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第6話 側近



 幼いころより王城で兄弟のように育った同い年のエリオットは、まずは水差しからグラスに水をそそぎ一気に飲み干した。


「いったい、何があった?」


 待ちきれずにクリストファーが訊くと、大きく息を吐きだし、空になったグラスにふたたび水を満たしたあと、めずらしく敬語を使わずに話しはじめた。


「マズイぞ。本当に、マズイことになっている」


「どのあたりが、どうマズイんだ?」


 もっと詳しく話せというつもりで訊いたのに、


「全部だ!」


 エリオットの顔は、切羽詰まっていた。


「殿下は、イザベラ嬢との婚約破棄を望んでいるのか?」


「……いや、これは王令だからな。望んでどうこうできる問題では」


「そうではなく、正直な殿下の気持ちを、僕は聞きたい」


 自分の気持ち、それが分かれば苦労などしない、とクリストファーは言いたかった。


 イザベラに対する気持ちは、とにかく複雑だ。


 顔も見たくないと思う日もあれば、しばらく見ていないと気になる日もある。


 イザベラを前にすると腹が立つことは多く、ついつい口調が荒くなってしまうが、饒舌なはずの彼女がグッと押し黙るのをみると、妙な胸騒ぎを覚えることもある。


 クリストファーの答えを待たずに、幾分、落ち着きを取り戻したエリオットが真剣な顔を向けてきた。


「今日のイザベラ嬢を見て、僕は感じました。イザベラ嬢は、婚約破棄を望んでいるのではないでしょうか」


「まさか! 王族との婚姻だぞ」


「しかし、だれが見ても殿下は……イザベラ嬢との婚姻を望んでいないと思うでしょう」


「それについては……」


「そのことを何よりも感じていらっしゃるのは、ほかでもないイザベラ嬢です」


「…………」


 いまさらになって、罪悪感らしきものが芽生えてきたことに、クリストファーは目を伏せた。


 それを見たエリオットの顔にも、後悔が浮かぶ。


「申し訳ありません、殿下。こうなる前に、僕が言うべきことでした。ここ最近の殿下の行動は、あまりに度を越していたと思わざるを得ません。とくに三か月前、婚約者がいながら親族以外の女性の誕生日に装飾品を贈るなんて……」


 その日のことは、クリストファーもよく覚えている。


 休日、ミラに誘われ町に出かけ、


「わたし、明日が誕生日なんです」


 請われるがまま、誕生日のプレゼントを買い与えてしまった。


 露店で売られていた商品は決して高額ではなかったけれども、金額の問題ではないということは、クリストファーにもわかっていた。


「翌日、ミラーラ子爵令嬢は、殿下にプレゼントされたのだと言って、学園で髪飾りをつけていました。それを見た、イザベラ嬢はどう思ったでしょうか。僕の記憶ちがいでなければ、殿下はイザベラ嬢の誕生日に、今年も花ひとつ贈られていません」


 イザベラに対する後ろめたさを感じると同時に、クリストファーの脳裏には数年前の記憶がよみがえった。


 あれはイザベラが、兄の婚約者候補だったころ。


 視察の土産だと言って、兄が紅茶を渡しているところに出くわしたことがあった。


 嬉しそうに紅茶の缶を胸に抱いて「ありがとうございます」と嬉しそうにしていたイザベラの顔が、忘れられない。


 紅茶ひとつで、イザベラを笑顔にするこができていた兄のあとで、無理やりあてがわれた自分の贈り物など……そう思うと何も選べなかった。


「イザベラは……僕からのプレゼントなど望んでいない」


 エリオットは大きく首を振る。


「だからといって、婚約者以外の女性の誕生日に、髪飾りを贈っていいという理由にはなりませんよ。それから、イザベラ嬢が望んでいないというのは、殿下の憶測でしかありません」


 エリオットがここまで強い口調で話すのは、何年ぶりだろうか。


 言い慣れていない本人も喉が渇いてしょうがいないようで、グラスの水をまた一息に飲み干した。


「これまでずっと、おそばに仕えさせていただきましたので、殿下の複雑なお気持ちも、少なからず理解いたしております。しかしながら、いまは……とにかく後悔しています」


 うなだれた側近が、テーブルに空のグラスを置いた。


「殿下との婚約が王令であることは、イザベラ嬢が一番よく分かっていらっしゃるでしょう。聡明すぎる方です。それこそ、政治的な思惑が絡む、他国の王族との縁談でもない限り、解消が難しいことも……よく理解していながら、今日、行動にでられたのです」


「……でも、いきなり過ぎないか。急に人が変わったようだった」


「いきなり、でしょうか。これまでも幾度か、殿下とお話をされようとなされていました」


 そこは、クリストファーも否定できない。


「それに人が変わったようだと、殿下はおっしゃいますが、僕には……イザベラ嬢が本来の気質に戻っただけのような気がしてなりません」


 その言葉に、リストファーはハッとなった。


 たしかに。


 以前の彼女は、令嬢だと侮る政務官たちに、圧倒的な知見を披露して、ことごとく論破していたし、ときに彼女を貶めようとする行儀作法の貴族夫人などを相手に、巧みな話術で言い負かしていた。


 自分を侮る者、見下す者に対して、イザベラは容赦しなかった。


「殿下、どうか。早急にイザベラ嬢とお話をされてください。本当に手遅れになってしまいます。対面にてお互いの気持ちを話し合われれば、まだ間に合うかもしれません。しかしそれには殿下からの歩み寄りが必要です」


 これが最後の機会になるということは、クリストファーにも十分わかっていた。早急にしなければならない、ということも。


 ただ、このときのふたりが間違っていたのは、明日でいいと思ったことだった。


 嵐はすでに、北から向かってきていた。






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