たまらず立ち上がったのはミラで「あの、わたし……そろそろ失礼いたしますね」と、この場を去ろうとしたとき。
「黙って座っていなさい。この場でもっとも爵位が低いのは、貴女よ。立場をわきまえなさい」
冬の嵐よりも冷たいイザベラの声が響いた。
有無を言わさぬ口調に、言われたミラも、それを聞いたクリストファーも、鼓動が一気に跳ね上がるのを感じた。
「お、おい、イザベラ、そのような口の利き方は……」
間髪入れずに、ミラから視線を外すことなくイザベラは言った。
「誤解なきように。殿下にではなく、わたしは子爵令嬢に言ったのです。侯爵家のわたしが話している途中です。下位の子爵家が許しもなく口を挟み、さらには席を立つなど、もってのほか。貴族ならば、5歳の子どもでさえわかることです」
そこで、ふっと息をつくように、イザベラは厳しい目をゆるめ、ふたたびクリストファーへと顔を向けた。
「それとも、殿下。学園内では、爵位階級の上下などないと、明言されますか。それならば、かまいません。ただし、その場合は、わたしも爵位という壁をなくした状態で、殿下と話し合わねばなりませんね。『王族に対して云々』は、もう使えなくなりますがよろしいですか」
クリストファーの目が、大きく見開かれたままになったのをみて、イザベラは、すっかり興味をなくした顔で視線をそらした。
「ああ、殿下はどうぞ。席を離れたいときに離れてくださってけっこうですよ。そのあとでわたしは、ミラーラ子爵令嬢とゆっくりお話しをさせていただきますので」
ついに、ミラが泣きだした。
それを何の感情も浮かべずに見つめるイザベラに、久しく感じていなかった恐れを、クリストファーは覚えた。
大粒の涙を流す子爵令嬢と口を詰まらせた第二王子。それを、どこまでも冷めた目で見つめる侯爵令嬢。
少し離れた柱の陰からハラハラ見ていたのは、伯爵家の子息であり、学園に通いながらクリストファーの側近の役目もつとめるエリオットだった。
「お話中に……失礼します。殿下、王城より急ぎの書簡がきておりまして」
たまらず助けに入ってみたものの、すぐに後悔した。
この場に入ってきた異物に対する、侯爵令嬢イザベラの静かな怒りが、ひしひしと伝わってくる。
ああ、ダメだ。これは、僕ごときがどうこうできる状況ではなかった。
第二王子と子爵令嬢のもとに、いつもちがう面持ちの侯爵令嬢イザベラが、颯爽と近づいていったときから、悪い予感はしていた。
吐き気をおぼえる胃のあたりを押さえたエリオットは、胸中で毒づく。
だから、あれほど言ったのに!
この一年、とくに度が過ぎてしまっていたクリストファーに、側近として学友として、ことあるごとに「まずいぞ!」と伝えてきたのに、
「うるさい」
そういって取り合わなかったのはクリストファーであるが、側近としてそれを戒められなかったのは、まちがいなくエリオットの落ち度であった。
どうして、ここまでこじれてしまったのかと、いまさらながら思う。
すべての元凶は、まぎれもなくこの王子ではあるのだが……
そうなってしまった過程をしっているだけに、エリオットもまた看過してしまったのだ。
クリストファー本人も、こののままではダメだと、頭ではわかっているくせに、イザベラ嬢を前にすると態度が硬化してしまい、一向に改善できないでいた。
そうしてついに……婚約者の逆鱗に触れてしまった。
割って入ってきた側近に向けられる侯爵令嬢イザベラの目は、エリオットがおよそ三年ぶりに見るものだった。
王太子の婚約者候補時代、だれが相手であろうと一歩もひかずに、己のすべきことに邁進していたイザベラ。
未来の王太子妃になるべく、英才教育をほどこされた才媛が――さて、コイツをどうしてやろうかしら――と、金色の瞳を細めている。
怖い。とにかく怖い。
侯爵令嬢イザベラの恐ろしさを、数年前、その目に焼き付けているエリオットは、冷や汗が止まらなくなっていた。
自分の背後では、ガタガタと音をたて、立ち上がったクリストファーが小声で「ここは頼んだ」と、ひとこと。
泣いている子爵令嬢をつづけて立たせ、
「泣くな、ミラ嬢。もしかしたら、書簡といっしょに夏の舞踏会の招待状が届いているかもしれないな」
とかなんとか。
棒読み気味に言いながら、ふたりでテーブルから離れていった。
余計なことを言うなーッ!
自ら生贄になることを選んでしまったエリオットは、胸中で泣き叫んだ。