには、まるでバケツをひっくり返したかのような壁染みが広がっていたからだ。それだけではない。天井には転々と黒い斑点がびっしりと異様な模様を描いていた。


 まるでトトロに出てくるマックロクロスケのようだ。


「初めてここへ来たとき、俺は少しカビ臭さを感じました。そして、先ほどの話。博物館、しかも美術館でカビが発生したとなれば死活問題。おそらく、この美術館はスタッフ総出で隠そうとした。そして、その対応策が、この最低限の明かりのみで展示を行うということだった。なかなか考えています。暗がりでは誰も天井など見ませんからね」


あのとき先輩が見ていたのは防犯カメラではなかった。見ていたのはその取り付けられていた壁や天井だったのだ。先輩は一段と眼光を鋭くした。


「美術館なのに館内を薄暗くしていたのは展示品を引き立たせるためじゃない。壁や天井の汚れやカビを隠すためだったんだ」


 宮地さんは、その端正な顔を十分にも引きつらせた。知的な美人のプライドが剥がれていく。


「おかしいと思ったんです。わざわざ暗がりにしなければならない理由が見当たらない。プロジェクターを使っている訳でもないのに、光源を最低限にする理由が……」


 もはや、円先輩は虎だった。そして生贄は宮地さんだ。しかし、彼女を護る者は、この場にはいない。


「さて、ではマリアさんの件について話をしましょう」


 円先輩は懐中電灯をスイッチを切り、『愛』を見下ろした。その構成する四冊の本。


『永遠のソナタ』


『大狭間の歴史』


『ヴァイオリン楽譜集』


『ロンドンの風景・写真』


 それから「気づきませんか?」と円先輩は宮地さんに訊いた。だが、宮地さんはなにに怯えているのか、身を震わせたあと、二、三度首を大きく振った。


「そうですか。残念です」


 そう言うと、円先輩は拓哉先輩に目で合図を送り、「せーの」と『愛』が収められているガラスの展示ケースを持ち上げた。


「ちょ……」


 止めに入ろうとした宮地さんを私は牽制した。


「ローラさんとマリアちゃんには了解を得ています。真実がわかるのであれば、どのように扱ってもよいと!」


 その言葉が効いたのか、宮地さんは口を噤んだ。


直接照明が外れたことで、四冊の本は光を失った。と、円先輩が先ほどの懐中電灯を再び灯した。


「さて、この『愛』ですが、改めて訊きます。なにか気づくことはありませんか?」


 宮地さんが、「い、いえ。なんのことでしょう」、とどうにかその薄い唇で応える。


「ローラさんに確認を取りました。マリアさんは重度の自閉症をもってはいますが、知的障害は併せもってはいないことが検査でわかっているそうです。つまりは、この作品は彼女、マリアさんの意思が純粋に反映された立派な作品であるということです。しかし、彼女はこの作品を観て発狂するがごとく泣き叫びます。その原因がこれです」


 円先輩は拓哉先輩の持っていたトートバックから、一冊の本、いや、図録を取り出し。図録の表紙には『輝かしきアール・ブリュット展』と書かれている。それから、付箋の貼られたページを開いてみせた。そこに掲載されていたのは四冊の積み重ねられた本。『愛』だった。


「これは、この美術館の前に『愛』を展示した大野景樹近代美術館での写真です。アール・ブリュット展をしていたときの図録に掲載されていました」


 確かにそれは『愛』だった。だが、しかし、いま目の前にある『愛』とは、どこか異なるようにも感じる。


「円先輩、これって……」


「これが、本当の『愛』だ。いま、目の前にあるこれは、造られた『愛』なんだ。マリアさんが泣き叫んでパニックを起こしていたのは、自分の作った作品が、勝手に造り変えられていたからだ」


 私は息を呑んだ。まさか勝手に作品を造り変えられているとしたら、なんと言うことだ! 芸術家でないにしろ、それは心理的・社会的に人格を否定されることであり、屈辱を与えることになる。


 マリアちゃんはそのことに耐えられなかった。その苦しみが、あの絶叫だったのだ。


「で、本当の『愛』だが、拓哉、わかるか?」


「アイアイサー、円」


 すると、拓哉先輩は円先輩の持つ図録の『愛』をジッと見つめた。しばらく見つめる。そして、『愛』を手に取る。


 一冊一冊を確認しながら積む。


『ロンドンの風景・写真』


『大狭間の歴史』


『ヴァイオリン楽譜集』


『永遠のソナタ』


 よし、と言う拓哉先輩に私は首を傾げた。


「拓哉先輩、この順番は?」


 すると、拓哉先輩はニカッと笑い、


「気がつかない? 頭文字だよ。頭文字のアルファベット!」


「あ!」


 私は一気に謎の答えが見え、思わず大きな声を出してしまった。ここが閉館後であってよかった。


『ロンドンの風景・写真』のL。


『大狭間の歴史』のO。


『ヴァイオリン楽譜集』のV。


『永遠のソナタ』のE。


 続けると「L・O・V・E」、つまりは『愛』だった。


「おそらく、お母さんのローラさんに向けてのメッセージだろう。本という存在は彼女にとってお母さんとのかけがえのないつながりを象徴する。日頃の感謝、捧げてくれる愛情、それらを表現したのだろう。しかし、この貴重な資料は保存されることなく展示され続けた。マリアさんの心はどれだけ傷つけられたか、あなたにはわからいでしょう――」


 円先輩の語気が、改めて鋭くなった。そして、その言葉が宮地さんに突き刺さる。宮地さんはブルッと身体を震わせると、力なくその場に座り込んだ。




***




「円先輩! 拓哉先輩!」


 バンッと部室に駆け込んだ私は「今日も元気だね、ミホちゃん」と言う拓哉先輩の言葉を無視して、テーブルの上に叩きつけた。


「ん?」


 窓側の、IT社長が座るかのような豪華な椅子は円先輩が持ち込んだものらしいが、いったいどこから持って来たのだろう? いつも不思議に思う。


 いや、そんなことよりも伝えねばならないことがあった。


「見てください。円先輩、拓哉先輩。赤谷美術館のことが載っています」


 私は、さきほどテーブルに叩きつけた新聞を開いた。その三ページ目の片隅。ひっそりと記事が載っていた。


 円先輩と拓哉先輩が、私の両脇から新聞紙を覗いた。


 記事によると、赤谷美術館は赤字続きの経営と、度重なる不祥事がたたり、閉館することが決定したとのことだった。【度重なる不祥事】が、いったいなんなのかは書かれてはいないが、おそらく『愛』の一件も含まれているのだろう。


 たった数行の記事だったが、部室の空気は重かった。いつもは部室を明るい雰囲気にしてくれる拓哉先輩も、いまは辛辣な表情を浮かべていた。まるで、自分たちのあの捜査が赤谷美術館を潰してしまったかのような、そんな雰囲気だった。


 すると、円先輩が拓哉先輩と私を小突いた。


「いて」


「いた」


 ふたりで円先輩を睨む。


「なにそんな湿っぽい表情になってんだよ。赤谷美術館の壁紙みたいに変色しちまうぞ!」


 笑えない。


 笑いの視点が違う。


私は黙った。


すると円先輩は慌てたように先ほどの新聞を手にし、記事を読んだ。


「赤谷美術館は無くなるが、所蔵品はすべて市立美術館に移るらしい」


「『愛』は、どこへ行くんですかね?」


 私は心配していたことを訊いた。『愛』はいったいどこへ行くのか。


 すると、円先輩は小さく溜息をついた。


「『愛』はマリアさんとローラさんの手元にある。ただ、それだけだ」


「そうだよ、ミホちゃん。『愛』はマリアちゃんが持っているんだよ。大丈夫、大丈夫」


 私は笑顔を作った。作り笑顔だったが、それだけで場が和む気がした。


「ところでなんだが――」


「はい?」


 なぜか円先輩がソワソワしながら話しかけてくる。


「約束、覚えてるよな」


 約束……?


 私は頭の中を駆け巡った。そういえば、なにか言った気がする。


「お、おまえが言い出したんだぞ」


「ああー。ハイハイ」


 思い出した。あのちっぽけな約束。まだ覚えていたのか。


とは思いつつも言いだしっぺは私だ。しかたがない。


「約束ですからね。なんなりと食べたいものを言ってください」


 私はまるで王に使えるメイドのように振る舞った。時折、傲慢な王のような態度を取る円先輩にはピッタリかなと思ったのだが。


「そうだな、前はシューチーズだったから、今度は、そうだなぁ、チーズケーキにでもしておくか」


「わかりました。チーズケーキですね。レアですか? スフレですか?」


 円先輩は少し考えたようだったが、最後には「任せる」と話を丸投げしてきた。ケーキは食べるくせに、あまり詳しくは無いのだろうか? もう、レアでもスフレでもない、チェダーチーズやゴルゴンゾーラチーズでも使ったケーキにしてやろうかと、少し腹を立たせた。それでも、シューチーズよりもチーズケーキの方が作りやすいのを、この王は知らないらしい。万々歳である。


「拓哉先輩も同じでいいですよね?」


 拓哉先輩は、今日の明らかに手抜きであるおやつの葛餅を食べていた。その手を止める。


「うん、いいよ。よろしくね」


 私はさっそく今日、買い出しに行こうかと考えていた。と、部室の扉が開いた。新しい依頼かと思ったが、そこにいたのは由里だった。


「ハアハア、ミホ!」


 息遣いが荒い。


「由里、どうしてここへ?」


 私は率直に訊いた。


「どうしたもこうしたもないわよ! 博物館資料保存論のレポート、明日で締切よ! 一文字も書いてないわ! どーすんのよー!」


 その由里の叫びが、私の時間を止めた。


 数秒後。


「ええええええええええええええええええ!」


私は叫ぶことしかできなかった。


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