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第8話

鍵盤楽器演奏特論 ~歓喜のプリンス~


いままつ




そのとき、私こと大地字ミホは動くことができなかった。私がいまいるのは、大学附属音楽ホール。定員二〇〇〇席の満員の中、一階席の目立たない席に座っていた。


ステージから鳴り響く音階。どこか懐かしいメロディー。そこにあるのは、ステージの天井を突き抜けているのではないかと見間違うほどに巨大なパイプオルガンだった。そして、その幾段にもなる鍵盤の前に座る一人の青年がいた。







一週間前のこと。


私はいつものように右手に先輩たちのために作ったおやつが入った紙箱を引っ提げて部室へと向かっていた。今日はお手製のドライフルーツケーキだ。


私はふと紙箱の中身のことを考えた。ケーキは八つに切り分けられている。切らずにホールで持ってきてもよかったのだが、そうなるとホール用の箱が必要だ。それに、持ち歩くのにも「傾いちゃうんじゃないだろうか」とか「潰れてしまうんじゃないか」などと細心の注意を払わなければならない。だが、自分でいうのもなんだが、私はそれほど繊細にはできてはいない。もとより、先輩二人も同じようなものなのだが。


私はいま〈芸犯〉こと〈芸術犯罪解決サークル〉の一員として給仕……ではなく、先輩たちに遅れを取らないよう勉強をする毎日である。とはいえ、先輩たちからは「普通に講義を受けていれば、知識は身についてくる」といわれる始末。


 ……私、当てにされていないのかな?


 そんな、うやむやな気持ちを抱きつつ、部室の扉を開けた。


「ミッホちゃーん!」


 ウサギのように飛び跳ねているのは芸犯に所属する芸術心理学科四年の石井拓哉先輩だ。拓哉先輩は、今日もTシャツにジーパンというラフな格好だ。華奢な身体つきだが、一八五センチの高身長と少しのイケメン顔であることを鑑みれば、少しはちゃらちゃらして夜遊びがうまそうな雰囲気を感じてしまうのだが、本当の拓哉先輩は大真面目。一度、事件が起こると彼が築き上げた人脈を駆使して情報を集める。見た目とは裏腹に努力家であり策略家でもあるのだ。


 その拓哉先輩が私の持つ紙箱に視点を当てた。


「なになに? 今日はケーキなの? やったね!」


 拓哉先輩はより跳躍力を上げて跳ねた。両手はガッツポーズだ。彼の好物はケーキだったと、遅れながら思い出した。


「はい。今日はドライフルーツケーキです。お口に合えばいいんですが……」


「大丈夫、大丈夫。ミホちゃんのお菓子作りの腕は確かだから。だろ? 円。お前もこっちに来いよ」


 私は拓哉先輩が声を投げかけた方を見た。窓辺にある、この部室には不釣り合いなほどスタイリッシュな椅子があった。そして、その椅子に腰かけている人物。円先輩だ。


 芸犯の部長であり、芸術心理学科四年の環円先輩は、ハードカバーの単行本を読んでいたようだが、その本をパタンと閉じ、立ち上がった。


 ――大きい。


 毎日のように会っているはずなのだが、私は改めて円先輩の身体の大きさに圧倒された。一九二センチの身長に、日々スポーツジムで鍛え上げている身体は、そこら辺の軟弱な大人では太刀打ちできないほどのオーラを纏っていた。だが、単に私の身長が一六〇センチと小柄であるがため、そう見えるのかもしれないのだが……。


 しかし、だ。


「円先輩も食べますか?」


「うむ」


 そう、返事とも唸り声とも取られぬ声が聞こえた。


 もうちょっと愛想よくできないものか、そう、いつも思う。こんな態度ばかり取っていたら、ボタンのかけ間違いが起きそうである。


 私が棚から皿とフォークを取り出しているうちに、応接セットのテーブルに置いていた紙箱から拓哉先輩が、ちゃっかり、ケーキを取り出す。


「おおお! スゴイ! このなんともいえないこの香りがたまんない! だろ、円もそう思うよな、なぁ」


「ああ。香りで分かる。今回のケーキは直球できたな」


「直球? どういうことだ」


 すると、円先輩は拓哉先輩の隣に腰を下ろした。それから、右の人差し指を拓哉先輩の顔の前でピンと立てた。


「ドライフルーツケーキとしての不純物が無いってことさ。ふむ……バニラエッセンスではなく、リキュールが使われているな」


 私は皿を並べた。


「ただのリキュールではないですよ。なんと、一本千円もするナリタ屋の高級リキュールなんです! 太っ腹大サービスですよ!」


 拓哉先輩も円先輩も、一瞬、反応が遅れたように感じた。


「……そ、そんなに気張らなくても……なぁ、円」


「あ、ああ。ちょっと食べづらいかな……」


 あれ? いつもは強気な先輩たちが怯んでる。高級路線作戦は失敗かな?


「食べたくなければ別にいいですよ。私と種田先生とで食べますから」


 私のセリフを聞くと、先輩二人の表情に衝撃が走った。


「そうだ。種田先生のこと忘れてた。ヤバい、ヤバい! 呼んでくる」


 拓哉先輩がウサギらしく素早い身のこなしで部室から出ていった。


 残されたのは私と円先輩。私は、ひとまず皿にケーキをよそった。と、「紅茶でも飲むか?」と言い、円先輩が珍しく台所へと向かった。


「珍し――」


 私はボソッと呟く寸前で言葉を呑んだ。いつもは岩が如く動くことがない円先輩が、なにを思っての行動なのだろうか。種田先生が来るからだろうか? そういえば、円先輩は種田先生のゼミに所属していたはずだ。


 五分ほど経って、拓哉先輩が種田先生を連れて帰ってきた。それから、なぜか飛鳥先輩も一緒だ。訊くと、途中で会ったから連れてきたという。


 和田飛鳥先輩は、以前、【絵画Ⅰ】という授業で私の絵を模造し、本物と偽って提出した犯人である。しかし、私と和解した後は、公私ともども良好な関係を築いている。


「あの、ミホちゃんのケーキがあるって聞いて、来ちゃった。けど、お邪魔じゃないかしら……?」


「大丈夫ですよ。沢山ありますから。あ、種田先生、ソファにどうぞ」


 私は種田先生を促した。


 種田先生は、この盛岩総合芸術大学芸術心理学科の教授である。いつもハチャメチャな絵具で塗りたぐられた白衣を身に纏った初老の男性で、詳しくは知らないが、この大学において絶対的な権力を誇っている。つまり、この大学では種田先生の名を出せば、閲覧禁止図書の貸し出しだけでなく、気に入らない学生や教員の首切りなども可能となる。恐ろしきことこの上ない。


 種田先生と、ついでの飛鳥先輩がソファに座る。そこへ、タイミングを見計らったかのように、円先輩が紅茶の入ったティーポットとカップを人数分運んできた。


「どうぞ」


「おお、円君。君が紅茶を淹れるなんてぇ、なにか弱みでも握られているのかい?」


「……いえ、自主的にやっているつもりです」


 私は笑いだしてしまった。種田先生から見ても、円先輩のこの行動は奇異に見えたらしい。


「円先輩、紅茶を淹れていただいて、ありがとうございます。さあ、ケーキを食べましょう」


 私はみんなに、ケーキを乗せた皿を手渡した。




  ***




「あの、すみません」


 ケーキを食べ終え、紅茶を片手に談笑していると、扉をノックする音が聞こえた。見ると、戸口に一人の青年が立っていた。


「はい、どうしましたか?」


 すると、青年は少しためらいがちに、小声でなにかを呟いた。聞き取れない。しばらくして唯一「事件です」と聞こえた。


 部屋の中のすべての人、もちろん私もだが、緊張が走った。


「どうぞ、中でお聞きします」


 円先輩が部室内に青年を招き入れる。青年は一呼吸置いて、「はい」と言い中へと入った。


 青年は、大学院音楽学部鍵盤楽器専攻二年の池田博人と名乗った。


 池田先輩は、どこか落ち着きのない様子で、ソファに腰かけた。


 私が「依頼とは?」と訊こうとした、そのときだ。


「今日はいい天気ですね!」


 池田先輩だった。その声は、先ほどまでの委縮した声ではなく、どこか溌剌としている。


「赤とんぼが飛んでいて、秋らしくなりましたね」


 よく分からない発言をする池田先輩に、私は戸惑った。拓哉先輩も飛鳥先輩もなにを語っているのか、掴めずにいるようだった。だが、円先輩と種田先生は少し顔を強張らせたように見えた。


「特に三匹揃って飛んでいるのは見応えありますね――」


 そう話しながら池田先輩は一枚の紙を私たちに見せた。


〈僕のコートに盗聴器が仕掛けられています。なにも話さないでください〉


 そう、書かれていた。


 ――盗聴器?


 私は混乱した。


「あの――」


「そうですよね。とんぼは一匹や二匹じゃなく、三匹飛んでいると珍しくて見入っちゃいますよね」


 私を押しのけ、すかさず入ってきたのは、円先輩だ。先輩は周囲に見せるように口の前で人差し指を立てた。


「そういえば、池田先輩は大学院に通われているのですね。どこのゼミの所属なのですか?」


「僕は笹野教授のゼミで、主にパイプオルガン演奏の研究をしています。ホールにいっぱいに響き渡る荘厳な音色に惚れ込んだんです」


「そうでしたか。パイプオルガンとはまた巨大なものを選ばれましたね。もしかすると、パイプオルガンで『赤とんぼ』を弾かれてみると面白いかもしれませんね」


 池田先輩は「ハハハ」と苦笑いしながら頷いた。


「そうだ。いまからになるんですが、音楽ホールに行って、演奏を聞かせてくれませんか?」


「え? いまからですか?」


 池田先輩は驚きの表情を浮かべる。


 私は壁掛け時計を見上げた。時刻は十七時を少し過ぎたところだ。校舎内では、まだ講義が行われている時間だ。


「いいじゃないですか。パイプオルガンの音色なんて、そうそう聴けるもんじゃない。な、お前らも来るだろ?」


 特に予定のない私は、コクリと頷いた。横を見ると、「あったりまえ!」と拓哉先輩が肯定した。部員ではないが、飛鳥先輩も頷いている。


「円君。その【お前ら】には、僕も入っているのかなぁ?」


 背中をゾッとさせる、おっとりとした言葉が聞こえてきた。種田教授だ。


「ヒッ――」


 円先輩はその場に固まり、どうにか首だけでも動かそうとしていた。


「そ、そんな訳ないですよ。【お前ら】は拓哉たちのことですよ、なあ!」


「そうかい? みんな?」


 私たちは、再びコクンと頷いた。ここで頷いておかなければ、おそらく円先輩の未来はないだろう。


 まあ、傲慢な円先輩の未来がどうなろうが関係ないのだが。


「さ、さあ、音楽ホールに行こう。種田先生はいかがなさいます?」


「そうだねぇ。僕はぁ会議があるからなぁ。聴きたいのは山々だけど、ここでおさらばするよ」


 部室を出ていこうとする種田先生は一言だけ言った。


「気を付けてね~」




  ***




 ギイ……バタン。


 音楽ホールの扉を閉めた。中は真っ暗だったが、来る途中で以前お世話になった中川さんに偶然会ったので、明かりは点けてもらえることになっていた。


「さて、ここまで来れば大丈夫だろう」


「大丈夫? って、どういうことですか?」


 暗がりの中、私は円先輩に訊いた。


「そうだよ、なにが大丈夫なんだー?」


 しゃしゃり出る拓哉先輩を無視した。


「この音楽ホールは最新設備を兼ね備えた遮音壁が自慢なんだ。扉は二重で、しかも一枚の厚さは三十センチを超えている。だから、ここでは携帯電話の電波すら届かない。見てみろ、スマホ」


 スマホをバッグから取り出す。確かに電波を示すゲージは一本も立ってはいなかった。


「だから、いまは盗聴器の心配をする必要はありません。声を出してもいいですよ。池田先輩」


 その言葉を聞き、池田先輩は、まるでいままで水の奥底に沈められ、ようやく地上へとたどり着いたかのように、大きく深呼吸した。


 そのとき、会場内の明かりが点いた。ずらりと並んだ客席の反面、ステージの奥面には、壁一面を覆うようにパイプオルガンが据えられていた。まるで、いまかいまかと演奏をする主を待っているかのようだ。


 しかし、池田先輩は未だに盗聴を恐れているのか、口をつぐんでいる。


「三匹のとんぼ」


 円先輩だ。


「童謡『赤とんぼ』の三番を指し示しましたね。盗聴に気を配っての最大限の情報だったでしょう。よく考えました」


 私だけではなく拓哉先輩や飛鳥先輩も考えているようだった。


 飛鳥先輩が傍らで小さく歌う。




「十五で姐やは 嫁に行き お里の便りも 絶え果てた――」




「ん? これのどこが盗聴と関係があるんだ? ただの童謡だろ?」


 拓哉先輩が強く詰め寄る。しかし、円先輩は拓哉先輩の額に、パチンとデコピンを食らわした。


 拓哉先輩が「痛!」と呟き額を押さえる。


 すると、池田先輩が口を開いた。


「気付いてくれて、ありがとう。気付いてくれなかったら、どうしようかと考えていたよ……」


「それでは、やはり」


「ああ、僕の姉さんが誘拐されたんだ。「もし警察に連絡したら、殺す」と脅されている。そして、この盗聴器付のこのコートを毎日羽織ることも、生かす条件として伝えられている」


 この場にいる全員の背筋が凍った。


 誘拐――。その二文字が頭の中で響いた。


「そ、それは、いつ起きたんですか?」


 私は自然と池田先輩に問いかけた。彼はさらに声のトーンを下げた。


「三日前の日曜日。犯人たちは昼食時に宅配業者を装って押しかけてきたんだ。そして、ナイフを突きつけ「騒ぐな」と端的に言ってきた」


 そのときのことを思い出したのだろう。池田先輩の柔和な表情が、徐々に険しくなっていく。


「……犯人たちの要求は、分からない。ただ、姉さんの首にナイフを突きつけて、姉さんを連れて去ったんだ。二十分もかからなかったと思う」


 ホールの中に、シンと静けさが伝わった。この場の誰も、事の重大さに押しつぶされそうになっていた。


「あの――」


 飛鳥先輩だ。彼女も事の成り行きに緊張しているのだろう。どこか不安げな表情をしていた。


「どうして誘拐犯たちは、池田先輩を殺害せず、お姉さんだけを連れ去ったのでしょう?」


「それは、分からない。姉さんを連れ去ってからこの方、まったく犯人からの要求などがない。ただただ、この盗聴器で見張られているだけなんだ」


私は円先輩を見た。円先輩も事件のあらましを模索しているようだった。


と、この静まり返った集団に一石を投じたのは、誰であろう拓哉先輩だ。


「あんまり緊張しっぱなしじゃ身も心も疲れるよ。ここはいっちょ、池田先輩の腕試しでもしようか!」


「「「腕試し?」」」


 皆の声がシンクロした。それほど、拓哉先輩の言葉が意外で、彼の意図が掴めなかったのだ。


 その拓哉先輩はステージを指さした。


「たまには息抜きは必要ですよ。池田先輩、なにか弾いてください~」


 そう言いながら、拓哉先輩は近くの椅子にさっさと腰掛けた。


 池田先輩は少し迷ったようだが「ああ、いいよ」と了解した。それから踵を返し、ステージへと向かう。


 ステージには、まるでお寺に鎮座する大仏よりも巨大なパイプオルガンが据えられている。そのパイプオルガンの席に座る池田先輩は、さもそこが自分の特等席であるかのように、違和感を感じさせなかった。


 その池田先輩の両手が、三段ある鍵盤を捉える。


 パイプオルガンから軽やかで、なめらかで、荘厳で、重苦しい音が一気に吹き出てきた。私はその音圧に、反射的に耳を抑えた。見ると、飛鳥先輩も拓哉先輩も耳を塞いでいる。唯一、円先輩だけが腕を組んで池田先輩の演奏を聴いていた。


 しばらくして演奏が終わった。池田先輩が、座りながら上半身を回し、問いかけている。


「どうでしたか? リストの『バッハの名による前奏曲とフーガ』という曲でしたが」


 私はありのままを答える。


「初めてパイプオルガンの曲を聴きましたが、軽やかさと重さ、相反するイメージを想起させる意外性がありました。よかったです。……ただ、音圧が凄すぎてびっくりしました」


 池田先輩は頷いた。


「そうか。パイプオルガンの利点は、その音圧で会場全体を包み込むことなんだけど、僕はまだ、うまくコントロールできていなくて、音割れなんかも起きてしまうんだ」


「でも、これでここに来た理由は正当化できたね! パイプオルガンの練習、練習」


 そのときだ。バンッと客席後方の扉が音を立てて開いた。入ってきたのは、この音楽ホールの管理人の中川さんだった。


「こら! 誰がパイプオルガンを弾いていいと言ったんだ! 用が済んだのなら、早く出ていけ」


 中川さんは怒り心頭だ。


「ひ~! すいません!」


 なんと、拓哉先輩は私たちを残し、ただ一人だけ、さっさと走り去ってしまった。久々の【でくのぼう拓哉】を目の当たりにし、私や円先輩は深い溜め息を吐いた。


 残された私たち四人は、中川さんの説教を受け、音楽ホールを後にした。




  ***




 コンコン。


 次の日。部室の扉がノックされた。時刻は十六時だ。部室には私と円先輩がいた。拓哉先輩はバイトとかで、今日は来ないらしい。拓哉先輩がいないと、円先輩になんと声をかけてよいのか、少々困る。どうやら【でくのぼう拓哉】にも役割があったようだ。


「どうぞ」


 円先輩が言うと、扉が開いた。入ってきたのは、誰であろう、依頼者の池田先輩だ。先輩は、例の盗聴器付きのグレーのコートを羽織っている。


 と、池田先輩の背後に誰かがいた。見ると、二人の女性がいるようだった。


「円さん、ミホさん。姉さんが戻ってきました」


 私たちが「え?」と驚いて反応せずにいると、池田先輩の後ろにいた二人のうちの一人が前に出た。顔に少しそばかすのある、長い髪を三つ編みにした女性だった。


「あの。弟がお世話になりました……」


「ケガもなく、見ての通りピンピンしています」


 どうやらこの女性が池田先輩のお姉さんらしい。


「あの、そちらは?」


 私は、まだ顔を見せていない三人目を指した。


「え? ああ、母です」


母と呼ばれた女性は、細面で身体も細く、どこか体調が悪いのか青白い顔をしていた。しかし、それとは反してエルメスやグッチなどの高級ブランド物で着飾っているのが傍目にも分かった。


「この度は博人がお世話になり、ありがとうございました」


 池田先輩のお母さんが、深々と頭を下げながら言ってきた。


「いえ。それよりも良かったですね、お姉さんが戻ってきて」


「ええ……」


 どこか腑に落ちないような返答だ。


「なにかありましたか?」


「い、いえ。なにもありません。そうだ、円さん、ミホさん。今度、音楽ホールで行われる大学院音楽学部の演奏発表会に来ていただけませんか? せめてものお礼です」


 そう言い、池田先輩は四枚のチケットを渡してきた。


四枚?


「円さんとミホさん。それから、拓哉さんと飛鳥さんにです」


 池田先輩が発した言葉に、ああ、そういうことか。と、思った。


円先輩が一歩前に出た。


「ありがとうございます。ぜひ行かせていただきます」


「それでは、当日、音楽ホールでお待ちしています」


 そう言うと、池田先輩たちは立ち去った。


 扉が閉まると同時に、円先輩の表情が固くなったのが、雰囲気で分かった。芸犯に入部して半年。円先輩の一挙手一投足が手に取るようにわかるぐらいには、私の目も肥えてきていた。


「……円先輩、どうかしましたか?」


 すると、円先輩は、なにかブツブツ唱えながら、部室の中で円を描くように、ゆっくりと歩きはじめた。


 それから数秒後、「ふむ」と唱えると歩みを止め、円先輩の指定席でもある窓辺のスタイリッシュな椅子に腰を据えた。私は一人、その動きを見届けた。


 ブラインドの上げられた窓からは、いまは燦々と夕陽が部室の中に差し込んでいた。だが、その夕陽が強ければ強いほど、暗雲とした影もまた、色を濃くしていた。


 私は円先輩に声をかけられずにいた。なにか言葉を発した途端、この世界が陰に呑まれ、崩壊してしまうのではないかという、恐ろしい錯覚に捕らわれはじめていた。


 それから、私は静かに心の中で三十秒数えた。三十秒後、私は円先輩に声をかけることにしたからだ。


一、二、三……


静かだった。まるで、窓際に座る円先輩は、本当はもう帰ってしまっていて、そこにあるのは先輩の空蝉なのではないか。


……十五、十六、十七……


どこから出てきたのか、汗が顎の輪郭を伝って床に落ちた。


胸がドクドクと脈打つのも感じた。気が高ぶっているのを自覚した。


……二十一、二十二、二十三……


私は意を決した。


……二十八、二十九、三十!


「あの……!」


 そのとき扉が開いた。


「まーどかー!」


 疾風のごとく飛び込んできたのは、誰であろう拓哉先輩だった。




  ***




「ウワォ! 今日は【でですけクッキー】かい。このココアの部分がたまらなく美味しいんだよね!」


 そう急き立てる拓哉先輩は、今日は季節外れではないかと思ってしまう紫色のTシャツ姿だった。表には、これも芸術家の卵の証しなのか、一言では表せないキャラクターが描かれていた。


「はいはい、食べる前に手ぐらい洗ってくださいよ」


「ワオ! そうだね。食中毒になったら――クワバラクワバラ」


「バイトはどうしたんですか?」


「それがねえ、シフトの変更が急にあって、今日はお休みになったんだよ。で、さっきまで図書館で卒論の資料集めしていたんだ」


「そうだったんですか。お疲れ様です」


 手を洗うためキッチンコーナーへと向かう拓哉先輩の背中を目で追う。と、いつの間にか円先輩の椅子の向きが変わり、部室の内側を向いていた。


 円先輩は呟く。




「十五で姐やは 嫁に行き お里の便りも 絶え果てた」




 それは『赤とんぼ』の第三番だった。池田先輩の事件は、この歌とともにはじまった。


「おい、拓哉」


 円先輩の目には光が宿っていた。その光が物語っている。〝この事件は終わっていない″と。


「クッキー食べてないで働け。お前の力が活かされるぞ」


「お! 俺の出番でかい? なんなりとお申しつけくださいまし、王様」


 拓哉先輩は、明らかに演技であるかのように円先輩に頭を下げた。


「お前にして欲しいのは聞き込みだ。お前の人脈で、池田先輩のことを調べ尽くせ」


「え? どうしてですか、円先輩。なんで池田先輩のことを調べるのですか?」


 すると、円先輩は私に向き直り、右手の人差し指をピンッと立てた。


「この事件がまだ終わっていないことは、お前もうすうす感づいているだろう」


 私は頷いた。


「だからこそ、事件の裏に隠された謎を解き明かすときなんだ。そして、鍵となるのは、おそらく依頼者である池田先輩だ。しかし、どうだ。俺たちは依頼者である池田先輩について、大学院生でパイプオルガンを弾いているということぐらいしか知らない。圧倒的に情報が欠けている。だからこそ、その〝情報の欠けている状態″を補完する必要がある。いいな、拓哉」


「イエッサー!」


 拓哉先輩は、演技と分かりつつも、勢いよく敬礼して見せた。


 踵を返し、部室を出ていく拓哉先輩を見送ったあと、私と円先輩は応接セットに腰を据えた。と、今度は飛鳥先輩が種田先生とともに訪れた。どうやら飛鳥先輩が種田先生の講義のレポートが書けず、種田先生の部屋に直談判に訪れたというのだ。そして、困った種田先生が、とりあえず落ち着かせるために、いまこうやって来たというのだ。


「……飛鳥先輩、今度はなんの科目ですか?」


「えっと、その……教養科目の心理学概論、です」


 そう答える飛鳥先輩の隣で、種田先生が溜息をつく。


「和田君はこの四年間、ずっと心理学概論を受け続けていてね。私としてもなんとかして合格して欲しくて、再試験のレポートを科したんだ。でもね……」


 見ると、飛鳥先輩の目から涙がこぼれていた。〝落ちこぼれ女子″という肩書は辛辣で、私としても避けて通ってほしい思いに駆られた。


「で、僕がレポート作成に関わることはできないから、すまないが円君と大地字君に手助けをしてもらえないかと思ってね。頼めるかな?」


「お願いします!」


 飛鳥先輩は、嗚咽を漏らしながら頭を下げた。


 時計を見ると十七時四十分を過ぎたところだ。私たちとしては、拓哉先輩の情報収集が終らない限りは、ひとまずやることはない。


「いいですよ、種田先生。飛鳥先輩、一緒にレポート作りましょう」


「ううう、ミホちゃ~ん」


「そうだ、種田先生、おやつ食べていきませんか? 【でですけクッキー】を焼いて来たんです」


「そうかい? それじゃ、お言葉に甘えて」


 それから一時間ほどだろうか。私と飛鳥先輩はレポート作りに、円先輩と種田先生は次のゼミの話に集中した。


 飛鳥先輩は心理学概論の指定のテキストを持っていたが、線を書いたり折り目を付けたり曲げたりせず、新品かと見間違えるほど、保存状態は良かった。


――だって線書いたら中古で高く売れないでしょ?


私は溜息を吐いた。中古で高く売れても単位を落としたら元も子もない。だいたい、四年生で留年ギリギリなのだから、危機意識をもっと持ってもらいたい……私は心の内でツッコミを入れた。だが、このテキストは飛鳥先輩のものだ。どう扱うかは、飛鳥先輩が決める。


「ここ、分かりますか?」


「う~ん……難しい」


 大袈裟に両腕を放り投げる飛鳥先輩に、私は溜息を吐く。


「しょうがないです、コピーしましょう。食堂にコピー機があったはずです」


 私は円先輩たちに断りを入れ、飛鳥先輩の手を引いて食堂へと向かった。


 時刻は十九時前。食堂にはまだちらほらと学生たちが屯していた。補習扱いになった学生たちのだ。彼らの目はテキストやパソコンと睨めっこ状態だ。


 コピー機は二台あった。白黒コピー一枚につき十円。このハイコストにどれだけの学生が気付いているだろう。


「それじゃ、ここと、ここと、ここと、ここのページを全部A4でコピーしてください」


「はーい」


 飛鳥先輩がコピーを取りはじめた。と――


「ねえねえ、トモコちゃーん」


 この尻の軽そうな声は……。そう思い振り返ると、食堂の一角にガヤガヤと学生たちが集まっていた。そして、その中心で一大ハーレムを築いているのは、誰であろう拓哉先輩だ。


「ヒトミちゃ~ん、音楽に興味ある?」


 ヒトミと呼ばれた女子は紙コップ片手に「フフフ」と息を漏らした。


「音楽? 聴くよ。ジャニーズとかAKBとか」


「違うよ。クラシックさ。特にパイプオルガンなんてどうだい?」


「渋い~。なに? 拓哉君ってそっち派?」


「ノンノン。訊いただけさ。あ、マチエちゃんは音楽聴いたりする?」


 拓哉先輩はどんどん目に入った女の子に質問を投げかけていく。


 ――これが円先輩の言う拓哉先輩の調査なのか?


 そう思っていると、チャリチャリチャリと小銭の落ちる音がした。


「コピー終ったよー」


「え、あ、飛鳥先輩、それじゃあ部室に戻りましょう」


 私たちは、背後で「モモエちゃんはどう?」という質問を投げかけている拓哉先輩に気付かれないよう食堂を出た。




  ***




「まっどかー! 聞き込みをした結果だけど――」


 次の日の十五時。部室でのひと時にまるで台風のように突入してきた拓哉先輩は、開口一番にそう言った。


 今日のおやつはおはぎで、せっせと皿に盛っていたのだが、反射的に手を止めた。呆気にとられていると、いつもと同じように窓際の椅子に座って本を読んでいた円先輩が立ち上がった。


 パタンと本を閉じる。


「まあ、座れ。立ったままじゃあ疲れるだろ。それに、メモも取りたい」


 円先輩が応接セットへと移動した。私は私を含めた三人分のマグカップにお茶を淹れ、おはぎと共にテーブルへと運んだ。


 私が座るのを待ってから、拓哉先輩が口を開く。その手には四つ折りに畳まれた紙片が握られていた。その紙を開き、目を走らせ、話しはじめる。


「池田博人先輩について出来るだけ多くの人から聞き込みをした。池田先輩は苦学生で、高校は音楽科ではなく普通科を卒業し、二浪してこの大学の音楽学部ピアノ科に入学。二年のときにピアノと共にオルガン演奏に没頭。大学院に進学してからは、オルガンをメインに演奏しているらしい。その演奏技術は音楽科の遠藤先生を唸らせるほどだと聞いた。


私生活はというと、大学にいないときのほとんどをバイトに捧げている感じだな。友達が呑みに誘っても「ごめん」と言って断るそうだ。肝心のバイト先はというと、駅近くのバーガーショップ。そこの夜勤を週五日入れている。昨日行ってみたんだが、働きは勤勉で客や同僚ともよくコミュニケーションを取っているようだった。大学や大学院には奨学金で学んでいる。


 家族の実態については、知っている人はいなかった。軽く口外することを避けていたのかもしれない」


 そこまで言い、グビッと一口お茶を飲む。


 メモ帳に出来るだけペンを走らせる私とは対照的に、円先輩は腕を組んで目を閉じ、口を真一文字にキュッと閉じて聴き耳を立てているだけだった。


 私は驚いていた。昨日、見かけた食堂でのなんちゃってハーレムだけではないのだろうが、あの聞き込みからこれだけの情報を集めるとは、正直言って意外だったのだ。これが円先輩の言う拓哉先輩の強みなのだろう。


 ――人は見かけじゃない。それぞれに強みがあるのだ。


 私の中で拓哉先輩を見る目が変わったような気がした。ひとまず【でくのぼう拓哉】からはグレードアップしよう。


「と、分かったのはここまで。どうだい、円。なにか分かりそうか?」


 円先輩は、珍しく「う~む……」と唸ったと思ったら「事件に直結しそうな情報はないな。空振りだ」


「え? か、空振り!」


 拓哉先輩がバンッとテーブルを叩いた。はずみでマグカップからお茶がこぼれる。


「おいおい、円。本気でそんなこと思っているのか? 空振りだって? この俺の情報収集能力を舐めちゃあいけねえよ」


 空振りと言われ、拓哉先輩が円先輩に食ってかかった。もしかしたら喧嘩になるかもしれない。


「なんだ? まだ情報を持っているのか?」


「おうよ! 二人とも耳をかっぽじって、よーく聞きな」


 そこまで言うと、喉が渇いたのか、拓哉先輩はグビッとお茶を一口飲み「アチチ!」と言う。


 その間に、私はペラッとメモ帳を捲る。が、円先輩は先ほどからメモ自体取っていない。私とは脳みその造りが違うことに、ちょっとショックを受ける。


「いいか、よーく聞くように。まだ情報が少ないから黙っていたが、実は先輩には三十歳になるお姉さんがいる」


「え? それって……」


 私の頭の中には『赤とんぼ』の第三番が流れた。




 ――十五で姐やは 嫁に行き お里の便りも 絶え果てた――




 しかし、昨日、池田先輩が直に「姉は戻ってきた」と連れてきたのだが?


「ふむ。その姉というのは、昨日ここに来た人物だろうが、いったいどんなどんな人物かは分からなかったな。どういった人物なんだ? 訊きこんだんだろ?」


 拓哉先輩は円先輩に「まあ、慌てるな」と言うと、おはぎを器用に切り分け一口摘まんだ。「うん、美味しい」と言う。それから、再びメモが書かれている手帳へと視線を向けた。


「池田先輩のお姉さんの名前は、池田菜穂さん、三十歳。東京の大学を卒業後に戻ってきて、県内の商社に勤務している。商社に問い合わせたら、一ヶ月ほど前から連絡が取れずにいるそうだ。だから、彼女がいまどこにいて、なにをしているのは、誰も知らない」


再び「ふむ」と、円先輩が拓哉先輩の出した情報に頷いた。どうやら、頭一つ分拓哉先輩がリードしたようだ。


「どうやら、いま俺たちが直面している問題の形が見えはじめたな」


「問題……?」


「そうだ。これまでは、いったいなにが起こっているのか分からなかった。だが、拓哉が集めた情報が俺たちのこれからの道標となる」


「おうよ! そのために俺の情報力はあるからな」


 拓哉先輩が勢いづく。


「明らかにしないといけないのは、①池田先輩の姉、池田菜穂さんについてと、②犯人についての情報だ」


 そこで私は異議を唱える。


「ちょっと待ってください。お姉さんは昨日戻ってきましたよ。池田先輩だって、姉が戻ってきました、って言っていたじゃないですか」


 すると、円先輩は息を吐きながら言った。


「お前、あの女の人が、本当に池田先輩の実の姉だと、本当に思っているのか?」


「え……それはどういう……?」


「なんで池田先輩は姉が帰ってきたのに、あの盗聴器付のグレーのコートを着ていたんだ? おかしいじゃないか」


「それは、そうですが……」


 私は拗ねた。あまりにも円先輩の方が正論だからだ。


 そんな私の様子に気付かないのか、円先輩は話を進める。


「そこで、役割分担をして臨みたい。お姉さんについては拓哉が、犯人については俺が担当しよう。……大地字はここで情報を収集し、まとめてくれ。重要な任務だ」


 私は息を呑んだ。先輩二人の情報をまとめるなどできるであろうか。否、やらなければならない。それが私の役割なのだから。


「ミホちゃんガンバ!」そう拓哉先輩がエールをくれる。


「分かりました! 任せてください」


 こうして芸犯は動き出した。




  ***




「ふう、まだかな」


 私は応接セットのテーブルの上にスマホを置き、スマホが鳴るのをいまかいまかと待っていた。だが、スマホはまるでバッテリーが切れたかのように微動だにしない。


「はあ、緊張するなぁ」


 私は、うーんと、背伸びをした。定期的に連絡をくれるとは言っていたが、どのタイミングで連絡をくれるかは分からなかった。


 気が滅入る気がした。


 コンコンコン。扉がノックされた。


 誰だろう?


「はい、どうぞ」


 扉が開くと、そこにいたのは飛鳥先輩だった。今日の飛鳥先輩は、全身を蛍光イエローの服で統一していた。目が痛い。


「あら? 今日はミホちゃんだけなのね?」


 飛鳥先輩はキョロキョロと部室内を見渡すと、不思議そうに問うてきた。


 私は頷く。


「え、ええ。そうなんです。私はお留守番かな――」


「へぇー……そうそう、実はこの間の心理学概論のレポート、ミホちゃんのおかげで合格できたのよ! ありがとう!」


「ええ! 本当ですか? よかったですね」


 私は飛鳥先輩と手を取り、その場で喜びのジャンプを繰り返した。飛鳥先輩だけでなく私自身、あのレポートで大丈夫かとハラハラドキドキだったのだ。だから飛鳥先輩の喜びは、私の喜びでもあった。


「そこで、今日は感謝の気持ちを込めて、ミホちゃんの代わりに私がおやつを作って来たの。食べましょう」


 そう言うと、飛鳥先輩はテーブルの上に持っていた袋を置き、中から紙箱を取り出した。紙箱を開けると、ほんわかと甘い匂いが漂った。


「ホットケーキなんだけど、どうかな? 安直かな?」


「いいえ、とってもいいです。ステキです」


「ありがとう」


 そう言い、飛鳥先輩はホットケーキを皿に取り分けた。当然だが、ホットケーキの熱はすでになく、ただの〈ケーキ〉なのだが……。


「いただきます」


 私はモグッと、ホットケーキを一口食べた。これは――。


「……飛鳥先輩、これは?」


「そうそう、メイプルシロップの代わりに粉砂糖をかけたの。どうかな?」


 残酷ではあるが、私の舌は正直だ。


「飛鳥先輩……しょっぱいです……」


 飛鳥先輩が目を見開いた。


「ええ! そんな、まさか」


 そして先輩もモグッと食べた。と、グフッとのどに詰まらせて吐き出しそうになる。何度か咳払いをする。


「ごめん、ミホちゃん。砂糖と塩を間違えた……失敗した」


 テンションだだ下がりで謝られた私はどうしたらいいものだろうか。


「だ、大丈夫ですよ。これが円先輩じゃなくて、よかったですね。円先輩なら百叩きの刑でしたよ」


「ううう、そうね。私ドジだから、慣れないことをすると、全然できないのよね……。よし、次は失敗しないわよ! ミホちゃんも期待していて!」


「ハハハ……無理なく期待してまーす」


 時計を見た。十九時になろうとしていた。スマホはまだ微動だにしない。円先輩と拓哉先輩は、いったいどこでなにをしているのだろう。無理をしていなければいいのだが。


「どうしたの、ミホちゃん? 怖い顔して」


「え? いえ、その、なんでもないです。ハハハ」


 と、またコンコンコンと、扉がノックされた。円先輩か? 拓哉先輩か? いや、二人とも入室の際にノックをしているところを見たことがない。では、誰であろう?


「はい。どうぞ」


 扉が開かれる。そこにいたのは種田先生だった。先生は、いつもの鮮やかに彩られた白衣を着ていた。


「おや? 大地字君と和田君だけかい? 円君に用があって来たんだがね」


「すみません。円先輩と拓哉先輩は、今日は来られないようです」


「ほ~。珍しい。彼が部を休むなんて……なにか、そう、雷でも落ちるんじゃないかね」


 種田先生は「ホッホッホッホ」とフクロウのように笑った。きっと、円先輩の勤勉さからの意外性を表しているのだろう。


「私も意外に思っていたんですよね」


 飛鳥先輩も種田先生に同意する。それほど調査のためとはいえ、異様な現状なのだ。


「彼がいないのならしょうがないな。すまんが大地字君、円君が戻ったら私の部屋まで来るよう、伝えてもらってもいいかな?」


「はい。分かりました」


 と、種田先生はサッとホットケーキの端きれを手にし、口に放り込んだ。


「「あ――」」


 私と飛鳥先輩の声がシンクロする。


 瞬間的に、ゲホゲホと種田先生が咽返る。盗み食いなど罰当たりなことをするからだ、と私は思った。


「しょおおおおおおっぱ~い……」


「はい水です。飲んでください」


 私はコップに入れた水を種田先生に渡した。「ども」と、先生は受け取り、グビッと呑み乾した。それほどしょっぱかったのだ。


「いや~、ビックリしたなぁ。大地字君がおやつ作りに失敗するなんてぇ」


 私は慌てて手と首を振った。


「ち、違いますよ。今日のおやつは飛鳥先輩が作ってきてくださったんです」


「えぇ? 和田君がぁ?」


 そう言うと、種田先生は身も心も縮んだ蛍光イエローの飛鳥先輩を見た。飛鳥先輩は、いまにも消え入りそうな声で「すみません……」と謝罪を述べた。


 種田先生もバツが悪そうに、その癖毛を掻いた。


「いやいや、元はといえば僕が盗み食いをしたからね。和田君に非はないよ」


 それでも和田先輩は謝罪を止めない。すると、「ふうん……」と先生は考えたようで、口を開いた。


「それじゃあ、こうしようじゃないか。一週間後に、またおやつを食べに来るよぉ。そのときに和田君のおやつを持ってきてくれるかな?」


「は、はい! 分かりました」


「じゃあ、そういうことで~」


 そう言うと、種田先生は拓哉先輩と同じく風のように去って行った。


 呆気にとられていた私たちだったが、クルリと、飛鳥先輩が振り向いた。


「どどどど、ど~しよう! 一週間後だって! なにを作ったらいい? そもそもどう作ればいい? 私に作れる? うわ~ん!」


 和田先輩はパニック状態だ。それならば、なぜ「はい」と応えたのだろう。無理なら【無理】でいいと思うのだが、いまとなっては取り返しがつかない。来週に向けておやつを作るしかないのだ。


「ミホちゃん」


「は、はい?」


「お願い。力を貸して!」


 私は、少しだけ迷った。


「もしかしたら心理学概論の単位、落とされちゃうかも……!」


「ははは、それはないんじゃないですか? もうレポートの評価でてますし」


「でも、正式にはまだ単位をもらってないわけだし……合否の操作は出来るでしょう?」


「そ、それは、そうですが……」


 相手はあの種田先生だ。レポートの合否判定や成績の認定など、いとも簡単に操作できるだろう。


「教養科目は心理学概論で終わりなの。だから、どうしても落とす訳にはいかないの」


 飛鳥先輩はいまにも泣きそうだ。


「わ、分かりました。協力しますから、泣かないでください」


 私は根負けした。


「ほ、本当に! ありがとう、ミホちゃん」


 歓喜に沸く飛鳥先輩と同じように、窓の外には月が煌々と照っていた。




  ***




 次の日。四時限目、現代アート論の講義の終わりに由里やカンナの甘い誘惑を断ち切り、部室へと駆け足で赴いた。


 部室には既に円先輩と拓哉先輩がいた。円先輩は窓辺の指定席で、いつもよりも大きめのハードカバーの単行本を読んでいた。拓哉先輩はというと、キッチンで皿を洗い、棚へとカチャカチャと音を立てて戻していた。


「やあ、ミホちゃん」


「拓哉先輩、円先輩、お疲れ様です」


「そろそろ来るだろうと思って、カミツレのハーブティーを淹れておいたよ」


「ありがとうございます。そうだ、今日はビスケット焼いてきたんで、みんなで食べましょう」


 私は皿にビスケットを乗せると、テーブルの中心に置いた。と、そのとき、コンコンコンとノックする音が聞こえた。入ってきたのは飛鳥先輩だ。今日は靴から帽子まで真っ白なコーディネートだ。昨日の蛍光イエローよりは目に優しい色合いだと、心の奥で呟いた。


「あの、環さんに呼ばれてきたんだけど……」


「え? 円先輩に?」


 私は驚いた。なぜ、円先輩は非部員である飛鳥先輩を呼び出したのであろう。そう思っていると、円先輩は本を閉じ、静かに立ち上がった。ブラインド越しの夕陽にシルエットが浮かぶ。


「よし、メンバーが揃ったな。話をはじめるぞ」


 そう言うや否や、私たちは応接セットへと座らされた。


 しかし、私には腑に落ちないことが一つあった。


「円先輩、なんで飛鳥先輩を呼び出したんですか? 飛鳥先輩は芸犯の部員ではありませんよ?」


「そう、それは私も思ったんだけど……」


 当の飛鳥先輩も疑問を口にした。どうやら飛鳥先輩も、自分が呼び出された理由が分からず困惑しているようだ。


 円先輩は、一度頷く。


「確かに和田さんを呼び出したことは一見奇異に見えるが、ちゃんとした理由がある」


 そう言うと、円先輩はジャケットの内ポケットから、四枚の長方形の、少し光沢のある紙きれを出しテーブルに置いた。


 紙切れには〈第四十六回盛岩総合芸術大学大学院音楽学部発表会〉と書かれていた。


「これは?」


「ま、円! いつの間にこんなものを! さては、そこいらの女の子をひっかけて二人で――」


 まくし立てる拓哉先輩に円先輩は「じゃあかしい! 黙ってろ!」と怒鳴り、力ずくで口を封じた。怒鳴られた拓哉先輩はというと、ブツブツと名残り惜しそうに呟いていたが、ビスケットを一枚頬張ると「うま!」と目を見開いていた。


「これは見ての通り、今日これから執り行われる、大学院音楽学部の発表会の招待状だ。池田先輩からいただいた。ここに四枚ある。俺と拓哉、大地字、和田さんへとのことだ」


 そこまで話した円先輩に、私はどうしても聞きたいこと、いや、聞かねばならないことがあったので、先生に質問を投げかける生徒のように、ピンッと腕を伸ばした。


「発表会に行くのはいいですが、円先輩、昨日はどこへ行っていたんですか? 連絡も無しに」


「どこへ? 調査に行ったんだ。そう伝えただろう?」


「それはそうですが。円先輩も拓哉先輩も、結局、連絡をくれなかったんで、どうなったのかなと思って……」


「俺はね、ミホちゃん」


 拓哉先輩だ。


「昨日、一日かけて音楽学部に通う学生たちに声を掛けて情報収集していたんだよ。質問内容は二つ。一つはなにを専攻しているのか。もう一つは池田先輩についてさ」


 私は、今度は拓哉先輩に質問をぶつける。


「二つ目の池田先輩について訊くのは分かりますが、なぜ回答者の専攻について訊くんですか? よく分かりません」


 すると、拓哉先輩は人差し指を立て、「ちっちっち。まだまだ青いなぁ、ミホちゃんは」と言った。私の血圧は一気に上がり、脳はバトルモードへと切り替わり、あと数秒遅ければ拓哉先輩に跳び蹴りを食らわしていたであろう、そのタイミングで円先輩が口を開いた。


「大地字。突然、初めて会ったヤツから「池田先輩のことを教えてくれ」と言われたら、お前ならどんな気持ちになる?」


「え? そうですね……、「誰だこいつは」や「訊いてどうするんだ?」とか思うと思います」


 円先輩は頷く。


「そう、誰だって初めて会うヤツには心理的にバリアを張り、自分の知っている、持っている情報を守ろうとするものだ。そこで、拓哉は相手の専攻している分野について知ることで、そこを切り口に相手の知っている情報を芋づる式に手に入れているんだ」


 私は呆気にとられた。そのような技術を身に着けていたのか、拓哉先輩は。


「で、拓哉。目的の情報は手に入ったのか?」


「おうよ! 俺が誰だと思っているんだい?」


「「「石井拓哉」」」


 私たち三人の声がシンクロする。思いは同じだ。だが、それにも拓哉先輩は動じない。


「かあ~、分かっているじゃないか! しかーし、それだけでは足りないな。なんせ、俺はスーパー・タクヤさ」


「はいはい。で、情報は?」


 私はポーズを極めている拓哉先輩に話を促した。


「おうよ、ミホちゃん。聴いて驚くなかれ。池田先輩についての情報は雲上の太陽さ!」


「……? つまり、どういう意味ですか?」


「つまり、ミホちゃんや円が思っている以上に意外なことが分かったんだ」


 部室に緊張が走った。いったい、どんな情報を掴んだのか。


「それは、どういうことですか?」


「私も気になります!」


 飛鳥先輩だ。彼女は眼を爛々と見開いている。どうやら興味が湧いたらしい。


 だが、張り詰めた緊張を切り裂いたのは円先輩だった。円先輩の手には、いつの間に用意したのか、カミツレティーが注がれたティーカップがあった。忘れていたが、テーブルの上にはビスケットもあったのだった。


「まあ、待て。一旦、落ち着こう」


 私たちはティーポットからカップへとカミツレティーを注ぐと、一口グビッと飲んだ。


 また一口、飲んだ。そして、ビスケットを一枚噛む。なんだか、先ほどまでの緊張がどこかへと行ってしまい、いつもの部の雰囲気に戻ったようだった。


「って、なんですか、これは!」


 私は話を戻した。「ふー」と、一息ついていた一同に緊張を走らせる。果たして、拓哉先輩が得た情報とはなんなのか。


 と、時計がカチリと針を動かした。それと同じくして、円先輩がテーブルに出していたスマホがブーブーブ……と、鳴動した。どうやらタイマーが設定されていたようだ。


「時間だ。これから発表会に行くぞ」


 私たちの心には、より一層の緊張が走った。




  ***




 十六時半。盛岩総合芸術大学音楽学部附属音楽ホール。ホールの外も内も人でごったがえしていた。


 収容人数最大二千人。赴くのは、以前、音楽部の発表会の中間発表会で起きた事件以来だ。多くの人はフォーマルに身を包んでいる。そして、よくよく見ると、私以外の三人もフォーマルだ。


「……円先輩。これはどういうことですか?」


「〝どういうこと″とは、どういうことだ?」


 円先輩はしれっと言って退ける。フォーマルを着た先輩は、いつもタイトなカジュアルを着てはいるが、改めて見ると、どことなくカッコよく見えた。


 拓哉先輩もフォーマルだ。だが、飛鳥先輩はフォーマルではなく、ドレス姿だった。ただ、ドレスはドレスでも、中世ヨーロッパ風の、どこか仮装と勘違いされる風貌だった。実際、何人かは彼女のことを白い目で見ては通り過ぎて行った。


「なんで私だけ私服なのか、と言うことです。皆さんフォーマルじゃないですか」


「まあ、そんなヤツがいてもいいじゃないか。芸術でいうスパイスさ」


「そうだよ。ミホちゃんぜんぜん浮いてないよ」


「そうよ、ミホちゃん」


 私は後戻りできず、「そうでしょうか……」と呟くしかなかった。


 私はジーンズにニットなのだが……。


 放送が響く。


《ご来場の皆様にご連絡です。これより盛岩総合芸術大学大学院音楽学部の演奏会を執り行います。受付けを済まされました方におきましては、チケットの席番号をご確認いただきまして、お席へと移動していただきますよう、よろしくお願いいたします。会場は現在、照明を点けてはおりますが、御足元にお気をつけて――》


「よし、会場に行くぞ」


 円先輩のその言葉に促され、私たちは「はい!」と、後に付いてく。


 受付を済ませ会場に入ると、そこは人で溢れかえっていた。席という席は埋まり、どの人々も演奏が始まるのをいまかいまかと待ち望んでいるように見えた。


「うわ~……すごい人だかりですね」


「これが名物〈音楽会の豆大福〉なんちゃって」


「どういう意味です? 拓哉先輩」


「餅にもあんこにも豆がぎゅうぎゅうっていうわけ……あれ? うけない?」


「そんなこと言ってないで、行くぞ」


 円先輩の足先は、チケットに書かれている席ではなく、どういうわけか会場横の通路を進み、【STAFFONLY】と書かれた扉へと向かった。その扉をノックすると、カチャっという音と共に手前に向かって開いた。そこにいたのは中川さんだった。


「おお、来たか。準備はできておる。演奏会が始まる前に行くんじゃ!」


 その言葉に後押しされ、私は理由も分からぬまま円先輩たちに付いていく。


 ――準備はできておる。


 中川さんはいったいなにを知っているのだろうか? それとも、それは円先輩との口裏合わせなのだろうか?


 見覚えのある廊下に出た。白一色の廊下の左手には、いくつもの控室の扉が並んでいる。だが、どこにも人の影は無かった。


「一足遅かったか」


「ああ。……だがまだだ!」


 そう円先輩は言うと、廊下の奥へと駆け出した。廊下の突き当たりはステージ袖へとつながっている。


「池田先輩!」


 そこには池田先輩をはじめ、多くの正装に身を包んだ出演者たちがいた。もちろん池田先輩もタキシードを着ていた。そして、いまかいまかと待ち焦がれる会場の人々のざわめきが聞こえる。


 私はステージ入り口とは反対の薄暗闇に、池田先輩のお母さんとお姉さんがいるのに気がついた。どうしてここに? 息子の晴れ姿でも見に来たのだろうか?


「やあ、環君。来てくれたんだね。どうしたんだい? そんなに汗だくになって――」


「三十秒で終わらせます」


 その一言で、溌剌とした表情を浮かべていた池田先輩は口を噤んだ。その目線は、確かに円先輩を捉えている。


 スッと、円先輩は息を吸った。


「池田先輩、まず、あそこにいるお二人、お母さんとお姉さんと言っていましたが、あれは嘘ですね?」


 二人を指さしながら言ったその言葉は、私の予想を超えていた。


「彼女らは、察して誘拐犯といったところでしょうかね」


「おおっと、ま・ど・か~。その前に俺の調査結果を言わせてもらおうか」


 しゃしゃり出てきた拓哉先輩は、まるで主役は俺だと言わんばかりに胸を張っている。そして、懐からB5版ほどの黄色のメモ帳を取り出し、その表紙をペラッと捲った。


「俺の調査によると、池田先輩、あなたには【家族】と呼べるのは、実のお姉さん、ただ一人ですね。あなたは幼少の頃に両親が交通事故で亡くなり、親類とも疎遠であったことから児童養護施設に預けられて育った。孤独な生活の中で育ったあなたにとって、唯一の娯楽が音楽だった。施設を退所したあなたは、アパートで独り暮らしをしながら、オルガンの研究に励んでいる」


「違う。俺には家族がいる。そこにいる母さんと姉さんがそうだ」


「違うね!」


 私は驚いた。いつもへらへら愛想笑いをしている拓哉先輩にしては、断固とした意思をもった拒絶の言葉だったからだ。


「違う……と、いうと?」


 飛鳥先輩は、どの出演者のドレスよりも華やかなドレスを揺らしながら拓哉先輩に問いかけた。


 私の頭の中に童謡『赤とんぼ』の三番が流れた。あの歌詞は――


「そう、あなたのお姉さんは誘拐されたんだ。そこにいる二人にね!」


 そう、拓哉先輩が断言するか否や、お母さんとお姉さんは踵を返して通路へと駆け出した。


「あ、待て!」


「誰が待つかよ! バーカ!」


 そう、そばかすのお姉さんが言いながら、あっかんべーをしてくる。


「あんたの姉は、殺して川にでも捨ててやるからな!」


と、お母さんは走りながら言い放つ。


反応しきれていない我々。しかし、そんな私たちに代わって二人の前に立ちはだかったのは、誰であろう、中川さんだった。中川さんはその小柄で一見して華奢な風貌とは裏腹に、すれ違いざまに二人の首根っこを掴んだ。


「お主たち、その邪な心を神聖なる芸術の場に持ち込みよって! 成敗じゃ」


 中川さんは二人を、一瞬だが無重力であるかのように持ち投げると、豪快に床に叩きつけた。二人は失神したようで、その場に力なく四肢を放り出していた。


 私はこの老齢の管理者に畏怖の念を抱いた。


「姉さん……姉さんの居場所は……?」


 池田先輩が狼狽する。あまりの展開の早さに付いていけていないのだ。


「大丈夫です、池田先輩。こんなこともあろうかと、こいつらの素性については調べ上げています。こいつらは巷で暗躍している女強盗犯。こいつらのアジトに、先輩のお姉さんは捕らえられているんです」


「どうして、そんなことまで分かるんです?」


 私は率直な質問をぶつけた。なぜそんなことを円先輩は知っているのだろうか?


 すると、円先輩は「フフン」と鼻を鳴らした。この人を見下す態度がよくない。私は改めて【ユグドラシル・円】と呼ぶことにした。


「なぜわかったか? そんなの簡単だ。尾行していたんだからな」


「尾行? 誰を?」


 私の問いに、円先輩が指を立てて応える。


「池田先輩を尾行するこいつらをさ!」


 床に伸びきっている二人はまだ意識を取り戻さない。


「尾行の尾行。まるで漫画みたいだが、それが功を奏した。こいつらのアジトは郊外のアパート。感付かれないように探ると、部屋の中には両手足を縛られた女性がいた。それが恐らく、池田先輩のお姉さんでしょう」


 尾行の尾行。だから円先輩は電話連絡をしなかったのだ。もしも犯人たちに気付かれたら、一巻の終わりだからだ。


 私たちは目の前の犯人たちを縛り上げ、駆け付けた警備員に突き出した。ここから先は警察の登場だろう。




  ***




「ありがとう……」


 そう、安堵したのか力なく言ったのは、誰であろう池田先輩だ。先輩は大粒の涙をポタポタと重力に任せて流していた。それから、蝶ネクタイを力任せに引き千切ると、思いっきり踏みつけた。その瞬間、ネクタイから「ジャリ」となにかが潰れた音がした。


「これで、本当の自由です。姉さんも時期に助け出されるでしょう。環君、石井君、大地字さん、和田さん、本当にありがとう」


 池田先輩は、再び大きく頭を下げた。


 円先輩が応える。


「池田先輩。感謝するのは後ですよ。会場が待っています」


 放送が鳴る。


《会場の皆様にご連絡です。会場内での喫煙、写真撮影、飲食、飲酒、録音等はご遠慮ください――》


「では、俺たちは席に行きますので。先輩の演奏、楽しみにしているんですからね」


「頑張ってください、池田先輩」


 そう言い、立ち去る私たち向け、池田先輩はまた一つ大きく頷いた。




《続きましては、大学院修士課程二年鍵盤楽器専攻、池田博人による演奏です》


 会場の拍手に応えるように、ステージ中央に池田先輩が現れる。


 会場の照明のトーンが下がる。


 輝く光の中を、池田先輩は一歩一歩進み、ステージに据えられているパイプオルガンへと腰を据えた。


 決して大きくはないその背中に、二千人を超える視線が注がれる。


 ――ジャン!


 鍵盤を叩いた。いくつものパイプから空気が、音が紡ぎだされ、会場の隅々にまで満ちていく。


 私はもちろん、多くの人々がその音圧に圧倒され、瞬時に魅了される。


〝パイプオルガン、伊達じゃねえな″


 そう言っているような、感嘆の息が漏れるのが聞こえたような気がした。


「バッハの『トッカータとフーガニ短調』だ」


「そうなんですか? バッハって、音楽史に出てくるバッハですよね?」


「そうだね、ミホちゃん。あ、豆知識でいうと、バッハはドイツ人で、ドイツ語で【バッハ】は【小川】のこと。だから、彼は【小川さん】なんだね。なんだか身近に感じない?」


 拓哉先輩はなんだか自慢げに言ってきた。だが【小川さん】というのは私の中で少々ウケた。思わず笑ってしまいそうになる。


 と、円先輩を見ると、まるで龍に襲いかかる虎のような形相で拓哉先輩を睨みつけていた。


 だが、その視線は拓哉先輩を飛び超え、その隣の飛鳥先輩を射抜いた。飛鳥先輩はムンクの叫びが如く、石にのように固まっている。


「そ、そうですね。【小川さん】いいですね……。円先輩はバッハに詳しいんですか?」


「詳しいというほどではないが、パイプオルガンといえばバッハでこの曲というほどメジャーだな。音楽と美術は同じ芸術という舞台にはあるが、そこには芸術論とともにそれぞれの違い【個性】がある。それを学ぶことで、より深めて考察を行うことができる」


 そこで、私はあることを思い出した。


「円先輩、なぜ犯人たちは池田先輩を狙ったのですか?」


 すると、円先輩は薄暗闇でもわかるぐらい目を輝かせた。


「池田先輩の【池田】は養子縁組をした家庭の名前だ。本当の名前は成田屋博人。そう、お前がお菓子で使ったリキュールを始めとする、酒造メーカーの御曹司さ」


「えええ!」


 私は反射的に声を上げたが、どうにか堪えた。


「そんなにすごい人なんですか、池田先輩は」


「ああ、だから犯人たちの動きも分かりやすく、こちらも手を打つことができた、というわけさ」


 そのときだ、鍵盤の上を池田先輩の指が、滑らかに、しかし確実に音を響かせて、猛スピードで下って行った。そして、その後に奏でられたのは――


「これ……『赤とんぼ』だ」


 私の目には、古き良き時代の金色に輝く田園風景が映っていた。北からの涼しい風に乗って、穂先に止まっていた赤とんぼが一匹、空へと舞いあがる。


 予定にはないアレンジだったが、どの人も文句を言わなかった。その代りに感嘆の息を漏らす。皆の心が一つとなった。


「こんなパイプオルガンもいいもんだな」


「そうですね……」


 パイプオルガンを演奏する池田先輩。彼はまさしく、歓喜に沸いていた。




〈了〉

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