現代アート演習~ 前々日の聖夜~ (第2話)
いままつ
「インフルエンザですね」
白衣に身を包んだ医者は、端的に告げた。ここは大学から車で三十分ほど走ったところにある市立三田病院の診察室だ。白以外の色を知らないこの空間を、私はどうしても好きにはなれなかった。
「そうですか……」
「念のために点滴をしてからご帰宅ください」
そう言うと、担当医は、ペコリと頭を下げた。どうやら退室をするタイミングのようだ。
「ありがとうございました」
私は立ち上がると、看護師に支えられながら、診察室を後にした。
途中、待合室にいる飛鳥先輩に会った。
「どうだった?」
「インフルエンザだそうです。これから点滴です」
「そっかー。ついにインフルが流行り出したのね」
私は、コクンと頷いた。私が思っていたよりも、ずっと先輩は楽観的なようだ。インフルエンザだといっているのに、どんどん近寄ってくる。
「あ、私ここで待っているから。ゆっくり休んできていいわよ」
「え? いえ、飛鳥先輩にうつしちゃ悪いですから、帰っていいですよ!」
すると、飛鳥先輩は首を横に振った。
「ダメダメ。家に帰れなくなっちゃうでしょ」
確かに、この病院から自宅のアパートまで自力で帰る気力も体力もない。タクシーで帰るとなると何千円もかかるであろう。学生としては痛手である。なので、必然的に帰る方法は、先輩の運転する軽自動車しかないのだ。
十一月だというのについてない。あと少しでクリスマスだというのに、神様は『インフルエンザ』という贈り物をよこし、友好関係は築けても未だそのスペックが謎だらけの飛鳥先輩に命を預けなければならない運命を課すなど、どうかしている。そう、点滴を受けながら病院のベッドで神様を呪った。
点滴をすること二時間。針が抜かれ「立っても大丈夫ですよ」と看護師さんに言われ「ありがとうございました」と礼をした。
廊下に出ると、廊下の長椅子によだれを垂らして眠っている飛鳥先輩がいた。なんとも気楽であるが、点滴の効果か、私の体はピンピンとしていた。
さて、どう飛鳥先輩を起こすか。悩んでいると、数メートル先に廊下から病院の中庭を覗き見る一人の少年がいた。年齢は五歳ほどであろうか。特徴的だったのが小さな車椅子に乗っていたことである。
そっと近寄る。
「僕、何しているの?」私は少年に話しかけた。
「サンタさんが来るのを待ってるの」少年は言う。
「サンタさん?」頭のカレンダーをたどる。クリスマスまではあと一ヶ月もある。「サンタさん来るの? ここに?」
「うん!」屈託のない返事。「ここに来るんだ。きっと来てくれるんだ。サンタさんがたくさんのプレゼント持って、トナカイと、雪だるまと、おっきなクリスマスツリーと、あとね――」
そのときだった。「すばる」と廊下の奥から三十代と思しき女性がやって来た。女性は酷くくすんだ色の服を身に着けていた。
「お姉さんに迷惑でしょ。さ、部屋に戻るわよ」
「うん。じゃーねー、お姉ちゃん」そう手を振って、すばる君は車椅子を押されて去って行った。
私はベンチで眠りこけていた飛鳥先輩を叩き起こして、帰路に着いた。
***
その後数日は、やはり具合が悪くて大学を休み、結局大学に行けたのは五日後だった。それはつまり芸犯に顔を出すのも五日ぶりだということを意味していた。授業は由利のノートテイクで通したし、欠席自体も病院からインフルエンザの証明書を出してもらったので、欠席扱いは無効になるとのことだった。
何かスイーツ用意しとけばよかったかな? そう思いもしたが、体調が万全でない今の私には、そんなスイーツなど作っていられるほど体力的にも精神的にも余裕はなかった。
「おつか――」と部室のドアを開けながら言うと、すかさず「帰れ」という言葉が私の耳に飛び込んできた。
「か、帰れ?」
そう、私は声の主である芸術犯罪解決サークル、通称〈芸犯〉部長の環円先輩を見ようとした。が、その円部長は窓辺のチェアで夕日に黄昏ているのか、自分に酔っているのか、左手に閉じた文庫本を持ちつつ、顔は窓の外に向けられていた。
まあ、「帰れ」という部長命令なのだから従うしかない。
「それじゃ、し――」とまで喉に出かかったのだが、そこにひょっこりと石井拓哉先輩が顔を出した。どうやら皿を洗っていたらしい。
「お! ミホちゃん。体調回復したかい?」
「ええ。どうにか。……って、何で私が体調崩していたのを知っているんですか?」
拓哉先輩はけたけた笑いながら「飛鳥さんに聞いたのが確実だけど、それよりも、円の慌てっぷりと言ったら。『ミホが――』」
そこまで言ったところで拓哉先輩の顔面にメリッと円先輩の右の拳が喰い込んだ。そのまま何の抵抗もなく後方へと倒れる拓哉先輩。南無阿弥陀仏。
「きょ、今日はスイーツはないのか?」そう、円先輩が訊いてくる。
「ありません。病み上がりなので、勘弁してください。咳がまだ止まらないので、これから病院に行こうと思ってました」
「大丈夫か? 一人で行けるか?」円先輩が訊いてくる。
「はい。バスの時間もチェックしたので」
すると、鼻血を垂らした拓哉先輩が「ミホちゃん。スムーズに病院に行きたかったら、円の車に乗って行った方がいいよ。けっこうバスとかは遅れるから」
「え⁉ 円先輩、車通学なのですか?」私がそう詰め寄ると「あ、ああ」と返答した。だから最終バスに円先輩の姿がなかったのだと、合点がいった。
「ま、まあ、大地字が必要なら、送ってもいいが……」
実際のところ、三田病院まではバスを三回乗り換えしないといけなかったから、この話はとても助かる。
「よろしくお願いします、円先輩」私は頭を下げた。
***
「ありがとうございました」と言い、私は診察室を出た。すると、廊下のベンチに座っていた円先輩が駆け寄って来た。
「どうだった? 医者はなんて?」
「気管支炎だそうです。薬を飲んで、安静にしていれば大丈夫だそうです」
「そうか、よかったな」円先輩。
「よかった、よかった」拓哉先輩。
どうやらこの病院の近くに拓哉先輩のアパートがあるらしく、拓哉先輩はちゃっかりと付いてきていた。
それから会計を待っていると、廊下に見覚えのある車椅子の男の子がいることに気が着いた。
―—あの子……。
私は「すばる君」と呼ぶ。すると、すばるはその小さな瞳をくりくりと回して私を見た。ジッと見てから「お姉ちゃん!」と呼んできた。どうやら忘れかけていたようだ。
「何見てたの?」私は問いかけた。
「中庭だよ」
「そう言えば、サンタさんが来るって、言っていたね」
すばるは「うん!」と頷いた。
「ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る♪」突然、拓哉先輩が歌い出す。置いてきぼりを喰らう周囲。
「すばる、クリスマスの歌と言ったら『ジングルベル』だろ? 知らないのか?」
「お兄ちゃん、誰?」ごもっともな質問だ。
「そこのお姉ちゃんのお友達だ。ほら、すばる! 歌ってみろ」
すばるが車椅子を揺らしながら「ジングルベー、ジングルベー、すずがーにゃる~♪」
私は、元気に歌うすばるの姿を離れた場所からうかがう女性に気付いた。
「あの、すばる君のお母さん、ですよね?」
「え、あ、は、はい」しどろもどろに応える母親。今日もくすんだ色の服を着ている。
「どうかされたんですか? こんなに離れたところから見ていて」私は刺激しないように問う。
「い、いえ。久々にあの子が楽しそうに歌っているなと思いまして……。あの子、入院してからというもの、塞ぎこんじゃって……」
「あの、すばる君はどうして入院しているんですか?」私はふと思ったことを訊いた。
「わかりません。もともと虚弱体質なんです。何かしらあれば、このように入院しているんです」
「そうですか……」私は引っかかるところがあったが、「あの、もういいですか? 夕食の時間なんです」
「あ、はい。ありがとうございます」
母親は、拓哉先輩と『赤鼻のトナカイ』を楽し気に歌っているすばる君に近づいた。
「すばる。ご飯の時間よ」
「えー。……はーい」
母親は車椅子のグリップを握るとUターンさせた。
「バイバイ、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
廊下の奥に二人が消えると、円先輩が「怪しいな」と零した。
——―怪しい?
この言葉は円先輩のスイッチが入ったときの言葉でもある。何かしら事件の臭いを嗅ぎ取ったのであろうか。
「確かに怪しいな」拓哉先輩がいつの間にか隣に立っていた。拓哉先輩も何かしら嗅ぎ取ったのか?
「ところで、大地字は『現代アート演習』を履修しているか?」突然何を言い出すのか。
「はい。絶賛勉強中です」そう答えると、「うむ」とだけ円先輩は言った。それから「一度大学に戻るぞ」と言い出した。
「え? な、な、何故ですか?」
「そーだ、そーだ! 何でだよ。目的ぐらい言えよ」拓哉先輩は一気に沸騰した。
「お前ら、すばる君の夢を叶えたくないか?」円先輩はニヤリとほそく笑んだ。
(続く)