現代アート演習~ 前々日の聖夜~ (第1話)
いままつ
クラリと、体が傾いた。
「あれれれれ?」
私は、どうにか踏ん張って倒れずに済んだ。
時刻は朝の八時。一時限目の現代美術論の講義を受けるために通学バスで大学のロータリーに来たときだった。
私の横を、ゾロゾロと学生たちが歩いていく。
「ミホ、おはよ!」
そう、バスから降りた直後に話しかけてきたのは友人の由里だった。どうやら由里も同じバスに乗っていたようだ。彼女は自慢の長い髪をポニーテールのように後頭部で一束に結っていた。
「……おはよ、由里」
すると、第六感の鋭い彼女がピクンッと反応した。
「どうしたの? ミホなんか元気ないね」
「え? う、うん。ちょっと今日は具合悪くて……」
「無理しちゃダメだって。ゆっくり休まないと。飼い猫のでですけみたいに毎日ひっくり返っていろとは言わないけどね、アハハ」
私は「ハハハ」と力なく応える。笑い返す余力も少ないのだ。
由里に連れられ大学の門をくぐる。門の時計は八時を示していた。
「う!」
「え、なに? ミホ、吐きそう?」
「ううん。でも、なんか気持ち悪い」
「どうしよう……。もう講義始まるし、どこか静かに休める所があればいいんだけど」
由里のその言葉で、私はある部屋を思い出した。
「あ、やっぱ、吐きそう――」
「ゲッ! マジで!」
「由里、保健室に連れてって」
「保健室? うちの大学にあったっけ?」
「うん、管理棟の一階にあるから……お願い」
特別教室棟は、ここから歩いても五分はかかる。私は耐えられるかどうかが問題ではあるが。
「マジかよ~……」
でも、そこは姉御肌の由里だ。彼女は頷いた。
「わかった。連れてってあげるから、それまで辛抱して!」
私は、ゆっくりと頷き、歩を進めた。
「あ、先にトイレにお願い」
***
「熱は……三八.四度。しっかりあるわ。マスクしてね。吐気ある?」そう、保健室の先生は問いかけてきた。
保健室に据えられたベッドに横になりながら、私は目を開く。保健室には私と先生の二人だけ。講義をする教授の声も、鉛筆の筆記音も、石彫をする音も聞こえなかった。
「いえ、今はありませんが、先ほどまで吐きそうでした」
「そう。十二月に入ってインフルエンザ、溶連菌、食中毒も増えているから気を付けないと。これから病院に行けそう?」
私は頷いたが、起き上がろうとすると、頭の中で保健室の中が歪んで見えた。
「一人じゃ無理そうね。ご両親は近所?」
私は首を振った。遠方というほど離れていてはいないが、両親は頼りにしたくない。その思い一つで一人暮らしをしている。一種の反抗といえばそれっきりなのだが。
「お友達では、誰か病院に連れて行ってくれそうな人はいる?」
私は頷いた。
私と同じ油絵学科の奥由里と、彫刻科の風間カンナ。彼女らは何にも代えがたい私の親友だ。彼女らに頼めば、きっと病院まで送り届けてくれるだろう。
だが、ここで私はあることを思い出した。カンナはこの大学まで工具を運んだりする目的で車での通学をしている。彼女に頼めることができれば、車で病院まで行くことができるだろう。
しかし、だ。今日は十一月三日。彫刻作品の提出期限が迫っており、カンナが切羽詰まって作品作りに追われているのを、私は知っていた。
ある意味、いまの私よりも窮地に追いやられている彼女の貴重な時間を、私が奪ってしまうのではないかということに、私は罪悪感を覚えた。
それでは由里に頼むか? そう考えたが首を振った。由里は一時限目から五時限目まで授業がぎっしり詰まっている、通称〈フルコマ〉の日だ。私にかまっている余裕は無いはずだ。
私は意を決した。
「あ、あの先生。私、大丈夫です」
そう言い、私はベッドからスルリと降りた。
「え? ちょっと、大地字さん。無理しないで」
「いえ、大丈夫ですから。では」
荷物を手に取り、先生の制止を振り切って保健室を後にした。
それから、私は吹き抜けになっている二階ロビーへと赴いた。ここは大教室前ということもあって、ベンチや自動販売機のある、ちょっとした休憩スペースとなっていた。
その一角のベンチに腰掛ける。「ふー……」と、深く呼吸をした。そうすることで、幾分か、気持ちが楽になるような気がした。
「どうやって病院行こうかな……」
それから、しばらく目の前の学生たちの行き交う様子を見つめていた。
「一時限目の現代美術論、バックれちゃったなぁ。由里に後で課題を聞いとかないと」
他にも、由里と重なって履修していた二時限目の現代アート演習と、四時限目のデッサンⅡについても、出席できないことの不安があった。しかし、この体調で授業には出られないだろう。それは、私自身が一番よくわかっていた。
どうにかして病院に行かなければ……。
そう、思っていたときだ。
「あれ? ミホちゃん?」
顔を上げる。そこには、全身を蛍光紫色のジャージで包んだ飛鳥先輩がいた。
飛鳥先輩は以前、私の油絵を無断で複写し、本物と偽って提出した事件の犯人だ。しかし、彼女の事情を知った私は協同で作品を作り上げることにした。それからというもの、公私ともども分かち合える仲となった。
私は飛鳥先輩のジャージの色に戸惑いつつ、事の成り行きを説明した。
「ダメじゃない、こんなところにいちゃ!」
珍しく飛鳥先輩が叱咤してきた。確かにそうなのだが。そう思っていると、飛鳥先輩が思いがけない提案をした。
「ミホちゃん、私が病院まで連れて行ってあげる」
私は、思考経路の麻痺した脳で一生懸命にその言葉を理解しようとした。
先輩が……病院に……連れて行く?
「あの、先輩。私もしかしたら感染症かもしれないので、電車とかバスは控えたいんですが――」
すると飛鳥先輩は、私の目の前に指を一本立てて見せた。
「もちろん、車よ。私が車通学しているの、言ってなかったっけ?」
「初耳です」素直に応える。
「とにかく、送って行ってあげるから。こっちこっち」そう言われて私は腕を引っ張られる。
行きついたのは大学の駐車場の端っこ。そこに一台の軽自動車が停まっていた。その車はパッションパープルカラーだった。
病んでいるのだが、ハッキリ言って乗りたくなかった。
「さ、病院行きましょう」
(続く)